▲▲ ▼▼

111. 破傷風菌はカワイィー.10-1-98.

その1.学生実習のヒトコマ

大学の微生物学ではどのような内容の教育をしているのか、学生はどのような実習を受けているのか、さらにどの程度の研究をして卒業するのかを教えて欲しいとの質問をお母さん達から受けることがあります。これは、子供の受験用知識としてのみならず、生活に密着している微生物について自分も知りたいという欲望の表れのようです。これらの質問の趣旨に直接的な回答ではありませんが、私がいまの学生について感じている事柄などについて、書いてみたいと思います。

 破傷風という恐ろしい病気は、太鼓のバチ状の形をしている破傷風菌という細菌によって引き起こされるものです。この破傷風菌の培養法を発見したのは、世界の細菌学者・北里柴三郎博士で、北里大学の学祖です。

 私の教師としての専門は微生物学でありますから、学生に対して病気の原因になる微生物学の講義と実習を担当しています。微生物学の学生実習には、北里柴三郎先生の伝統を受け継いでいる特別な背景が北里大学にはありますから、破傷風菌を取り扱う項目が実習に入っています。私達教師は、学生達に病気を起こすかもしれない微生物であっても、安全に取り扱うための病原菌の操作法を先ず教えます。消毒、滅菌と無菌操作の技術は、自分の健康を害しないだけでなく周囲の環境も汚染させないために、重要な学習項目です。

 ある日の実習で学生達は、特殊な技術を使って破傷風菌の標本を自ら作製し、顕微鏡の焦点を少しずつ合わせていきます。すると自分の目のなかに太鼓のバチ状をした破傷風菌が突然飛び込んできます。学生は、破傷風菌の病気を起こす力が極めて強いことをすでに講義されて知っていますから、この瞬間まで恐怖からくる極度の緊張感で気持ちは張りつめています。破傷風菌を自分の目で実際に確認した瞬間、「ウォー」と言葉にならないため息のような声が実習室のいたるところから聞こえてきます。自分は科学の実験を今やっているのだ、という充実感を自分の目で感じているのだと信じたいのです。ところが教師が考えるような雰囲気ではないようです。

その2.破傷風菌はカワイィー.

 さて、恐怖の病毒の代名詞になっている破傷風菌を自分の目でとらえたとき、先ず最初に何を考え・感じたかを学生に質問してみた。「ゴミのように観えるバチ状の小さな粒にヒトをも殺す力があるのはとても不思議だ、これが破傷風の病原体であることをどうすれば証明できるのか」など多少科学的対話の出発点になるような発言を暗に期待していたのだが、「思ったよりカァワユイー」とワンパターの発言が多かった。

 小さな物を、「カワイイ」という事はあるでしょう。しかし、恐怖の微生物、悪病神の病毒に対して「カァワユイー」とはどうした感性なのでしょう。表現力の乏しさに非常に驚かされるのです。どうすればより科学的な発言・発想ができるようになるのでしょうか。

その3.感性のみならず気質も変わりました.

 ここに記載した実習風景は、もう十数年前までのことです。破傷風菌を取り扱わせる実習は、現在の実習項目には入れてありません。実習させられない環境が残念ながらあるのです。それには、次のようないくつかの理由が考えられます。

 十年二十年前の学生が実習できた試験項目の半分程度しか、現在の学生達は実施てきなくなりました。待ち時間などを有効に利用する目的で二つの項目を並行的に実験する予定をたてると、頭がゴチャゴチャすると言い、不注意による失敗が多くなります。そのため、実習項目を少なくせざるをえないのです。

良し悪しはべつにして、リーダーまたは纏め役を努める学生が少なくなりましたので、誰かが始めるまで様子を眺めている学生の数が多くなったような気がします。そのため、昔と同じような項目と数の実験をするには、昔の学生より時間がよく長く掛かります。

実習期間中または実習終了後に、ウイルスを扱ったのでカゼになったまたは皮膚にオデキができた、細菌をいじったのでノドが少し痛い等体調が普段と少し違うと、微生物学の実習でかかったと何でもかんでも微生物学実習で用いた微生物が原因と言う学生が時として出てきます。

その4.教育にも油断は大敵です.

学生に対して表面的には、「病原性が全く無い微生物を扱いますから、どんな取り扱いをしても絶対に病気になる可能性は無く安心して下さい」とは決して言えません。病気を起こす微生物の安全な取り扱いかたを学ぶのですから、安全な微生物を撰んで用いますが扱いかたが悪くても絶対に病気を起こさないとは保障できません。「注意を良く聞き、教師の行うデモを良く観て、さらに実習書を良く読んで、慎重に取り扱いましょう」と説明しています。

現実には、私達教師は、一昔と違って実習に用いるウイルスや細菌は病原性が無いか極めて弱い株をできるだけ用いるように努めています。例えば、結核菌を取り扱うときは強毒な結核菌の代わりにヒトに注射しても安全なワクチンのBCGを用いたり、インフルエンザウイルスではヒト型ウイルスの代わりにトリ型ウイルスを用いたり、ヒトを簡単に殺せるボツリヌス菌を顕微鏡で観察する時は加熱して殺した菌液を渡したり、小児麻痺を起こすポリオウイルスでは弱毒ワクチン株のウイルス(遺伝子の構造が明確になっている)を使用する等の注意を払っています。

これらの注意は、責任回避の為ではなく、学生という初心者の健康管理が最大の目的です。その上、実習で用いた微生物と巷に存在する微生物を確実に識別できるよう努めているのです。これには訳があります。

大学は学生の健康と生命に対して責任を持っています。しかし、万が一にも不慮の事故が起こったときの事を考慮して、大学は全学生に傷害保険を掛けています。実習中にヤケドをした場合には、保健室で手続きをした後大学病院の健康管理センターで手当てをして貰えば、全て傷害保険が適用になり、さらに傷害の程度に応じた補償金もでる仕組みです。

ところが、「実習で用いた微生物にかかって病気になった」と保健室に行っても、実習責任者が因果関係を証明する「事故証明書」を書かない限り傷害保険は適応されないのです。私達は、上にも書きましたように、細心の注意を払って用いる微生物を選択していますから、そう簡単に感染が起こるとは考えにくいのです。私が納得できないとして「事故証明書」の記載と押印を拒否し続けると、ときに厄介な困った問題に発展する可能性がゼロではあります。

それで、面倒なことにならないよう充分過ぎるくらいに注意を払うと同時に、厄介で危険な実習項目は避けるようになってしまいます。本当はいけないことと思います。

その4.院内感染とは.

全ての学生が卒業後に微生物関係の職に就くことはありませんし、微生物のプロになる訳でもありません。しかし、少数と言えども、卒業生の一部は、病院や研究所に職をえて、病原性の強い微生物を扱う可能性は充分に考えられます。

病院の微生物検査室に勤めた臨床検査技師が病原微生物の取り扱いを間違えて、本人または周囲の者が感染してしまったとすると、大変に申しわけないことになります。使用者側の設備、指導や監督に落ち度がないのかあるのかも問題ですが、学生時代に本当に何も教えられてないとなると学生の教育を施す我々教師側にも責任があると思われます。もっと色々教えてあげたいと常々考えているのですが、現実にはそれが難しくなりつつあります。

勉強をしたくて大学に進学するのではなく、就職のために大学に行く時代と耳にすることがあります。貴方は大学で「何を修めたのですか」と試しに質問してみて下さい。もしかすると、大学に「授業料を納めました」との応えが返ってきそうな気がします。冗談半分ですが、採用試験を実施する企業は、就職試験を受ける学生から少し高い受験料を徴収しては如何でしょう。業界・業種によって学生の人気度が違いますから、現実には有料の採用試験は実施が難しいかも知れません。しかし、有料となると受験する学生はもっと真剣になるのは間違いないと確信しています。学生が真面目に勉学する教育環境を再構築するためには、教師がまずもっと真面目になることから始まるのかも知れません。教師に厳しい社会になりました。

次の機会に、学生があまり勉強しなくなったのはどうしてなのかについて、私見を述べたいと思います。

▲▲ ▼▼


Copyright (C) 2011-2017 by Rikazukikodomonohiroba All Rights Reserved.