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130.日清・日露戦争で勝利をもたらした暁の脚気菌.

2-5-99.

  一世紀前の医学界で実際にあった話で、当時の日本を代表する医者達が繰り広げた世にも不思議なドラマです。歴史の形成にかかわった微生物のはなし第三弾です。

 

@ 脚気という病気

 主に日本、中国や東南アジアの米食の国々にみられた特殊な病気で、特に日本国内では江戸時代から明治時代にかけて、将軍や天皇から一般庶民に至るたくさんの犠牲者がでました。原因不明の足のムクミから始まり、シビレ、倦怠感、知覚異常、重症時には心臓発作で亡くなってしまう恐ろしい病気で、原因も判らず確たる治療法もなく多くの人々を悩ませました。参勤交代で江戸屋敷で生活すると脚気になり田舎に帰ると治ってしまう江戸の奇病とも恐れられていました。特に日露戦争では日本陸軍の兵士25万人が脚気にかかったと言われています。現在では、動植物性のタンパク質の摂取が少なく炭水化物を多く摂っているとビタミンB1が不足して脚気が起こることが解っています。 

 

A 登場人物

 日清・日露戦争で勝利をもたらした脚気菌に躍らされた医師達を簡単に紹介します。五十音順に記載します。

 

青山胤通.あおやまたねみち.

 最終身分は東京大学内科学の教授で学長。男爵。

1882年東京大学医学部卒(第四期生)。卒業後直ぐに官費でドイツ留学。1887年に帰国し東京大学医学部の教授。1891年帝国大学推薦で北里柴三郎などと一緒に医学博士となる。1894年に香港で大流行したペストの研究のために北里柴三郎と一緒に香港に滞在中ペストに感染し九死に一生を得た。1901年緒方正規の後任として学長となり、その後16年間学長を勤め、日本医学界に睨みつけた。明治天皇や大隈重信総理大臣の主治医を勤める。脚気は細菌による感染症との緒方正規の説を死ぬまで主張し、食事によることを認めなかった。岐阜県出身、1917年に58才で死去。

 

石黒忠悳.いしぐろただのり.

 最終身分は陸軍軍医総監。子爵。

幕末に西洋医学所に学び、維新後は大学東校の少助教を経て、1871年に兵部省(後に海軍と陸軍に改組)に入る。森林太郎の上司、陸軍軍医監で内務省四等出仕の身分で1887年第四回万国赤十字国際会議に日本の代表として参加し、その時森林太郎を通訳として使う。石黒忠悳、森林太郎と青山胤通の三人は脚気は細菌感染によると主張、高木兼寛の食事原因説を否定。貴族院議員、日本赤十字社の社長を勤める。晩年になり自己の間違いを認める。1845年生まれ1941年に死去

 

緒方正規.おがたまさのり.

 最終身分は東京大学医学部衛生学の教授で学長。

1880年東京大学医学部卒(第二期生)。熊本医学校で北里柴三郎と同級生であったが年は一つ下。卒業の年にドイツに官費留学、ミュンヘン大学でペッテンコーフェルについて衛生学を、ベルリン大学でレフレフルに細菌学を学ぶ。帰国後東京大学と衛生試験所を兼務し、1883年には北里柴三郎に細菌学の基礎的な手技を教えた先生でもある。1885年東大医学部講師のとき「脚気病毒の発見」を官報に発表、1886年脚気菌発見の第二報を発表し、一躍有名になる。この年東大医学部教授として衛生学を担当し、細菌学の基礎を築く。1898年より1901年まで東京大学医科大学の学長。脚気は細菌の感染によるとの説を主張した。1854年熊本に生まれ、1919年に死去。

 

北里柴三郎.きたざとしばさぶろう.

 最終身分はドイツ国のプロフェッサー・北里研究所所長・男爵。

1871年熊本医学校に入学、マンスフェルトに師事してドイツ語でオランダ医学を学ぶ。1875年東京大学医学部に入学し(入学の上限が19歳であったので年を4歳若く記載)、1883年に卒業(第五期生)。1885年にドイツ留学しローベルト・コッホに師事する。1889年「緒方氏の脚気バチルレン説を読む」と題する緒方の脚気菌発見を細菌学としては基本的に間違いと批判する論文を発表。1889年に世界で最初に「破傷風菌の培養に成功」した。1891年帝国大学推薦で医学博士の学位を授与される。1892年にドイツより帰国した。日本政府と東京大学派は、北里に職を与えなかった。1892年暮れに福沢諭吉と森村市左衛門により私立伝染病研究所を設立して貰う。1894年香港で大流行したペストを研究してペスト菌発見し7月31日帰国した。その翌日の8月1日に日清戦争が始まった。1849年熊本に生まれ、1931年に80歳で死去。

 

高木兼寛.たかきかねひろ.

 最終身分は海軍軍医総監・男爵。

鹿児島医学校(藩立開成学校)で英国人医師ウイリスより英国医学を学ぶ。明治維新には薩長連合軍の医師として従軍。1875年海軍軍医としてイギリスに留学し、ロンドンにあるセント・トーマス医学校を主席で卒業。1880年に帰国し、東京海軍病院長。1883年に海軍医務局長となり後に海軍軍医総監となる。脚気撲滅の大功績者。東京大学とは無関係な稀な秀才。1888年帝国大学(東京大学)の推薦による日本で最初の医学博士となる。慈恵会医科大学の創立者。1849年に旧薩摩藩(宮崎県高岡町)で生まれ、1920年に70歳で死去。

 

福沢諭吉.ふくざわゆきち.

 慶応義塾長。

1855年に緒方洪庵の大阪適熟に入りオランダ医学を学ぶ。1860年に咸臨丸でアメリカへ明治政府の特使の一人として渡る。1861年に南北戦争が始まる。1867年に慶応義塾(と改称)の創立者。北里柴三郎がドイツ留学から帰国しても政府は冷たく失職状態においたので、私財を投入して北里柴三郎のために伝染病研究所を建設し、その後も北里の最大の理解者であった。麦飯や牛乳の愛好者で脚気にはならなかった。1835年大阪堂島の中津藩(大分県中津)屋敷で生まれ、1901年に死去(68才)。

 

森林太郎(森鴎外).もりりんたろう(おうがい).

 最終身分は陸軍軍医総監(文豪)。

1874年第一大学医学校(1877年東京大学医学部と改称)予科に12歳(入学は14歳以上と定められていたので1860年生まれと2歳若く記載)で入学、1876年東京医学校本科に進学、1881年東京大学医学部を19歳で卒業(第三期生)。1884年に陸軍からトイツに留学し、ペッテンコーフェールから衛生学を学び1888年に帰国し、陸軍軍医学校教官となる。1890年「舞姫」を発表し文学者としての地位を確立す。1891年帝国大学推薦で北里柴三郎と一緒に医学博士となる。1907年陸軍軍医総監と陸軍省医務局長となり、陸軍軍医の頂点に立つ。ドイツ医学の信奉者で脚気が食事によることを生涯認めなかった。日清・日露戦争で陸軍が25万人もの脚気の患者を出した責任者の一人。1862年津和野藩(島根県)に生まれ、1922年に61歳で死去。

 

B 脚気菌事始

 1890年代は細菌学の黄金時代と良く言われます。それは、病気は悪い空気によって起こると考えられていたが、ドイツ人のローベルト・コッホによって病気は肉眼では見ることが出来ない微細な生き物によることが証明され、一生懸命に探せば必ず病気の原因である細菌が見つかり、多くの学者により多種類の病原細菌が相次いで発見された時代でした。赤痢菌の発見者である志賀潔による「細菌学を創ったひとびと」に細菌学の黄金時代の人々が詳しく描かれています。

  1885年から1886年にかけて、東京大学の緒方正規が「脚気の病原細菌を発見」と発表したことから脚気の原因についての騒動が始まった。緒方正規は、北里柴三郎とは同郷人で熊本医学校では同じマンスフェルトからオランダ医学を学んだか一歳年下であったが、緒方より遅れて東京大学を卒業した北里に細菌学の基礎技術を教えた先生でもあった。脚気菌発見のニュースはドイツにも伝えられ、ローベルト・コッホの第二の高弟であり緒方正規の師でもあるレフレルが、コッホ研究所にいた北里柴三郎に対して「科学では、たとえ恩師の説であっても誤りは指摘しなければならない」と諭したので、北里は細菌学者として黙認できないと緒方の説を批判する論文を発表した。

 「舞姫」などの文学作品を発表して高い評価を受けていた森鴎外は、森林太郎という東大医学部卒業の陸軍軍医で、緒方正規を批判した北里柴三郎を感情的に激しく非難する論文を発表した。それに対して北里もすぐさま反論し、「森林太郎の説によれば、北里は知識を重んじるあまり人の情を忘れたとの事であるが、私は情を忘れたのではなく私情を抑えたのである。学問に疎い者が学問を人情とすり替えて誤魔化すのは如何かと思う」と決め付けた。

 鹿児島出身で英国医学を学び、海軍から英国のセント・トーマス医科大学に官費留学し、そこを首席で卒業した高木兼寛が1880年に海軍軍医として復職した。海軍病院に入院している患者の半数が脚気であることに驚いた。イギリス滞在中の5年間にセント・トーマス病院では、脚気の患者は一人も見られなかったし、イギリス人医師は脚気という病気すら知らなかった。そこで、1878年の海軍統計調査を調べ、当時の日本海軍の総人員は4528名でその中脚気患者数は1485名であった。驚くことに海軍総人員の32.8%が脚気の患者であった。

 更に高木兼寛は、数隻の軍艦がホノルルを経由してサンフランシスコへ、またはオーストラリアのシドニーへと遠洋練習航海をした時の記録を調べ、いずれも外国の港に停泊中には脚気の患者は出なかったが、帰港途中から患者が増えていることに気がついた。1882年には9ヶ月にわたる長い航海から帰ってきた軍艦の事件が高木兼寛を驚かした。

 ペルーからホノルルに向かう途中から脚気患者が続出し、乗組員378名中150名が発症し、そのうち15名が死亡した。しかし不思議なことにホノルル停泊中に脚気患者の発症はなく、患者も徐々に回復していた。ところがホノルルを出航し日本に戻ってきたときには、乗組員の169が脚気に罹り死亡者は23名にのぼった。

 高木兼寛は、脚気は白米を主食にすると発症するが、パンや肉の食事を外国の港で食うと脚気は治ると感じた。そこで高木は大蔵省と交渉して特別な航海費を出させ、白米の給食と麦を混ぜた麦飯を提供する軍艦を二隻航海にだす実験を行った。その結果、白米の戦艦では150名の患者が出て23名が死亡した。反面麦飯の戦艦では脚気は皆無であることが確認された。

 海軍軍医本部長となっていた高木の兵食改善により脚気を予防する研究は、輝かしい成果を残し、その力量は明治天皇にまで知られるようになった。しかし、全ての人が高木兼寛の成果を褒め称えたわけではなく、科学に率直でなく面子のみにこだわる医師集団がいた。

 

日清・日露戦争での海軍と陸軍での脚気

 高木兼寛の「麦飯による脚気を予防する」説に異論を唱えたのが、石黒忠悳や森林太郎を中心とするドイツ医学を支持していた東大一派で固められた陸軍の軍医達であった。そもそも、海軍と陸軍とは対立関係にあった。その上、学理を重視するドイツ医学の陸軍と疫学を重んじるイギリス医学の海軍との抗争の構図になっていった。

 海軍での木兼寛の脚気に関する活躍を聞いた石黒忠悳は、1885年に木の兵食原因説を非難し、脚気の原因は細菌の感染によるものだとの論文を発表した。また東大の緒方正規は、「脚気病原の細菌を発見」したという論文を大々的に発表し、高木の食物原因説を真っ向から否定した。

 ドイツ医学を日本の医学の主流とし最新の細菌学に間違いがあるわけがないという強い自信のもと、当時の東大一派は脚気に関しては間違った方向へと進んだ。陸軍の石黒忠悳や森林太郎は、海軍軍医の高木の説に耳を傾けることもなく、白米中心の兵食を改善することはなかった。その結果、陸軍の脚気患者の数は何年たっても減少することはなかった。

 1894年に日本政府は清国に宣戦布告し日清戦争が始まった。白米の陸軍と麦飯の海軍における脚気患者の数は、歴然としたものとなった。記録によると、海軍では脚気患者は一人もでなかった。ところが、陸軍では四万人を超える患者で、入院患者の四分の一が脚気で、銃砲で傷ついた傷病兵数の11倍の兵士が脚気であり、死者は四千名を超えた。

 日清戦争から10年後の1904年に日本はロシアに戦線布告し日露戦争が始まった。日清戦争であれだけの脚気による被害を出した陸軍は、やはり白米で日露戦争に臨んだ。一方、麦飯で日本海海戦に臨んだ海軍は105名の脚気患者を出した。しかし、陸軍は25万人もの脚気患者を出し、3万名近い兵士の命を犠牲にした。日清戦争と日露戦争で、陸軍では脚気による兵力の低下が甚だしかったが、海軍は兵力の低下もなく、海戦で勝利を収めたのであった。

 

D 軍医森林太郎と文豪森鴎外

 1905年になって陸軍では、兵食には白米に麦を混ぜたものを支給するようになった。麦飯を採用してもすぐに脚気の食物原因説を認めることはなかった。石黒忠悳、森林太郎と青山胤通らの麦飯反対派は、責任をとることもなかった。その結果、海軍や世論から激しい非難を受ける結果となった。ところが、反麦飯派の代表である森林太郎が1907年に陸軍の医務局長に就任し、脚気は伝染病だという説を主張していた。

 陸軍軍医で森林太郎の直属の上司であった石黒忠悳や脚気菌を発見したという論文を発表した緒方正規は、晩年になって自説の誤りを自ら認めた。しかし、日清・日露戦争の脚気による死者に対して陸軍の最高責任者であった森林太郎は、61歳で人生を閉じる最後まで脚気菌原因説の非を認めずにこの世を去った。

 「舞姫」などを著した文学者・文豪としての森鴎外に対して非難・批判を加える者は日本全国に一人も存在しないであろう。しかし、医師としての森林太郎は、陸軍軍医総監という最高位にまで上り詰めたが、医学の分野では後世に残る論文もなく、ドイツに留学したときも大した業績を残していない。また、高木兼寛が東京大学から医学博士の学位を授与され、更に男爵位を授与れると、「麦飯博士とか麦飯男爵」と揶揄したそうである。更に、東大農学部教授であった鈴木梅太郎が「米ヌカから抽出したオリザニン(ビタミンB1)が脚気を予防する」との論文を発表すると、「百姓学者がなにを言うか、米ヌカが脚気の薬になるなら、馬の小便でも効くだろう」と言ったという。これらエピソードの真偽の程は判らないが、多くの書籍に記載されている。医者から見た医師・森林太郎については土屋雅春著「医者のみた福沢諭吉」を、軍医として国際的な業績を残した高木兼寛については吉村昭著「白い航跡」を、脚気については板倉聖宣著「脚気の歴史」を参考までに読まれることをお薦めします。

 日清戦争と日露戦争における日本陸軍の兵士が受けた被害は、責任者が脚気菌を信じ食事原因説を否定したために拡大し、対戦国である清兵やロシア兵の銃弾によるものでなく、脚気によると言えそうです。日清・日露の両大戦に日本が大国に勝利したのは、疫学を直視し脚気菌よりは兵隊の食事の改善を敢行した高木兼寛が医療衛生を担当した海軍による日本海での海戦における勝利に負うところが大である。

 数冊の参考書を紹介して「暁の脚気菌」を終わりにする。

 

  参考書

    「白い航跡」上下、吉村昭著、講談社

    「医者のみた福沢諭吉」、土屋雅春著、中公新書

    「脚気の歴史」、板倉聖宣著、つばさ書房

    「模倣の時代、上下」、板倉聖宣著、仮説社

 

 明治時代の医師達の面子と無責任さが招いた悲劇を生んだ中心事の「暁の脚気菌」についての話は、歴史を形成した微生物の第三段です。

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