232 .メイステル氏を美談の主にした狂犬病.2‐10‐2001.ある人がある特定の時にあることを考えたこと、または行動したことが後の世に大きな影響を遺したことを回顧的に説明する NHKの「そのとき歴史はうごいた」という番組があります。これと同じように、普通の個人レベルでも、ある瞬間の出来事がその人の一生を決定することがあります。歴史の形成にかかわった微生物について、これまでに「 121.ケネディを大統領にしたカビ、127.黄熱病が与えたノーベル賞と死、130.日清・日露戦争で勝利をもたらした暁の脚気菌、140.ウォルター・リードを英雄にしたウイルス」等を掲載してきました。今回は、非常に人の心を揺り動かす感動的な生涯を送った人物の美談について紹介します。ジョセフ・メイステル少年. 「科学者の道、パストゥール物語」という映画が昭和 11(1936)年に米国ワーナーブラザースにより作製され、日本を含め世界中で話題となったそうです。この映画は、観た人に大変な感動を与えた話題作であっため、この映画を観た人の中からその後多くの科学者が排出したと言われています。例えば、北里大学の元理事長・学長の長木大三先生、京都パストゥール研究所(現ルイ・パストゥール医学研究センター)の理事長の岸田綱太郎先生のお二人も「科学者の道、パストゥール物語」に刺激された人達です。お二人がどのような影響を受けたのかに興味のある方は、「ルネ・デュボス著の訳本、パストゥール−世紀を超えた生命科学への洞察−、学会出版センター、1996年発行のあとがき」をお読みください。パストゥールは、あまりの心労のため46歳の時に半身不随となります。その頃パストゥールは、疫病神と恐れられていた狂犬病のワクチン(ウイルスがまだ知られていない時期)の研究を重ねていました。ある日、狂犬病の狼に身体のいたるところを噛まれたジョセフ・メイステル少年がパリから遠く離れたアルザスからパリのパストゥールの所に連れ込まれ、息子を治してくれるよう付き添ってきた母親がパストゥールに懇願します。 その時、パストゥールの狂犬病のワクチンは、人に対する有効性と安全性が未確認の未完成品でした。パストゥールは、いくら懇願されても、万が一に間違って患者の子供を殺してしまったら、殺人罪で刑務所行きになる状況でしたが、ワクチンを使ってこの少年に狂犬病の治療を決心します。結果は、ワクチンが効を奏して、瀕死の少年は命を取り留め助かります。人類史上最初にワクチンを接種して貰った人間がジョセフ・メイステル少年でありました。この映画の最も感動的なシーンの一コマになっています。 岸田綱太郎先生のご好意で、私は「科学者の道、パストゥール物語」という映画のビデオ版を保管しています。そのため私共は、微生物学実習期間中にこの「科学者の道、パストゥール物語」を、諸君の人生が変わるかも知れませんと前置きして、2年生全員に観て貰っています。 この映画には出てきませんが、ジョセフ・メイステル少年はパストゥールから受けた恩義に報いるため、パストゥール研究所の門衛として一生を捧げます。ここまででも感激的なのですが、更にオマケが付いています。第二次世界大戦末期にナチスのドイツ軍がパリに侵攻してきて、パストゥールの棺が納められている「パストゥール廟」の扉を開くよう命じます。扉の前で仁王立ちになった門衛ジョセフ・メイステル氏は、「これより先にはドイツ兵は誰一人として入れない、入りたいのであれば私を殺してからにしろ」と言って自殺します。90分の映画が終わったとき、毎回私は学生にジョセフ・メイステル少年のパストゥールへの恩返しの美談について説明を加えています。現在の学生達の多くも感動をおぼえるようです。 門衛ジョセフ・メイステル氏の最期. 私が事あるごとにこのような感動的な美談を話すものですから、ある人から「私の美談はどこに書かれているかのを教えてくれ」と話の出所を明らかにするよう依頼されました。心当たりを一生懸命に探しましたがどうしても「私の記憶の話」を見つけることが出来ませんでした。そこで、京都の岸田綱太郎先生にことの経緯を説明し、出典を教えてくださるようお願いしました。岸田先生も聞いたことはあるが、どの書物に記載されているかは調べてみないと判らないとのことでした。 数日経ってから、大阪大学名誉教授の加藤四郎先生に探して貰いましたとの添え書きの手紙と「森下 薫著、ある医学史の周辺、日本新薬刊、昭和47年発行」のコピーが岸田先生から届きました。14章 「ジョセフ・メイステルの生涯−パストゥールによって狂犬病の予防注射を受けた最初の人−」が入っていました。著者の森下薫氏は、大阪大学医学部で原虫学の教授を長年勤められたお人です。 森下先生も《門衛ジョセフ・メイステル氏は、「これより先にはドイツ兵は誰一人として入れない、入りたいのであれば私を殺してからにしろ」と言って自殺した》という美談を記憶されていたようです。そこで、森下先生は、メイステル氏の最期について出典を徹底的に調べられたが、曖昧な表現の記載は幾つかの「パストゥール」に関する書物にあっても正確な記載は見つけられなかったようです。そこで、海外出張の折をみては、パストゥール研究所等を訪ねたり、昔の勤めていた人やメイステル氏を知っている人等に面談して、聞き取り調査をしたようであります。努力の甲斐あって、メイステル氏の三女のマドレーヌさんを探し出すことができ、直接話を聞くことが幸いにしたできました。 ここに森下先生が著した「メイステル氏の最期」の部分の概略を紹介します。ジョセフ・メイステル氏は、パストゥール研究所の門衛であったこと、アルザス地方出身でドイツ人を憎んでいたらしいこと、ドイツ軍が侵攻してきて「パストゥール廟」の扉を開けるよう命じるようなことがあったら「私にも考えがある、覚悟ができている、自殺する」等とかを言っていたこともあるらしいことを聞きだしえた。更に、パリの空襲が激しくなり、家族全員はパリから脱出したが、父ジョセフ・メイステルは一人パリに残った。三女のマドレーヌさんを含む家族が家に戻ってきた時、すでに父は自殺し事切れていた。一部の者に語り継がれている美談とは異なり、自宅で自殺したことは真実である。事実が少し修飾・美化されて美談が生れたようだ。森下先生は、信じていた美談の内容と真実が違うことに戸惑いを感じたようでした。 最期に、付け足しを二つ記します。一つは、いまもパストゥール研究所の地下に「パストゥール廟」はあります、誰でもが見学することもができます。「門衛であったメイステル氏はどこで自殺したのか」と聞くと、現在の案内人は「ここです」と扉の前を指すようです。二つ目は、私個人の偶然なことです。三女のマドレーヌさんは、パストゥール研究所の近く(ボーギール街249番地)で写真機械店を営んでいるメラン氏と結婚した、と森下先生の本に書いてあります。私は、文部省の海外研修員として、パストゥール研究所に滞在していたことがあります。身分証明書を発行するから写真を提出してくれと、パストゥール研究所に出向いた初日に秘書の人から頼まれ、近くの写真屋を紹介されました。「43.フランス人のお弁当 6-15-97.」で私にパストゥール研究所が発行してくれた「パストゥール研究所の客員研究員」の身分証明書のことに触れていますが、この身分証明書に貼ってある私の「パリの写真館で撮った唯一の顔写真」は、どうもメイステル氏の三女のマドレーヌさんが結婚した「アンリ・メラン」氏の写真機械店であったようです。門衛メイステル氏ゆかりの写真店をパストゥール研究所の秘書が紹介してくれたのか、偶然のいたすらか、今となっては確認のしようも在りません。
さて、自殺の原因がなんであれ、自宅で自殺したのが真実であったとしても、私は「メイステル氏の美談」を否定する積りは毛頭ありません。「真実と違っている」と美談を否定しても誰の徳にもなりません。名もないメイステルというフランス人の一生を決定し、美談の主にした狂犬病について、歴史の形成にかかわった微生物の話の第五弾として紹介しました。門衛メイステル氏の美談は、本当に感動的ですから、私は大好きです。来年度学生にビデオを見せる時、なんと補足をしたら良いか暫らく時間を掛けて考えてみたいと思います。 |