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236. ペスト菌発見の陰の立役者ラウソン博士. 3-28-2001.

祖父の足跡をたどりたい.

ある企業経営者の方から問い合わせのメールを受け取りました。その内容は、概ね次のようでありました:北里柴三郎博士にゆかりの英国の知人(日本企業の英国側パートナーの会長)からの依頼で、3月中旬に打ち合わせで訪日する際「祖父の足跡を辿りたい」、「新聞記事でも何でも良いから日本国内での情報を調べておいて貰いたい」とのこと。英国人会長の祖父とは、James A. Lowsonと言い、1894年香港でのペスト大流行時に香港で北里教授と一緒にペストの調査・研究を行った、1894年9月に日本政府の国賓として来日した、明治天皇主催の晩餐会や東京市長主催の夕食会などにも頻繁に招待された、それらの折に北里男爵(後)とも同席した由とのこと。もし何かよすがとなる資料があったら連絡を頂きたい、との丁重な文面でありました。

偶然がかさなる.

大正時代のある事件を調べたく私は、読売新聞社にデーターベースを使わせて貰える可能性について問い合わせの文面を送りました。大正時代のデーターベースは今年3月中には作業を終了の予定であるがまた完成してないとのことで、私が探していた事件に関する記事は簡単には見つけることは難しいことが判りました。ところが、読売新聞メディア戦略局データーベス部の奥野部長様からの返信に予期せぬ資料が同封されていました。「明治の読売新聞CD-ROM」に「北里柴三郎、伝染病研究所」などの検索語を打ち込むと、たちどころに431件の関連記事が表示されますとの添え文があり、明治時代の北里柴三郎に関する431件の記事タイトルの一覧表、A4版の用紙16頁を印字して届けてくださいました。もの凄いものだなと実感し、たまたま暇なときに項目を眺めていました。

それからしばらくして、上に書いた北里柴三郎博士が世界に先駆けて明治27年に香港でペスト菌を発見した事に関係する人物についての問い合わせのメールを受け取ったのでした。そこで、すぐに奥野部長様からの北里柴三郎に関する431件の記事タイトルの一覧表を英国人の名前を手がかりに繰ってみました。明治27年9月22日の朝刊に「香港病院長心得・ラウソン博士の歓迎会 芝公園紅葉館で」、と9月23日の朝刊に「横浜におけるローソン院長、北里、青山両博士の歓迎会」と記載されているのを発見しました。

Lowsonラウソン氏とは.

メールの文面でJames A. Lowsonと言う氏名を見たときに、どこかで聞いた記憶はあるとは思いましたが、どのような人物であるのかを迂闊にも思い出せませんでした。明治27年9月22日と23日の新聞記事の見出しを眺めても、ラウソン病院長がどうして来日したのかまでは気がつきませんでした。

国内最初の私立伝染病研究所が福沢諭吉翁の経済的支援により創立されたのが明治25年12月末で、伝染病研究所の北里柴三郎所長がペスト菌を発見したのが明治27年の暑い夏のことであることを偶然に思いつきました。そこで。北里研究所名誉部長中瀬安清博士に、「北里先生が香港へペストの調査に出かけた時の経緯を何処かに書きませんでしたか」と伺ってみました。ペスト菌発見百年の年に日本細菌学雑誌に「北里柴三郎によるペスト菌発見とその周辺」について歴史的な総説を掲載した、「ラウソン博士」のこともそこに書いてあるとの連絡を頂きました。

日本細菌学雑誌(中瀬安清著、北里柴三郎によるペスト菌発見とその周辺 −ペスト菌発見百年に因んで−、50637-6501995)を読んでみると、ラウソンLowsonについて概ね次ぎのような記載がありました。

明治27年6月5日米国船リオデジャネイロ号で横浜を出港、6月12日9時頃香港に到着、翌13日午前日本領事館で中川恒次郎領事に会い、中川領事の案内で香港政庁を訪ね、公立民事病院副院長で避病院担当のJames A. Lowsonに会った。午後北里と青山は、Lowsonの案内で港内に係留の病院船Hygeia号、Kennedy Town病院、公立民事病院、東華病院等を巡視した。親英的でキリスト教徒の患者がいるKennedy Town病院を仕事場に選んだ。6月18日に北里は、5日間の成績を纏め「ペスト患者よりペストの病原菌を確定」した。ペスト菌発見の論文として北里は、"The plague at Hongkong (香港におけるペスト、Lancet 8月11日号掲載)"と"The Bacillus of bubonic plague (Lancet 8月25日号掲載)を作成した。ペスト菌発見の英文による第一報は、Lowsonの協力によってレター形式で速報した。7月10日に北里は、公民民事病院でペスト菌の標本を展示し、Lowsonに論文原稿を朗読させてペスト菌発見の報告を行った。Lowsonはペスト菌をBacillus kitasatonensis(北里菌という意味)と名づけている。6月28日17時頃、香港政庁や日本領事館の関係者10数人を香港ホテルに招き、感謝と慰労の晩餐会を催した。その後、青山と石神の二人が高熱を発し、ペストと診断された。Lowsonが主任となって治療と看病にあたった。北里は7月30日、青山は7月31日に帰国し、一行の任務は終わった。

 

北里は、大日本私立衛生会を通して、香港で世話になったLowsonを招待した。彼は、9月13日横浜に着き17日に上京した。北里は、Lowsonを伝染病研究所、慈恵医院、赤十字病院、東京医科大学第一病院、東京府巣鴨病院、白金の養生園に案内した。20日には、芝の紅葉館で北里と青山が歓迎会を、翌日には北里が慰労会を催した。22日には横浜小学校での講演会と貿易組合会館での北里歓迎会にLowsonも同席させた。23日には、箱根富士屋ホテルで慰労し、24日横浜港で彼を見送った。

9月20日に紅葉館で開かれた歓迎会は、三浦東京府知事、園田警視総監、浜尾大学総長、高田衛生局長、小野田医保局長、東京大学の教授多数(氏名が記載されている)、その他で総勢百四十名の招待者がつめかけ、北里博士に伴われてドクトル・ラウソン香港病院長心得が入場した。高木兼寛氏がラウソン氏の歓迎を英語で行い、ついで祝杯をあげ、ラウソン氏が答辞を述べた。宴たけなわのころラウソン氏がたち「日本天皇陛下万歳」を三唱し、三浦東京府知事が此れに応えて「英国女皇陛下万歳」を唱えた(読売新聞9月22日号)。

9月23日横浜で北里と青山両博士の歓迎会が公立横浜学校で催された。北里は答辞を述べ「ペストにかんする演説をなし、ローソン氏も一片の小話をなす。ローソン氏には、花瓶一対を贈り、一同万歳を連呼し、貿易商組合会館へ会場を移した(読売新聞9月23日号)。

 

ラウソン氏のお孫さんの話.

私は、ラウソン氏のお孫さんの来日についてのメールを北里研究所に転送しました。北里研究所は、ラウソン氏のお孫さん「Mark Allsup会長」に「北里柴三郎記念室」を名誉部長中瀬安清博士が案内し、所長の大村智博士が直接歓迎しました。またお孫さんに「ペスト菌発見の資料、ローソン博士から北里柴三郎博士へ宛てた私信、その他の情報」を数多く提供したようです。更に、北里柴三郎先生のお孫さん「北里一郎博士、明治製菓且ミ長」にもお引き合わせをしました。

Mark Allsup会長からメールを頂いた。それによると、ラウソン医師は、6人の子供に恵まれ、その一人のお嬢さんは90歳の高齢ながら健在だそうです。父Dr. James Lowsonのことはいまもよく記憶していること、父が日本に招待されたとき歓迎会で頂戴した花瓶一対をいまも大切に保管されている由。Mark Allsup会長の母上Katherine Lowsonは、ラウソン博士の孫娘である。今回の訪日では箱根の富士屋ホテルには行かれなかったが、横浜のグランドホテルや横浜小学校の跡地を曽祖父が滞在したり訪ねたりした足跡を訪れることができた。次の機会には「箱根の富士屋ホテル」も訪ねてみたい。

ラウソン氏は、香港の要職についていた医師で、ペスト菌発見の道具立てから速報の英文原稿作成、青山と石神二人の治療にも大きな働きをした人物であることが判りました。百年ぶりに曽祖父の足跡を訪れ、自筆の手紙を読み、ラウソン家に大切に保管してある花瓶の由来を知り、また北里教授・男爵のお孫さん北里一郎氏にも会うことができた、と大変に喜んで居られる様子が伝わるメールを頂ました。インターネットが取り持つ「偶然」が出発点となり、その結果Mark Allsup氏は「温故知新」を実体験されたようでした。偶然が必然的な結果を招きました。「高がホームペジやインターネット・・・・・」ですが、時には偉力を発揮することもあるのです。

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