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251. 夏目漱石の診断書.718-2001.

明治時代の診断書.

九州大学医学部附属病院で明治時代からの患者カルテが保存されているのが見つかったとの報道がありました(平成13年7月18日)。カルテは、5年間の保存が義務付けられていますが、それ以上の年限は病院の判断で普通は廃棄されます。明治時代のカルテは、大変に珍しく学術的な価値が高いので、これらは永久に保存されるようです。明治時代の診断書に記載されている病名は、意外に面白いことを偶然に気が付いていましたので、ここに紹介します。

所轄官庁の大臣が任命権者である明治時代の高級官吏は、個人的な本当の辞職理由はどうあれ、「一身上の都合」程度の辞職願は出せなかったと思われます。彼らは、公職を辞任する際どのような理由をつけて辞職願を提出していたのかについて調べてみました。

登場人物 

伝染病研究所    所長 北里柴三郎、

仙台医学専門学校 教授 中川愛咲、

第五高等学校    教授 夏目金之助(漱石). 

当時でもかなり有名であったと思われる三人の教授は、ともに公職を辞任しています。当時の慣わしとして官吏が退職するときは、病気を申し立てるのが作法であったようです。彼らの診断書は、次のようでありました。

診断書 「病名 脳神経衰弱 北里柴三郎 医師内野仙一」、

診断書 「病名 神経衰弱   中川愛咲   医士 杉上惣次郎」、

診断書 「病名 神経衰弱   夏目金之助 医師 呉秀三」.

北里柴三郎の診断書

診断書は、大正3年10月に発行されていると思われますが、正式な診断書は残っていないようです。記録によりますと、内務省管轄の国立伝染病研究所が文部省の所管に移ることが抜き打ち的に国会で決まった大正3年10月、長年所長を務めてきた北里柴三郎は、学術的な研究に加えて、叡智を社会に還元することを旨とした実学的な研究を追考してきた彼の目的にそぐわない大学の研究所は自分の勤める場所でないとの理由から、伝染病研究所を辞める決心をします。当時は病気を申し立てるのが退職者の慣習であったようですが、北里柴三郎はもともと健康な人でした。公職に耐えられないほど重病であるとの診断書は、誰にも書くことなど出きる筈がありません。そこで北里柴三郎は、内務省技師の内野仙一という医師に頼んで診断書を書いて貰ったようです。その診断書は、「病名 脳神経衰弱、時々亢進発作あり、当分の静養を要す」というものでありました。(北里柴三郎、高野六郎著、ポプラ社、115頁、昭和26年.北里柴三郎とその一門、長木大三著、慶応通信社、189頁、1989年) 

中川愛咲の診断書.

中川愛咲とは、一般にはローマ字で有名なヘボン式ローマ字の「ヘボン」(アメリカ人医師、宣教師、明治学院大学の創設者)を保証人としてアメリカに私費留学し、最初はプリンストン大学で理学を、その後コロンビア大学とニューヨーク大学で医学を学び、ヨーロッパの諸大学で研鑚し、ドクトルの学位を修得し帰国します。その当時としては珍しい経歴の持ち主です。国内最初の伝染病研究所が創立されて間もない頃ですから、中川愛咲は伝染病研究所の助手として採用され、その後仙台の第二高等学校の衛生学と法医学の講師として31歳の若さで招聘され、その後仙台医学専門学校の初代細菌学の教授を務めます。10年間仙台に在籍しますが、突如として退職し大磯町に退きます。

その中川愛咲が退職に際して提出した「退職願と診断書」が東北大学記念資料室にマイクロフィルムとして保管されています。毛筆による縦書きでいまになると古文書的な記録で、一部読めない所もありますが、「文部大臣 牧野伸顕」に宛てた退職願と診断書は凡そ次ぎのようであります(原文には句読点は無い)。

「退職願 小官儀はここ数年来脳病に罹り治療してまいりましたが効果が無く、近頃は病症が増進し、何分にも職務に堪えがたいので、辞職したく医師の診断書を提出いたします、よろしくお願いします、明治四十年十月十日、仙台医学専門学校教授 中川愛咲、文部大臣 牧野伸顕殿」。

「診断書 病名 神経衰弱 中川愛咲

右の病症により加養してまいりましたが経過が甚だ良好ならず、依って教授職に従事すると症状は一層増悪すると診断する 大磯町 医士 杉上惣次郎 明治四十年十月十日」。

夏目漱石の診断書.

夏目金之助は、国費留学生としてロンドンに派遣されたエリートであります。熊本の第五高等学校の教授として教壇にたちますが、精神的なこともあるのでしょうが、学生を教育することにいやけを感じ、創作活動に没頭したく第五高等学校を退職することになります。

そのとき友人の菅虎雄氏に宛てた手紙で、退職するには医師の診断書が必要なので、懇意な医者を知らないから、ロンドンで会ったことのある呉秀三氏に君から依頼してくれないかと書いています。

「・・・・・小生熊本の方 辞職と事きまり候に就ては医師の診断書入用との事に有之候へども知人中に医者の知己無之大兄より呉秀三君に小世が「神経衰弱」なる旨の診断書を書て呉る様依頼して被下間敷候や小生は一度倫敦にて面会致候事あれど君程懇意ならず鳥渡ぢかにたのみにくし何分よろしく願上候・・・・・」。(岩波書店、昭和41年発行の「漱石全集第14巻、書簡集」216頁、明治3639日・月曜日、小石川区林町64番地の菅虎雄氏に宛てた書面。)

菅虎雄氏とは、東京帝国大学医学部に学び、のち独文科に転じ、第一高等学校のドイツ語の教授、夏目漱石とは一高以来の友人、芥川龍之介や久米正雄らにドイツ語を教えた。呉秀三氏とは、東大教授、医学博士、わが国の精神病理学の功労者で、夏目漱石の留学時代からの友人であった。

夏目漱石が熊本の第五高等学校の教授を辞職するときに提出したであろうと思われる辞職願と診断書の保存先を探していました。岡山大学教育学部の木村功教授から丁重な指示を頂きました。辞職願と診断書は熊本大学の第五高等学校記念館に保存されているかを問い合わせしては、また診断書を書いて貰いたいと友人に書簡を書いているのが漱石全集に収載されている旨の連絡を頂きました。熊本大学からは、《熊本大学五高記念館長の岩岡中正教授から直接に、「漱石の退職に関して確かに退職願が出されそれには診断書が添付されていたことははっきり致しておりますが、その診断書は「校長の手元にあり」とだけ追記されていて、現物はありませんでした」。》という書面を貰いました。結局のところ夏目漱石の診断書は見つかりませんでした。

明治時代の人達は、既知に富み面白いことを考えたり実行したりするものと驚きを禁じ得ません。北里柴三郎、中川愛咲も夏目漱石も共に「神経衰弱」でありました。いずれにしても自分の病名を「神経衰弱」と書いてくれと依頼しているのです。これを平気で受け入れていた社会もおおようで面白いと思います。現在はこのような診断名をあまり見聞きしませんが、いまであれば「心身症とかノイローゼ」とでも言うところでしょうか。

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