300. 北里柴三郎博士生誕150年.10-9-2002.
北里柴三郎博士は、嘉永5年12月20日、西暦では1852年に肥後国(熊本県)阿蘇群小国郷北里村に生まれたと教わったように記憶していました。
北里研究所から発行されている資料によると、実際は1853年1月29日生まれが正しいようです。来年の平成15年1月29日は北里博士生誕150年になりますので、今年度中に「北里柴三郎博士生誕150年記念国際シンポジウム」が北里研究所の主催で開かれますし、日本細菌学会も同じように生誕150年を記念した学術集会を開催します。
新たに発行される新千円札に「野口英世博士」が登場するようですが、野口英世博士の恩師でもある「人間・北里柴三郎」とはどのような人で、いかに秀でた人物であったのかを理解していただきたく、ここに「曖昧糢糊300号と生誕150年」を記念して私の思い込みの記として以下に北里柴三郎博士の足跡について記します。
北里柴三郎博士の略歴.
1871年(明治4年)19才の時熊本医学病院(翌年熊本医学校と改称)に入学、生涯の恩師オランダ人医師マンスフェルトの指導を受ける、1874年(明治7年)22才の時マンスフェルトの辞任に伴い熊本医学校を退校して上京、1875年(明治8年)23才の時東京医学校(2年後に東京大学医学部と改称)に入学、1883年(明治16年)31才の時に男爵松尾臣善の次女と結婚、東京大学医学部卒業、内務省衛生局に奉職、1885年(明治18年)11月8日33才の時ドイツ留学を命ぜられ、1886年(明治19年)1月34才の時ベルリン大学ローベルト・コッホの研究室に入り、細菌学の研究を開始する。
1889年(明治22年)37才の時気腫疽菌の嫌気性純粋培養に続き破傷風菌の嫌気性純粋培養に成功、1890年(明治23年)38才の時破傷風菌の毒素と抗毒素(免疫抗体)を発見、1891年(明治24年)39才の時抗毒素(免疫抗体)による血清療法を確立、1892年(明治25年)5月28日40才で帰国、同年10月福沢諭吉の援助により伝染病研究所が設立、11月同研究所の所長となる。
1893年(明治26年)大正天皇(皇太子)の担当医を命ぜられる。1894年(明治27年)42才の時香港にてペスト菌を発見、1914年(大正3年)62才の時伝染病研究所の所長を辞任し、私立北里研究所を設立し所長となる。
1931年(昭和6年)6月13日に79才で永眠、青山墓地に埋葬された。葬儀には近衛兵により葬送曲が高らかに奏でられたそうです。
熊本医学を卒業した後のおもな職歴をまとめると、次の表のようになります。1886年1月にベルリンに到着し、1892年5月に帰国しました。この前後の事柄については、北里柴三郎の秘話のなかに掲載してある「北里柴三郎の栄誉と屈辱の明治25年」をお読みください。帰国後の職歴は、内務省所轄の伝染病研究所の所長としての公職と1914年以降は北里研究所の所長としての活躍の足跡となります。
北里柴三郎博士のおもな職歴
1872年
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熊本医学校塾監
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1883年
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内務省衛生局 御用掛申付 但任官待遇
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1885年
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ドイツ留学(政府公費留学生)
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1886年
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ベルリン大学ローベルト・コッホ研究所
内務技師補(3月) 内務一等技手(5月) |
1887年
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万国衛生会議出席を命ぜられウイーンに出張
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1892年
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帰国 中央衛生会委員(内閣) 私立伝染病研究所の所長
内務技師(内務省) |
1893年
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大正天皇(皇太子)の担当医
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1894年
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宮中の衛生設備の実地指導 広島大本営の御用水検査
衛生会議と第8回万国医学会議の特別委員としてブタペストに派遣
伝染病の調査のため香港に派遣 |
1895年
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東京府広尾病院の医務
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1896年
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血清薬院の顧問(内閣)
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1899年
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痘苗製造所の顧問(内閣)
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1905年
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警視庁防疫評議員(内閣)
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1906年
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帝国学士院会員(内閣)
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1911年
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鉄道院衛生顧問(鉄道院) 恩賜財団済生会医務主管
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1914年
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伝染病研究所を辞任 私立北里研究所の所長
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1915年
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恩賜財団済生会病院長
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1916年
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大日本医師会の会長
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1917年
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慶応義塾大学医学科の初代科長 貴族院議員
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1918年
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中央衛生会委員(内閣) 都市計画調査会臨時委員(内閣)
社団法人北里研究所の所長 社団法人大日本衛生会の会頭 |
1920年
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総督府衛生顧問(朝鮮総督府) 学術研究会議会員(内閣)
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1921年
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労働保険調査会委員(内閣)
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1922年
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教育評議会委員(内閣)
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1923年
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日本医師会の初代会長 日本結核予防会の理事長
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1924年
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帝国経済会議議員(内閣)
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1928年
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慶応義塾大学医学部顧問
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北里柴三郎博士の栄誉.
細菌学者としての北里柴三郎博士が生涯に受けた栄誉を一覧として記します。ここに挙げた栄誉の数は、全体で39の多くにのぼりますが、そのうち日本国内からは4つのみで、殆どが諸外国からの国際的な栄誉です。これだけ多くの国際級の栄誉を受けた日本人は北里柴三郎博士以外に他に居るのでしょうか、いるとしても多くはないと思います。先覚者は生まれ育った国ではなかなか認められない宿命なのでしょうか。
北里柴三郎博士のおもな栄誉
明治24年
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1891年
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医学博士(東京帝国大学)
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日本
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明治25年
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1892年
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プロフェソル(プロシア政府)
勲三等瑞宝章 |
ドイツ
日本
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明治28年
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1895年
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ロンドン衛生研究所名誉所員
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イギリス
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明治29年
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1896年
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イタリア王国衛生会名誉通信会員
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イタリア
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明治29年
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1896年
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英国衛生院名誉会員
|
イギリス
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明治31年
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1898年
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カタルーニア衛生院名誉会員
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スペイン
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明治32年
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1899年
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露国陸軍軍医大学校名誉通信会員
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ロシア
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明治34年
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1901年
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ベルリン国際結核予防中央局名誉会員
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ドイツ
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明治35年
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1902年
|
国際結核中央予防協会名誉会員
|
ドイツ
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明治36年
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1903年
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マニラ医学会名誉会員
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フィリピン
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明治36年
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1903年
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米国熱帯医学会名誉会員
|
アメリカ
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明治37年
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1904年
|
ニューヨーク医学アカデミー名誉会員
|
アメリカ
|
明治37年
|
1904年
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ロンドンハーヴェイ学会外国通信会員
|
イギリス
|
明治37年
|
1904年
|
ロンドン伝染病学会名誉会員
|
イギリス
|
明治37年
|
1904年
|
セントルイス科学アカデミー名誉会員
|
アメリカ
|
明治38年
|
1905年
|
ロンドン王立内科外科学会名誉会員
|
イギリス
|
明治39年
|
1906年
|
帝国学士院会員
|
日本
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明治40年
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1907年
|
ロンドン王立公衆衛生学会名誉会員
|
イギリス
|
明治40年
|
1907年
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第六回国際結核予防会議名誉通信会員
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オーストリア
|
明治41年
|
1908年
|
熱帯医学会副会員(パストゥール研究所)
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フランス
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明治41年
|
1908年
|
英国王立学士院会員
|
イギリス
|
明治42年
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1909年
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星章赤鷲第二等勲章(プロシア国皇帝)
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ドイツ
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明治43年
|
1910年
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サン・オラフ第二等甲級勲章(ノールウェー皇帝)
|
ノールウェー
|
明治43年
|
1910年
|
ロンドン熱帯病学及衛生学名誉会員
|
イギリス
|
明治43年
|
1910年
|
ベルリン医学会名誉会員
|
ドイツ
|
大正 1年
|
1912年
|
熱帯医学会名誉会員(パストゥール研究所)
|
フランス
|
大正 3年
|
1914年
|
コマンドール・ド・ロルドル・ナシオナル・ド・ラ・
レジオン・ドヌール勲章 |
フランス
|
大正 3年
|
1914年
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フィラデルフィア自然科学アカデミー通信会員
|
アメリカ
|
大正 3年
|
1914年
|
米国フィラデルフィア哲学会会員
|
アメリカ
|
大正 3年
|
1914年
|
米国医学アカデミー外国人会員
|
アメリカ
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大正13年
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1924年
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男爵
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日本
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大正14年
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1925年
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ハーヴェイ金牌(英国王立公衆衛生院)
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イギリス
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大正15年
|
1926年
|
レーニングラード微生物学会名誉会員
|
ロシア
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大正15年
|
1926年
|
ウイーン微生物学会名誉会員
|
オーストリア
|
大正15年
|
1926年
|
ドイツ帝国自然科学院会員
|
ドイツ
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昭和 5年
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1930年
|
国際微生物学会名誉会員
|
フランス
|
昭和 6年
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1931年
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勲一等旭日大授賞
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日本
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人間・北里柴三郎博士の後世への遺物.
明治時代は、若き国士が多く輩出し、革新的で歴史上特異な時期でありました。国を創る活気に満ちた社会環境のもとで北里柴三郎先生は、熊本県に生まれ、ドイツで開花し、東京で国際的に活躍しました。その結果として、北里先生の活動範囲は、単に細菌学という狭い医学領域にとどまらず、はなはだ広範におよびます。あまりに大きな巨人であるため、その足跡を辿ることも簡単ではありません。
台風のようにこの世を駆け抜けた北里先生の80年におよぶ波乱にとんだ生涯の終始一貫した考えに基づく後世への最大遺物は、「科学者として真の学問追求」、「社会事業家としての国創」、「教育者として人材育成」の三本の柱に集約できると思います。これらの業績を箇条書き的に簡単に纏めると次ぎのように成ります。
科学者としての代表的な業績.
●個人の業績
◆日本最初の国際的な細菌学者、日本の細菌学の基礎を確立
◆独自に創意工夫した嫌気装置を用いて破傷風菌の純粋培養に成功
◆筋肉が硬直する破傷風の症状は破傷風菌が作る毒素によることを発見
◆破傷風菌の毒素を破壊する免疫抗体が血清中に作られることを発見
◆免疫血清を用いて破傷風を治す学理的新治療法「血清療法」を確立
◆香港でペスト菌を発見、ノミやネズミの関与と予防法の提唱
●高弟の業績
◆志賀潔 赤痢菌の発見
◆北島多一 蛇毒の免疫血清療法の確立と普及
◆宮島幹之助 恙虫病、ワイル病、日本住血吸虫症等の撲滅
◆秦佐八郎 梅毒の薬サルバルサンの発明、「化学療法」を確立
◆梅野信吉 天然痘ワクチンの大量製造法や犬用狂犬病ワクチンの開発
社会事業家としての代表的な業績.
◆国内最初の「私立伝染病研究所」を福沢諭吉の援助で創設
初代所長に就任 明治25年
◆国内最初の結核療養所「土筆が岡養生園」を開院 明治26年
◆国内最初の私立医学研究所「北里研究所」創立、初代所長に就任 大正3年
◆国内最初の私立医科大学「慶応義塾大学医学部」の創設に参画
教授・初代学部長に就任 大正6年
◆伝染病予防法を提唱し制定させる 明治30年
◆癩予防法を提唱し制定させる 明治40年
◆日本結核予防協会の発足に協力 大正2年
◆恩賜財団・済世会病院設立に協力 初代院長 大正4年
◆大日本医師会を組織 初代会長に就任 大正5年
◆結核予防法を提唱し制定させる 大正8年
◆日本医師会の創設 初代会長に就任 大正12年
教育者としての代表的な業績.
◆高木友枝 台湾の衛生と経済の基盤整備 上水道の敷設 台湾電力の設立
◆北島多一 北里研究所長 日本医師会長 慶応義塾大学医学部長
◆宮島幹之助 国際連盟(ジュネーブ)阿片中央委員会委員長
慶応義塾大学医学教授 北里研究所副所長 日本学士院賞受賞
◆秦 佐八郎 梅毒治療薬サルバルサンの発明により化学療法の父
慶応義塾大学医学教授 北里研究所長
◆志賀 潔 朝鮮総督府院長 京城(ソウル)帝国大学建設に参画
京城帝国大学初代医学部長・教授 京城帝国大学総長
◆野口英世 横浜長浜検疫所の初代所長
これら諸活動には、北里先生が常に意識していた基本的な考えがあった筈です。その活動を支えた強靭な精神的バックボーンはなんであったのかを色々な書物より熟慮し、それを文字にした人が北里大学の創立に携わった長木大三元学長・理事長です。科学者、事業家と教育者としての北里柴三郎先生に流れている考えを纏めて北里大学建学の精神「北里精神」として、昭和37(1962)年に採用されました。
●北里精神
◆開拓の精神
◆報恩の精神−人類愛の精神−
◆叡智と実践の精神
◆不撓不屈の精神
北里柴三郎先生が遺した学術集団
福沢諭吉と森村市左衛門などの民間人の経済的な支援で設立された国内最初の私立伝染病研究所は、内務省所管の国立伝染病研究所と衣替えして、国際的な研究機関となりました。国立伝染病研究所が内務省所管から文部省所管に突如として移管されることが国会で決議されたのをうけて、北里柴三郎所長は大学附属の研究所は学生の教育が主目的となるので、自分の実践を重んじる考えと異なるため辞任します。私財を投入して私立北里研究所を設立し、それが現在の社団法人北里研究所です。
文部省に移管となった伝染病研究所は、現在は東京大学医科学研究所と改称され、世界的水準の研究機関として活動しています。一方私立北里研究所は、社団法人北里研究所として伝統と歴史を刻み、国内屈指の慶応義塾大学医学部や生命科学の総合大学としての北里大学を生み育ててきました。
北里柴三郎という一人の人間がこの一世紀の間に、10坪の私立伝染病研究所から出発して、いま現在に至ると東京大学医科学研究所、慶応義塾大学医学部および北里大学等の教育と研究の学府を遺したことになります。その概略図を北里研究所のあゆみとして下に示します。更に現在までの北里研究所の沿革を表に纏めました。
社団法人北里研究所の沿革 The
Kitasato(2002年4月1日)より抜粋
1893年
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本邦最初の結核療養所「土筆ケ岡養生園」を設立
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1914年
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北里研究所の創立
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1917年
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北里研究所附属病院設立
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1945年
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附属病院と養生園戦災で焼失
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1954年
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北里柴三郎博士生誕100年記念事業として養生園跡地に附属病院を新築
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1957年
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北里衛生科学専門学院を設立
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1961年
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家畜衛生研究所を千葉県柏市に設立
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1962年
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創立50周年記念事業として学校法人北里学園(北里大学)を創立
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1972年
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東洋医学総合研究所を設立
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1980年
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研究所本館を明治村に移築永久保存、北里本館を新築
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1983年
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肝臓病研究セカンターを開設
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1987年
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バイオアトリックスセンターを開設
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1989年
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創立50周年記念事業として北里研究所メディカルセンター病院を
埼玉県北本市に開設 |
1991年
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生物機能研究所を設立
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1993年
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生物製剤研究所と家畜衛生研究所を北本市に移転
基礎研究所と医療環境科学センターを開設 |
1994年
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北里看護専門学校を北本市に開設
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1996年
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北里衛生科学専門学院を閉校
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1999年
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王森然記念館を開設、
バイオアトリックスセンターを臨床薬理研究所と改称、
北里研究所病院新棟開院 |
2001年
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アネックス棟竣工、
生物機能研究所を北里大学生命科学研究所として移行 |
2002年
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家畜衛生研究所を生物製剤研究所に統合
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北里大学生命科学研究所(大村智所長)が提案した研究課題「天然素材による抗感染症薬の創薬と基礎研究」は、この度文部科学省から「21世紀EOCプログラム」研究教育拠点として採択されました。今後5年間に10億円を超える研究費が国家から助成される予定です。北里グループは、今年度「北里柴三郎博士の生誕150年」を祝い、今後も健康と疾病について教育、研究と診療を介して世界人類のために活動を続けることと思われます。
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