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400号記念−特別掲載号−
 
400. 東京大学教授・加我君孝著「北里柴三郎生誕150年」. 4-22-2005.
 
ホームページ事始
かつて私が勤務していた微生物学教室には、コンピーターが世に出てまだ日が浅い頃からパソコンを自由自在に操り、その使い道の先覚者的な長谷川勝重先生が在籍していました。最初の頃は、長谷川先生からパソコンの使い方を私は教えてもらっていました。
そんなある日、長谷川先生からパソコン上にホームページと呼ばれる先端技術による情報伝達の新規な媒体があり、これからの時代にはこれを利用しない術はない。技術的なことは全面的に支援するから微生物についてのホームページを開きましょうと勧められたことを記憶している。
私がホームページを開くようになった契機は、その経緯を正確には記憶していませんが、長谷川先生からの推薦があつたからであることだけは間違いが無い事実です。そこで私個人がかねがね不思議に思っていた空気清浄器についての疑問を「空気清浄器の性能」と題して短く拙い文を公開したのが、年の瀬もせまった「1996年12月24日」でありました。
私が定年で北里大学を退職するまで、長谷川先生の献身的な支援と助言で北里大学でのホームページは、毎週一回は必ず更新するペースで、幾つかの柱を掲げ段々と充実していきました。定年後の一時期は、ホームページは休眠状態となり、閉鎖に近い状態が続きました。
ボランティアの支援で新たに「微生物管理機構」と題したホームページを2003年6月26日を期して、再開することができました。1996年12月24日以来「曖昧模瑚」は、ほとんど毎週一回は更新するペースを維持でき、もう直ぐに400番目の散文が掲載される予定となってきました。
400回を記念するに相応しい内容の文章を掲載したく、スタッフと協議してきました。その結果、東京大学医学部・耳鼻咽喉科学教授でおられます加我君孝先生による「北里柴三郎生誕150年」が最も相応しいとの結論に達しました。
医学書院から発行されている週刊医学界新聞に新春随想として加我君孝教授による素晴らしい「北里柴三郎生誕150年」と題する北里秘話が掲載されています。学部と大学院の臨床系教授職を兼務し、更に大学病院で患者を診ておられる激務であるにもかかわらず、加我君孝教授は膨大な古文書を調査されて、「北里柴三郎生誕150年」を書き上げられました。それが今回ここに転載させていただいた随想文です。
出版元の医学書院と著者の加我君孝先生から東京大学教授・加我君孝著「北里柴三郎生誕150年」を曖昧模瑚に転載しても良いとの許可を得て、ここに原文のままを転載させて頂きます。転載の快諾をお与え下さいました医学書院と加我君孝教授にこころより感謝の意を表します。
編集代表者
田口 文章 
 
 
東京大学教授・加我君孝著「北里柴三郎生誕150年」
 
 北里柴三郎生誕150年
 加我君孝
 (東京大教授・耳鼻咽喉科学/医学教育国際協力研究センター長)
 
 週刊医学界新聞 第2567号 2004年1月12日
 新春随想 2004
 
 
<http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2004dir/n2567dir/n2567_05.htm#04>

 昨年は江戸開府400年をはじめとして病理学者の吉田富三,映画監督の小津安次郎生誕100年など多くの行事が開催された。わが国の医学界における話題としては北里柴三郎生誕150年の行事も開催された。
 小生は本紙の1998年の新年のエッセーに“東大創立120周年記念プロジェクトと北里柴三郎先生のこと”を掲載させていただいた。その中で「東京大学医学部の卒業生で戦前に世界の医学に大きな足跡を残した人は誰かと聞かれれば,明治16年卒の北里柴三郎先生ではないかと思うようになった」として北里柴三郎が62歳の時の「伝染病研究所が大隈内閣により内務省から文部省への移管により東京大学に所属した問題」が「後世の医史家が現在なお東大医学部の横暴と書く者が少なくない,真実は何であったろうか」と疑問を書いた。
 その後,2000年に東京大学が招いたノーベル賞の利根川進教授を,傑出人の脳のコーナーのある医学部標本室にご案内した時,周囲を見回して,“北里柴三郎のものは何かないの。東大出身だろう”と言われた。その弟子の志賀潔の“昭和医箴”という額はあるが本人に関したものは何もない。それは伝染病研究所は現在は医科学研究所として港区白金台にある独立した組織であることによる。2001年に医科学研究所には新しいミュージアムが完成し,北里柴三郎関連の資料が展示されている。
 小生が中心になって歴史的にこの問題を取り上げることにし,昨年の3月13日に東京大学キャンパスの新教育研究棟で“北里柴三郎先生生誕150周年記念シンポジウム−教育者・研究者としての北里柴三郎先生−”を企画し開催した。シンポジストは6名にお願いした。シンポジストと演題は次の通りである。北里研究所病院長の土本憲二先生の「北里柴三郎と福沢諭吉」,東京大学医科学研究所元教授の小高健先生の「北里柴三郎と伝染病研究所」,小生の「伝染研究所移管問題と東京大学」,東京大学医科学研究所の高津聖志教授の「抗体療法とその将来展望」,医学教育国際協力研究センターの北村聖教授による「世界の切手でみる北里柴三郎と野口英世」そして明治製菓株式会社・北里一郎会長の「祖父・北里柴三郎」。本シンポジウムのポスターのデザインは綿羊の前に北里柴三郎が立つセピア色の写真で学内の掲示板に貼ると盗まれるほどの評判であった。
 
伝研移管問題の経緯をめぐるさまざまな記録
 伝研移管問題については,管轄が内務省から文部省に移管される計画が発表されると,大日本帝国議会では白熱の議論となり新聞も盛んに取り上げる大事件となった。
 八木議員の質問主意書によると,これは大隈首相が東京帝国大学の青山胤道学長に請託を決めたことで「なぜ文部省に移管するのか,その理想は何か。北里所長辞職の可能性をどうするのか。東京帝国大学の医学部に属するということを文部大臣はどのように考えているのか」とある。政友会により「政府の処置は不当である」という議案が出され,採決の結果,“不当でない”が171,“不当”が186で不当であるほうが成立した。しかし,この時の内閣提案の12個師団増設問題を中心に議会は衝突し,解散。その後の選挙の結果,政友会が敗北したことでこの採決は無効となり,結果的に伝研は大正3年文部省へ移管することになる。
 当時の文部大臣であった一木先生は回顧録の中で,「大正3年7月,欧州大戦,第一次世界大戦が始まり日英条約により英国は出兵を要求。急に不景気となる。経費削減のために各種機関を統合することにした。伝研と水産講習所が対象になった。北里柴三郎氏は巧みに宣伝し,各新聞は政府に反対した。」と記録している。また,「北里を辞めさせるのは明治大帝の思し召しに背く。留学に明治天皇の奨学金で行ったので,辞めさせるのは失礼である」という反対意見があったことも記されており,これに対し,「もし功労者なるが故に何時までもその地位に置かねばならぬというなら世の中に進歩はない」と記載されている。
 東京帝国大学側の伝研問題の記録を調べてみた。当時の山川健次郎総長によると,自身の総長時代の難問の1つが伝研の移管問題であったとして,その経緯が記されている。
 一木文部大臣の勧めで,「学術研究は文部省の所轄として大学が之に当たり,別に財団法人の機関を設けて血清の事業に当たらせよう」という提案がされた。内科の青山教授は賛成したが,薬理の林,病理の長与教授は断固反対し,「受けるなら事をすべて受けるのがいい」と主張。医学部長であった青山教授は衛生学を衛生学と細菌学に2分し,細菌学は北里柴三郎氏を教授として迎えたいという希望を持っていたが,大隈首相は直情直言直行の性格で移管を閣議で決定し進めた。外科の佐藤三吉教授が大隈首相に聞いたところ「我輩は身体のことなら青山君の指図を聞くが,政治は自ら別である。北里君も医界の硯学であることから十分に尊敬するが,しかしサイエンスは大学に委ねたほうが医政の常道であるのみならず,研究にも便利であると信じて決行したんである」と答えている。
 一昨年発行された長与又郎日記(医学部長,総長にもなった病理の長与教授による全2巻の記録)の大正3年11月7日には,「どうも青山先生と北里先生の間で民間のさまざまな議論があるが,この頃は北里先生に関する学問上の評価に大分変化が来ており,必ずしも北里先生を支援できない」と書かれている。
 
客観的に調べることで見えた真実
 現在もなお移管問題を東大対慶応,官立対私立のように書く人が少なくない。局所的にみるのではなく十分な双方の資料を調べ歴史を客観的に調べることでより本質がはっきり見えてくる。北里研発行の1656頁もある「北里柴三郎論説集」を読むと,本人の生の言葉がたくさん掲載されているので読んでいただきたい。
 本学の耳鼻咽喉科学教室の行事にも参加し祝辞を述べているように東京帝大との交流が盛んであったことがわかる。学問的論争はそれぞれの学説に立って活発に論争,友情は友情というのが北里柴三郎であった。お孫さんの明治製薬株式会社会長の北里一郎氏は,移管問題を後世の人がおもしろおかしく書いているが真実ではないと述べている。小生は今年も本学医学部の学生に「戦前最も偉大な卒業生は北里柴三郎であるが,ではどのような独創的な発見をしたのか」と問うことにする予定である。
 
出典:
<http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2004dir/n2567dir/n2567_05.htm#04>
医学書院発行「週刊医学界新聞、第2567号 2004年1月12日 新春随想 2004」から許可を得て転載した。
文責 田口 文章

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