500. 曖昧模糊500話題記念号 −北里柴三郎博士のヒラメキ.8-1-2008.
キーワード:破傷風菌の培養、毒素と免疫抗体の発見、亀の甲シャーレ、独創性、ヒラメキ、
曖昧模糊500話題記念号
暮らしと微生物「曖昧模糊」の原稿を書き出したのは、1996年12月中旬頃からで、最初の話題は「1.空気清浄器の性能. 12-24-96」でした。研究室の専任講師長谷川先生のご協力でホームページをオープンしてもらったのは、1996年12月24日のクリスマス・イブのことでした。
その当時のホームページは、北里大学のサーバーを無償で使用させてもらっていましたので、2003年3月に私が大学を退職したあとは、しばらく更新されないままでありました。
掲載されていた話題の最後は「317. XX学講座への反響.2-26-2003.」でありました。その後の数カ月間に多くの方々から、できることは手伝うからホームページを再開しましょうとの協力の申し入れを頂きました。それで2003年6月に非営利学術集団として「微生物管理機構」を組織し、活動の一環としてホームページを再開することができました。
曖昧模糊の再開第一号は「318. 微生物管理機構の旗揚げ.6-20-2003. 」としました。1996年12月末から2008年7月末までの約12年半に書いた拙文は499話題となりました。
大正3年に創立された社団法人北里研究所と北里研究所創立50周年の記念事業として昭和37年に設立された学校法人北里大学は、2008年4月をもって統合され、これまでの法人を閉じて、今年2008年(平成20年)は、これまでの伝統と歴史を継承する新しい「学校法人北里研究所・北里大学」として再出発する記念の年となりました。
この記念の年に偶然でありますが「曖昧模糊は創刊500号」となりましたので、このまたとない好機を利用させて貰い、学祖北里柴三郎博士の数々の大発見を成功に導いた「ヒラメキ」について、総説風にまとめてみました。少し長い拙文となりましたが、お読みください。間違ったことを書いたつもりはありませんが、勘違いや記憶違いの部分も多々あるかと思います、忌憚のないご意見やご批判をお寄せいただければ幸いに存じます。
「目 次」
北里柴三郎博士の独創性とヒラメキ
2)細菌を加熱せよ
北里柴三郎博士の独創性とヒラメキ
1.ローベルト・コッホ所長から与えられた最初の研究課題
北里青年が細菌学を学ぶために世界の細菌学者ローベルト・コッホの研究所を訪ねた時、コッホから与えられた研究課題は、「チフス菌とコレラ菌の化学物質と物理的要因に対する抵抗性について」であった。(北里柴三郎博士の秘話に掲載してある「北里柴三郎先生のユーモア」を参照してください)
極東の地よりはるばるやってきた北里青年(数々の大発見をする以前のことを記述すので、本文ではこの表現を使わせて貰います)にとっては、一見地味に思える研究課題であっても、夢にまで描いていた千載一遇の好機到来ですから、寝食を忘れて没頭するに値する研究であった。その次のテーマは、家畜の伝染病として酪農家には大変に恐れられていた炭疽病(たんそびょう)の原因菌である炭疽菌(たんそきん)に汚染された牧場の土壌についての研究で、地表からどのくらいの深さまで当該菌が生息(生育・増殖)できるかを調べることであった。
この研究を徹底的に実行した結果、地表の土壌には多くの種類の細菌が生息していること、地表から掘り進んでいくと段々と細菌の種類も数も少なくなること、土壌のサンプルを加熱すると芽胞(耐久性細胞)を作らない細菌を殺すことができることなどを知りえたのである。これらの結果は、その後の研究に大いに役立つのである。
2.破傷風菌の純粋培養や血清療法を成功に導いたヒラメキ
1)研究課題の選択 〜ウソも方便?〜
ローベルト・コッホ所長とならび称されるゲッチンゲン大学のフリューゲ教授は、破傷風菌は雑菌と混在する形でないと増殖させることはできず、これを共生培養と言うと発表していた。
フリューゲ教授の考えに疑問を抱いた北里青年(これ以降は単に北里と記します)は、コッホ研究所での抄読会(専門家たちの勉強会)で「フリューゲ教授の共生培養説」は間違いであると思うとの考えを発表した。居並ぶコッホの高弟たちは、冷たい目で北里を見下していたが、一人コッホ所長は「考えてないで、実験で証明したら良い」と北里を励ましたのでる。
私個人の考えでは、北里のフリューゲ教授の共生説は間違いであるとの大胆な発言は、コッホ所長および研究所の先輩たちへのかなり作為的な挑発行為にちかく、結果として「新しい研究課題を自ら選択し、自らの考えで研究できる自由を獲得した」ことになった。
この抄読会より二ヶ月後に、北里は、世界の誰にもできなかった破傷風菌の培養に成功した旨の報告をコッホ所長にした。このとき世界の大細菌学者コッホは、北里の非凡な才能に驚き、彼の能力の素晴らしさを認識したのである。(北里柴三郎博士の秘話に掲載してあります「セリフのないドラマ 破傷風菌の培養成功の陰で忘れられた大発見」を参照してください)
2)細菌を加熱せよ
破傷風患者の「病巣からの膿」をベルリンの衛戍(えいじゅ)病院(陸軍病院の旧称)より貰い受け、顕微鏡で典型的な破傷風菌の形態物が存在することを確認した後、寒天平板培地に「破傷風菌を含む膿」を接種した。しかし、破傷風菌のような特徴のある菌は、寒天平板上には見当たらず、雑菌と思われる菌のみが増殖していた。
今度は冷えて固まる直前の寒天培地を試験管に分注し、「膿」を混合して試験管を立てたままの状態で培養を試みた。試験管の口に近い上方には雑菌の増殖が認められたが、破傷風菌と思われる特徴のある細菌は試験管の底の方にのみ発育していた。
試験管の底に破傷風菌が発育し上部には雑菌が発育している試験管(の培養物)を加熱して寒天を溶かした後、そのまま寒天を試験管の中で固まらせ、再び培養した。その試験管には、破傷風菌の特徴のある細菌のみが試験管の底の方に増殖し、試験管の上部に発育していた雑菌と思える細菌は死滅していた。
細菌の棲み分けとでも思えるこの不思議な現象に遭遇した北里は、「フリューゲ教授の共生説」と「コッホ所長から与えられた土壌細菌の研究」のことが頭をよぎり、ある実験を考えついた。
裏実験である、雑菌が混在している患者の膿を寒天のなかで加熱し、その寒天を試験管のなかで固まらせて培養した。試験管の口の方に発育する細菌は全く認められず、管底にのみ破傷風菌が増殖していた。
これの実験で二つの結論を導き出した;
(1) 破傷風菌と云えども、雑菌と共生しなくて単独で発育できることを確認し、共生説を否定できた、
(2) 破傷風菌は、加熱試験から耐熱性の芽胞を作る細菌であることを証明し、芽胞を作る細菌の分離培養法を確立し得た。
3)破傷風菌は空気を嫌う
シャーレの寒天培地の平板に塗抹したのでは破傷風菌は増殖せず、溶けているまだ熱い寒天培地と共に試験管内で固めた場合には、管底の方にのみ破傷風菌が増殖する現象は、どのように解釈したらよいのであろうか。
北里は、空気との接触がある表面積の大きな平板上では破傷風菌は増殖せず、空気との接触面が小さく空気が少ない試験管の底の方でのみ破傷風菌は増殖する特徴の細菌ではないかと思うようになった。空気(窒素80%と酸素20%の混合気体)とは何を意味するのであろうか、もし空気中の酸素濃度の高低と破傷風菌の増殖とが関係するとしたら、それはどのようにすれば証明できるかを一人で考え込んだ。
そこで北里の頭にヒラメイタのは、キップの装置を使って水素ガスを作り、その水素ガスで空気を置換すれば、表面積の大きな寒天平板上でも破傷風菌を発育させられるとの作業仮説でした。ところが寒天培地を平板状に入れてあるシャーレに水素ガスをどのように注入し、そこに存在する空気を追い出して水素ガスで置換させるにはどうすればよいのであろうか。また大きな問題があらわれました。
丁度そのころコッホ研究所のペトリーにより二重皿(現在はシャーレと呼ばれる)が発明され、北里も論文でこのペトリーの二重皿は大変便利だと述べている。しかし、ペトリーの二重皿=シャーレは、水素ガスを充たすことが出来ないので、嫌気性培養には使えない。
そこで、ペトリーの二重皿の上下を溶封して合体させ、そのガラス容器に水素ガスを通すために首と空気を抜くための尻尾をもつ特殊な形の亀の甲シャーレの創作を思いついた。
これが北里による「亀の甲シャーレ」または「北里コルベン」の誕生へとなった。亀の甲シャーレを創作し、これを用いて初めて嫌気性平板培養が可能となった。
キップの装置を用いて水素ガスを作り、創作した亀の甲シャーレを用い、シャーレ内の空気を水素ガスで置換できたことが、結果として破傷風菌培養の大成功と破傷風菌が酸素を嫌う嫌気性細菌であることの証明へと導いた。
*亀の甲シャーレは、ゴム管でつなぐと何個でも連結させることができる特徴がある。
4)破傷風菌はどこに隠れる
亀の甲シャーレを用いて培養した破傷風菌を注射すると、その培養菌を接種された実験動物は、発症して死ぬ。その動物実験であらわれる破傷風の症状は、注射した部位の近くから出現しはじめ、段々と全身へと広がった。下体部に接種すれば常に後ろ足に強直(こうちょく)と痙攣(けいれん)があらわれ、その後になって頚部の筋肉が侵される。これは明らかに神経が侵されることを示す。
ところが解剖してみると不思議なことに脊髄(せきずい)、神経(しんけい)、脾臓(ひぞう)、筋肉(きんにく)などに破傷風菌およびその芽胞は見当たらない。神経などの材料を動物に接種しても破傷風を起こさない。これはなぜだろう。
この奇妙な現象の意味を数日間北里は考えた。そこでまた新しいヒラメキが頭をよぎった。もしかすると破傷風の症状は、細菌によるのでなく謎の物質により誘導されるのではと考えた。そこで破傷風菌を細菌濾過を通して除いた培養液を動物に注射した。その結果は、北里の予測通り、破傷風の症状が現れ、その動物は死んだ。破傷風菌を培養した液には、破傷風菌とは全く別物の症状を誘導する物質が作られることを発見した。この発症物質は、いま現在は毒素と呼ばれるタンパク質である。
5)強力な破傷風菌毒素へのなれ
破傷風菌の培養液をマウスに注射すると、マウスはたちまち神経症状を発症して死んでしまう。それほどに破傷風菌の毒素は強力なのである。ところが培養液を注射しても死なないで生き残るマウスがときに現れることがある。その生き残ったマウスに致死量の毒素を含む培養液を再度注射しても、そのマウスは元気で生き続ける。さてさてまたしても難しい問題があらわれた。北里は、どうしても死なないマウスの原因を突き止めたいと思った。
そのとき偶然にコカインやモルヒネのような麻薬が示す奇妙な現象を思い出した。コカインやモルヒネのような麻薬を何回も頻回用すると、段々と麻薬の効きが悪くなる。この麻薬への慣れの現象は、一体なにに原因するのであるろうか。医者として北里は、この麻薬のなれの現象に興味を持っていた。
破傷風の毒素を少量ずつ複数回にわたり注射したマウスに破傷風菌を接種しても、培養液の毒素を注射しても、そのマウスは破傷風から免れ発症しない。しかし、不思議なことに破傷風菌の接種部位から破傷風菌が分離されることから、慣れの現象は、菌の接種部位に菌を殺す物が出来る事ではないと推測した。そこで生き残ったマウスの血清と破傷風菌を混ぜて、その血清と生きている菌の混合液を動物に注射した。予想に反して生きている菌を接種したにもかかわらず、そのマウスは生き残った。菌の代わりに毒素を用いて血清と混ぜてマウスに注射した。やはりその動物は生き残った。注射されたマウスの血清には、毒素を破壊する謎の物質が作られているからだとの結論に到達した。 毒素へのなれの現象は、毒素を壊す物質(いま現在は免疫抗体と呼ぶ)ができるからという新事実で説明できるようになった。これまた大発見である。
6)血清で患者を治療せよ
北里は、破傷風菌を純粋に培養できたとコッホ所長に報告したとき、既に毒素の産生と毒素を破壊する物質の存在を予見していた。次に動物は強力な破傷風菌の毒素になれ、その動物の血清には毒素を破壊する物質(いま現在は免疫抗体と呼ぶ)ができることをローベルト・コッホ所長に報告した。
報告を聞いていたコッホ所長は、北里に向かって即座に「免疫血清を用いて破傷風患者の治療を試みる実験」を指示した。北里は、免疫血清による破傷風の実験的治療へと一直線に突っ走った。その結果、人類未踏の「免疫血清による血清療法を確立」という大発見の金字塔を打ち立てた。
ところが実際に患者を治療するには、一回の注射に約20ミリリットルの免疫血清が必要となり、マウスやモルモットなどで作った血清では足りず、ウマのような大動物を毒素で免疫する必要に迫られた。マウスとウマでは身体の大きさが数万倍もちがうので、注射する破傷風菌の培養液も数万倍の量が必要となり、実際には注射ができない量になってしまう。例えば、大人の男性に500ミリリットルの薬剤を注射するとなると、2時間半ほどの時間をかける必要がある。ヒト1人の注射量500ミリリットルは、ウマにすると少なくても5,000ミリリットル(5リットル)に相当する。
そこでウマを実際に免疫するにはどうしたらよいのか、また難問が現れた。ここでもまた新しい発想がヒラメイタのである。
7)培養液中の毒素を濃縮せよ(北里式タンパク濃縮器)
培養液を細菌濾過器にかけて濾過しても、細菌体は取り除けても、液量はほとんど変化しない。細菌も毒素物質もともに通過させない濾過器があれば、培養液の水分だけを取り除き、毒素物質を濃縮できる。そのような「うまい道具(現在では分子ふるいと呼び、分子量の違いから物質をふるい分ける膜)」はないものかと考えた。
ソーセージは、羊腸の外側の膜に肉をつめて、煙でいぶして作った一種の保存食である。このときに使う羊腸の袋に肉を洗った後の赤い液を入れて、しばらくぶら下げていると、羊腸から水分がしたたり落ちてきて、袋内の水分の量は段々と少なくなる。羊腸に残っている赤色の液は、いつまでも赤い色をしている。このように水分(実際はブドウ糖などの分量が小さい物質を含む)は通過するが赤い色素(ヘモグロビンと呼ばれる分子が大きいタンパク質)は通過させない性質を羊腸の膜はもっているので、羊腸膜は「透析膜」と称されて、分子量の大小をふるい分ける道具として使われる。
そこで培養液の毒素成分(タンパク質)を濃縮できればと考えた。その時に思いついたのが細菌学の分野で多用されていた「シャンベランの濾過器」を大改良することであった。シャンベランの濾過器(陶土製)は、すぐに目詰まりして濾過できなくなる欠点もあり、さらに毒素のようなタンパク成分は通過してしまう。
陶土製筒の代わりに「羊腸袋」を用いることにした。羊腸袋の濾過面積を大きくするために、細い羊腸を長いまま(一端はしばってある)、大きな三角フラスコのなかに入れた。羊腸袋のなかに濾過したい液体を入れ、自然に水分が透析膜から滴り落ちてくると、透析膜を通過しない巨大分子は透析膜の内部にとどまるので、時間の経過とともに濃縮される。ここに「北里式タンパク濃縮器」が完成し、大動物の免疫も可能となった。
日本ではあまり知られていが、この「北里式タンパク濃縮器」は、大変なすぐれものでヨーロッパではいま現在も盛んに使われている。自然な条件で濃縮するのでタンパクが変性しなくてよいと言われている。
8)ナス型コルベン(採血ビン)
北里が考案した通称名「ナス型コルベン」は、馬や羊などの動物の頸静脈から血液を採取するときの使用を目的に作られた採血用容器である。馬や羊などを免疫して血清療法に用いる免疫血清を得るには、ときとして一回に数百ミリリットルの血液を採取する必要がある。50〜100ミリリットル以上の血液を一度に何回も採取することは、通常の注射器を使ったのではでは難しい。
そこで静脈に注射針を刺して、連続的に数百ミリリットルでも採血できるように、大きな口のナス型のフラスコを北里は必要性から考案した。このナス型コルベンの口から直接血液を流し受け、適量になったら、次のビンに代える。血液を受けたナス型コルベンは、そのまま横に放置し、血液が凝固して血餅ができると、自然と血清がにじみ出てくるので、特別に遠心などしなくても、血清を分離することができる非常に便利なガラス製品で、これは必要から生まれた逸品である。
3.新規な発明・発見に必要な条件
パン屑とボロ布を箱に入れておくと「ネズミがわく」と長く信じられていた時代、またバイ菌は土から発生するとの考えが依然として根強く残っていたので、フランスの若き科学者ルイ・パストゥールは、「バイ菌と云えどもいかなる生命体も自然に発生する」ことは絶対にないことを証明するための実験を繰り返し実施していた。
しかし、バイ菌が土から発生する考えを否定するため、枯草をフラスコに入れて充分に沸騰(ふっとう)するまで加熱し、煎じたフラスコ内の「枯草スープ」は無菌で透明な液であるべきなのに、雑菌が繁殖してスープはたちまちにして混濁した。この実験の失敗は、土からバイ菌が発生したのではなく、のちに判明することだが、枯草菌(=納豆菌)が耐熱性の芽胞を保有していたことが原因であった。
一方、パストールの実験に対しての反対者たちは、加熱により枯草スープが仮に無菌になったとしても、それは加熱により酸素が壊れるから生命体が死滅するのであると反論した。
過熱で酸素が壊れないことを証明したいが、天才科学者であるパストゥールにしても、どうすればよいのかが分からなかった。そんなある時、パストゥールの恩師デューマ先生がパストゥールの研究室に現れ、なんでそんなに悩んでいるのかと言い「白鳥の首フラスコ」の原図を書いて見せた。
試行錯誤の末に俗に言う「白鳥の首フラスコ」を完成させえたパストールは、自然発生説を否定することができた。(北里柴三郎博士の秘話に掲載してあります。「志賀潔の細菌学を作った人々 ルイ・パストゥール」を参照してください)
北里柴三郎博士の「亀の甲シャーレや北里式タンパク濃縮器」およびルイ・パストゥールの「白鳥の首フラスコ」などの独創的な器具が大発見を導き出した。「亀の甲シャーレ」や「白鳥の首フラスコ」が作れなかったら(手元になかったら)、大発見はもう少し後になったに違いない。「窮すれば鈍す」ではダメで、使命感に裏打ちされた不撓不屈の精神の発揚が大発見には必要なことを示していると思われる。
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