◆コレラ菌[Vibrio cholerae]

 グラム陰性のコンマ状に湾曲した桿菌で、鞭毛を持ち活発に運動をする菌である。1884年エジプトで、更に1885年にインドでコッホがコレラの患者から分離した。通性嫌気性菌で、酸素があっても無くても増殖できる。増殖の際の至適pHは7.2前後であるが、pHが8.5前後でも増殖可能という事で、他の細菌と区別しうる。法定伝染病の一つであるコレラという病気の原因菌であるが、実際にコレラの原因となるのはコレラ菌の中でも、O1(菌体)抗原を持つ菌のみで、それ以外のNAG(ナグ;抗O1抗体で凝集しない)ビブリオではコレラを起こさないと言われてきた。
1992年に抗O1では凝集しないが、抗O139で凝集する細菌がO1コレラ菌と同じ病気を起こす事が報告され、O139ベンガル株と命名された。コレラ菌は血清学的に日本の地名やヒトの名前の付いた稲葉型、彦島 型、小川型に分けられる。日本人でも、東南アジアを旅行した人が、帰国後に発症するという例が多く報告されている。
この細菌は元々海水中に生息しており、海産物、特にエビ、カニ、イカ、貝類などが汚染され、それらを生或いは半生で食べて感染する。この菌が腸管内で増殖して外毒素であるコレラ毒素を産生し、この毒素が腸管粘膜上皮細胞内に入り、細胞膜にあるアデニル酸サイクレースという酵素を活性化してサイクリックAMP(アデノシン-1-リン酸)を増加させる為、細胞内より水が大量に腸管腔へ流出して激しい下痢になる。
コレラの病気の特徴は激しい下痢に伴うもので、下痢便は最初固形物が含まれるが、最終的には“米のとぎ汁”様のやや白っぽい液体になる。コレラは発症しても、十分な輸液と化学療法剤の投与で一般に治療は可能であるが、高齢者や栄養不良のヒトでは致命的になる事がある。

「コレラ菌の発見者」は誰か
ある細菌学関係者の方から次のようなご指摘を受けました。
「北里先生の秘話を拝読して、そのなかにコレラ菌はコッホが発見したように記載されていますが、最初に認めたのはコレラの標本を残しているイタリアの解剖学者パッシニーであると、日本細菌学会でも認定されていると思いますし、「戸田細菌学」にもそのように記載されていることを確認しています。だだし、ただ見つけたのであれば問題はないのですが、よく教科書にコレラ菌の発見者はコッホとなっています。どちらが正しいのでしょうか」教えてください。

コレラ菌の発見者について、私は次のように考えています。
微生物分野で広く使われている蒸気滅菌という技術は、1860年代に発見されました。また固形培地を用いる平板培養法は、1870年代になって発見されました。コッホがジャガイモの切り口に生えた菌をみて固形培地を作り出したのです。
コッホが病原細菌の第一号として炭疽菌を分離したのは1876年のことです。この時期になってもパストゥールは、液体培地を用いていましたから、これらから類推するとコッホ一門以外の科学者たちは固形培地を用いる平板培養法をまだ知らなかったと思われます。

さて「1854年にF. Paciniがコレラの患者にコレラ菌を認めた(見つけた)」との記載は、ご指摘の通り色々な清書や教科書にあります。しかし、ここで少し考えてみましょう。例えば、破傷風患者には特徴的な形をした微細な物を顕微鏡下で認めていた医師や細菌学者、科学者は、北里先生より以前にもたくさんいました。彼らが見ているものは極端に表現すると、顕微鏡で見ただけではゴミのような無機物なのか生きている細菌なのかの区別はできないのです。

しかし、コッホの原則に沿って病原菌とするには、まず当該菌を分離して、純粋になった分離菌が破傷風を起こすことを確認する必要があります。いま現在も北里関係者が破傷風菌の純粋培養に成功したのは「北里柴三郎」が最初であると云う理由がここにあります。

コッホがエジプトやインドでコレラ菌を分離したのは1883年から1884年にかけてのことです。この年代より30年前には滅菌法も寒天培地も存在していませんから、F. Paciniがコレラ患者からコレラ菌を分離したとは考えにくいことになります。

「見つけた」とか「認めた」は「発見した」とほぼ同じような意味でしょうが、「分離した」のとは異なります。このようなことから北里から出ている教科書や書物には、コレラ菌の発見者はコッホであると記載しています。大先輩が安易にコレラ菌を見つけたのはF. Paciniが最初であると云ったのが曖昧さの原点であり、コッホが分離者とすべきであったと思います。しかし、結核菌の分離者はコッホとはなかなか云ったり書いたりはしないで、慣例的には結核菌の発見者という表現が今も使われています。