家鼠は福の神
 北里柴三郎先生を私は大先生と書いたり読んだりしています。この文においても「北里柴三郎先生を大先生(オオセンセイ)」と記します。
大先生は、実験であれ世事であれ、或ることの実践に乗り出したら徹頭徹尾仕遂げるまでは止めなかった。「終始一貫」というご自身の揮亳もある。北里大学建学の精神の一項として「不撓不屈」を掲げた所以である。
 実験開始に当たり事前の準備に万全を期されたことは言うまでもない。実験台や事務机の引出の中も器具器材や筆記用具はいつも整然と収納されていたという。  用器具をより合理化し使い易くするように工夫を凝らした結果“北里式"と称する細菌濾過器、亀の甲シャーレ嫌気性培養瓶、マウス注射用固定台、捕鼠器を試作された。殺鼠亜砒酸団子も発明された。従来は肩胛骨間に注射していた免疫血清も臀筋注射の方が痛くないということも啓発された。
 防疫の普及実践には特に熱心で、どこまでも出向かれた。大阪では家鼠は“福の神”と云って珍重する風習があったのをたしなめて新聞に「我々の住居には人類だけが住むことにしたい。英国のグラスゴーではペストが流行しても博覧会が予定通り開催されましたが、我が国では万一ペストが流行すると博覧会は取り止め、つまり鼠と打ち死にせねばならぬという騒ぎを演じておって、まことに愚かなことでありませんか」というユーモアたっぷりに述べておられた。


北里式徹頭徹尾実験法
  ここで大先生の研究の方法について、触れてみたい。大先生は、あらゆることに非常に注意を払っていたし、また非常に熱心であった。試験管1本、寒天平板1枚でも自分自身で洗い作製していた。その当時は、材料も器具もお粗末であったから、他人に任せることは時として間違いの元であったようです。従って、徹頭徹尾自分自身で実施し、その結果には全くの自信をもっていたのです。そのことは、別な表現をするととても強情で頑固であった。その辺の様子について触れてみたい。
北里先生がローベルト・コッホから与えられた最初の研究課題は、チフス菌とコレラ菌の化学物質と物理的要因に対する抵抗性についてであった。コレラ菌は、コッホによって1883年に発見されていたが、1890年代になってもコレラ菌に疑問を抱く者が依然として存在していた。その代表例として、世界の大衛生学者であったペッテンコーヘルは、コレラ菌の病原性を信用せず弟子と二人でコレラ菌の培養液を飲んでみせたことでもよく解る(1892年)。黴菌は土から発生するとの考えが依然として根強く残っていたので、北里先生はコレラ菌の抵抗性を試験されたのであります。この試験は大先生でなければ出来ない方法であります。少し長くなりますが、概要を説明し、北里式徹頭徹尾実験法をご理解頂きたい。
 最初の実験は、チフス菌とコレラ菌の酸並びにアルカリを含ませた培地での発育に及ぼす影響を調べた。用いた試薬は15種類の酸(塩酸、硝酸、燐酸、硫酸、亜硫酸、乳酸、酢酸、蟻酸、クエン酸、酒石酸、林檎酸、蓚酸、硼酸、タンニン酸、石炭酸)、9種類のアルカリ(水酸化カルシュウム、水酸化カリウム、水酸化ナトリウム、アンモニア、炭酸カリウム、炭酸ナトリウム、炭酸アンモニウム、炭酸リチウム、水酸化マグネシュウム)と3種の塩(ヨードカリウム、ブロームカリウム、塩化カリウム)の合計27種類で、其の各々の異なる5から10濃度について調べた。
 第二番の実験は、コレラ菌を色々のものに培養して種々なる日数の経たもの15種を使って、乾燥と温熱に対する抵抗性を調べた。支持体として絹糸とガラス板(有機物と無機物)の2種類、環境として室温乾燥、硫酸乾燥器内乾燥と飽和湿度の3種類、時間は(1から10時間まで毎時間、15時間、24時間、35時間、48時間、72時間、4日より10日まで毎日)の22種類、培地は(普通寒天とブイヨン)の2種類、其の合計組合せは3,960通りになる。
この実験では、最初の10時間までの1時間は180枚の培養をしなければならず、1分に三つ植える勘定でありますから、従って食事を取ることも不可能、15時間経過後に初めて4時間の暇な時間が取れた事を示している。この辺の事情は北里柴三郎伝の285 - 287ページに秦佐八郎先生が述べられています。
 寝食を取らずに実験を展開する程の必要性が在るのだろうか、また可成無理な労力を払い、仕事の遣り過ぎであると今日からは考えられる。兎に角大先生はこのようにしたのであります。物凄い仕事ぶりであることを理解して頂けたと思う。

追記
 長木大三北里大学名誉教授の手による「北里柴三郎先生のユーモア」は、北里大学衛生学部微生物学教室創立35周年記念誌のために創作された「北里柴三郎先生の実験哲学」に見出しをつけて再掲載するものです。著者長木大三先生は、北里大学の創設に携わった実質的な第一人者で、微生物学教室の初代教授、学校法人北里学園の理事長、北里大学の学長を永年務められました。

文責 田口 文章