はじめに
第1章 北里闌(たけし)の誕生
北里家系譜
北里闌博士の略歴
01.謎の人物「北里闌」
-わすれられていた北里闌博士
02.小国町の神童
03.同志社と國學院に学ぶ
04. 海外留学生第一号となる
第2章 大学時代からドイツ留学
05. 森鴎外の奨めでミュンヘン大学へ
06. ドイツ文劇詩『南無阿弥陀仏』出版
07. 日本古代文字の研究を発表
08. 生涯の研究目標
09. グーテンベルグ生誕五百年記念出版
10. 軍艦「三笠」で帰国
第3章 日本語源の探索
11.ドイツ公使ヴァライ男爵の来訪
12.運命を変えた父の破産
13.大阪府立高等医学校に赴任
14.言語の不可思議
15.仮名統計表の作成
16.「究学津梁」千巻を閲覧
17.初の在阪「院友会」開催
18.経済界の不況で約束は反古に
19.審査されなかった論文
20.大震災で出版原稿を焼失
21.蝋管に録音されていたもの
第4章 後世への遺物
22.北里闌録音の蝋管資料
23.録音蝋管再生研究をめぐって
24.北里蝋管のリスト
25.蝋管始末記
26.在野の言語学者の録音・北里蘭
27.蘇る蝋管レコードの音声
おわりに

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12.運命を変えた父の破産
明治35年3月5日、イギリス・ロンドン南西部、イギリス海峡に面したサザンプトンから新造軍艦「三笠」に乗船して、帰国の途に就いた。地中海からスエズ運河を通過して紅海、インド洋、南シナ海を経て横須賀港に安着したのは5月18日であった。

2か月半の航海を終えた北里を、従兄の北里袈裟雄ら数人が出迎えた。横須賀から東京・芝公園内の大伯父北里柴三郎博士の家に直行し、翌日には高崎正風・鎌田正夫両思師のもとに帰国の挨拶に出掛け、一段落したところで東海道を下った。

大阪・今橋の自宅で待っていたのは懐かしい両親と父の事業の失敗による破産寸前の話であった。帰朝の喜びに胸ふくらまして両親の膝下にひれ伏し、これまでの親不孝の数々を謝した途端に、悲哀の谷底に投げ込まれたのである。祖先伝来の遺産として闌が分けて貰える筈であった田畑や山林をも投出しても足らなかったほど、悲惨な状態であった。

日清戦争以後の金融恐慌をはじめとする経済界の大波乱によるものであった。熊本から共に出て来た郷党の多くも同様の一憂き目に遭い、夜逃げ同然の状態で大阪から郷里小国の郷里に帰って行った。そうした両親をどうにか支えてくれたのは小国小学校同級生の橋本武次郎であった。その温情にすがって辛うじて破産の一歩手前で立っている有り様であった。

橋本もその後、小国に帰った。小国は年間平均気温が12.8℃ 、年間降雨量が2000mmを超える多雨地帯である。杉の生育に適していると考えた橋本は、和歌山県の吉野杉の造林法を手本にして植林に努め、それが今日の「小国郷の杉」として町の基幹産業になっている。その立役者となった橋本に対して、熊本県は昭和44年、「近代文化功労者」として顕彰した。

北里闌は、帰国したら衣食に困らず、自分の好む道に進むことが出来るだろうと考えていたが、実業界で失敗した両親の扶養のために、一定の収入を得るために何処かに奉職して自活の道を講ぜねばならぬ・・・、その傍ら「日本語源の研究の道に進む外なし」と決意した。