はじめに
第1章 北里闌(たけし)の誕生
北里家系譜
北里闌博士の略歴
01.謎の人物「北里闌」
-わすれられていた北里闌博士
02.小国町の神童
03.同志社と國學院に学ぶ
04. 海外留学生第一号となる
第2章 大学時代からドイツ留学
05. 森鴎外の奨めでミュンヘン大学へ
06. ドイツ文劇詩『南無阿弥陀仏』出版
07. 日本古代文字の研究を発表
08. 生涯の研究目標
09. グーテンベルグ生誕五百年記念出版
10. 軍艦「三笠」で帰国
第3章 日本語源の探索
11.ドイツ公使ヴァライ男爵の来訪
12.運命を変えた父の破産
13.大阪府立高等医学校に赴任
14.言語の不可思議
15.仮名統計表の作成
16.「究学津梁」千巻を閲覧
17.初の在阪「院友会」開催
18.経済界の不況で約束は反古に
19.審査されなかった論文
20.大震災で出版原稿を焼失
21.蝋管に録音されていたもの
第4章 後世への遺物
22.北里闌録音の蝋管資料
23.録音蝋管再生研究をめぐって
24.北里蝋管のリスト
25.蝋管始末記
26.在野の言語学者の録音・北里蘭
27.蘇る蝋管レコードの音声
おわりに

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20.大震災で出版原稿を焼失
北里はドイツからの帰途、有馬良橘中佐の配慮で、軍艦「三笠」に便乗して帰国するという幸運に恵まれた。しかし、幸運に恵まれたのはそこまでで、その後幸運は少なく不運ばかりが多かった。 不運はさらに続き大正12年9月1日におこった関東を襲った大震災に遭遇して、その大切な原稿の総てを灰燼に帰してしまったのである。このショックで神経衰弱に陥ったと云われている。 「泣き面に蜂どころの話では無い、小生の生涯に致命傷を与えた、同情に同情を重ね来った人々に対しては申し訳ない破目に陥った、これを復活せねば小生の生命は零である」と、一二の友人の激励もあって、再興に立ち上がる決心をした。そのために大正14年、55才の時に20年間勤めた府立大阪医科大学教授の職を辞した。 論文の再生・出版に取り掛かり、翌大正15年には「日本古代語音組織考解説」と「日本古代語音組織考表図」の二部を完成させた。昭和2年には「日本古代語音組織考梗概」をドイツ語で著わし、それをドイツの雑誌に発表し、その別刷りをヨーロッパの各大学に贈った。
日本医科大学の学生の送別会 エジソン型蝋管蓄音機 角板山にて蕃語の吹き込みの様子
日本医科大学学生の
   送別会
エジソン型
蝋管蓄音機
角板山にて蕃語の吹き込みの様子
「日本語の根本的研究」より

昭和3年にはフィリピンに行き、再度調査を行った。また昭和6年には、東北から北海道・樺太まで足を運び、その折、ラッパ式の重い蝋管蓄音機を持参して、原住民族の声を収録した。

長男北里董一氏が慶応義塾大学医学部に在学していた頃にその調査に同道したことがある。後年、董一氏はその原住民の音声を録音した蝋管一式を大谷大学に寄贈した。それが近年、研究者によって見いだされ、北海道大学応用電気研究所の朝倉利光教授の指導で、その多くが再生に成功した。

日本では全く評価されない北里闌の日本語源についての研究であったが、この論文は欧米に限らず東洋でも高い評価を受け、ドイツの学徒ベーター・スドルフは、北里のこの研究を基礎に論文を書き、ライプチヒ大学から学位を受けたとのこと。

ライプチヒ大学が認めてくれた北里の学位論文「日本古代文字に就いて」は、明治39年にドイツのフロレンツ博士が「日本文学史」(独文)に引用し、戦後ではマニラ大学の東洋文学部長セーラー博士が大いに称賛して、そのことを東京大学の教授に問いただしたところ、その教授は「そんな本は全く知らない」といって、セーラー博士を唖然とさせたという。

ニューヨーク・シラキュウス大学人類学教室のダグラス・ G ・ハーリング博士は、奄美大島で北里闌の足跡を調査をしていた頃、北里闌は國學院大学石川学長に「あの時大阪の紳商某が僕のために資金を出して呉れるといわなかったならば、僕はあの研究を整理する勇気は出なかったと思う。そのことを思えば、感謝してこそおれ、決して怨みに思うなどの念は残っていない。何かの機会にお礼に参りたいと思っているのだが、学界が認めもしないのだから、自己満足との駄評を浴びながらお礼に行けないので残念に思っている。・・・僕の主張が貫徹すれば本居宣長翁の語学的基礎は、一遍覆されることになる。これを以って国学の反逆者視せぬよう願いたい」と現在の心境を書いて送った。

山陰の温泉地にて 「国うみの辞」所収
山陰の温泉地にて
撮影時期は不明
北里康二氏より
「国うみの辞」所収
昭和27年10月3日撮影82才
「日本語の根本的研究」より
「龍堂」と号し三十数年間にわたり、歌会「紫苑会」を主宰した。雅号は清和源氏の末商と称する北里家の家紋「竜胆」のドイツ語によった戯名である。昭和32年に北里闌は、自分の蔵書と資料を大阪大学文学部図書館に寄贈した。「60年安保」で騒然とする、昭和35年6月22日、90年の波乱の生涯を終えた。