朝倉 利光
北海道大学教授
応用電機研究所
1.はじめに
ポーランドの人類学者プロニスワフ・ピウスツキは、世界でも有数のアイヌ研究者でありながら、その業績と生涯はまだ多くの謎に包まれている。ところが、従来その所在が明らかでなかった彼の樺太流刑時代の録音蝋管がポーランドで発見され、65本が日本での再生・解読を目的に昭和58年7月4日にポーランドから北海道大学応用電気研究所に運ばれてきた。
録音蝋管は、約一世紀前の製品であり、かつその保存が悪かったため相当に劣化が進んでおり、情報内容を解析する前に、音声再生に高度の技術的研究が要求された。したがって、工学的音声再生のための研究が続けられ、一応の成果が得られた。音声再生と合わせて、内容の解析が主に言語学と民族音楽の立場から行われてきており、その研究は現在も進行中である。一方、この機会にピウスツキの生涯・業績とその周辺の発掘も文化人類学的立場から精力的に行われてきた。
このようにして、ピウスツキ録音蝋管に関する研究は、工学、言語学、民族音楽、文化人類学の多方面にわたる学際的協力関係で研究が進行して今日に至っている。ピウスツキ蝋管の研究が進められていることが報じられたことがきっかけで、録音蝋管約240本が京都の大谷大学図書館で発見された。この蝋管に音声を録音したのは、北里闌〈たけし〉である。また、広島県山県郡加計町の旧家、加計慎太郎氏の蔵の中に夏目漱石の蝋管のほか3本が見つかった。この蝋管は、加計家の先代にあたる22代目の加計正文が録音したものである。
昭和61年2月25日に、再生の役割を終えた録音蝋管は、ポーランドに返還されるために北海道大学応用電気研究所を離れ、2月28日に新東京国際空港から航空便で返還された。一方、北里録音蝋管も再生が終了し、2月26日に大谷大学に返還された。しかし、加計録音蝋管に関しては、再生が困難をきわめ、依然として再生作業が続けられている。
以上の録音蝋管3件にまつわる周辺の話題を、特に(1)録音した3人の人物像、(2) 録音蝋管の意義、(3) 録音蝋管からの音声再生の工学的諸問題について、多角的観点から紹介する。
2.録音した3人の人物像
2.1ブロニスワフ・ピウスツキ
プロニスワフ・ピウスツキは、ロシア領ヴィリノのポーランド人地主の家に第3子長男として1866年に生まれた。1年後に、後にポーランド独立の初代大統領となった弟ユ ゼフ・ピウスツキが誕生した。この兄弟は共にペテノレプノレグ〈現在のレニングラード〉大学に進学したが、同じ大学の学生アレクサンドノレ・ウイリヤノフ ( レーニンの兄〉らのロシア皇帝アレクサンドル三世暗殺陰謀事件が発覚し、これに連座して1887年に逮捕された。元老院が聞かれた特別法廷で15名全員に絞首刑の判決が下され、アンクサンドノレ・ウリヤノフら首謀者5名は絞首刑に処せられたが、残るピウスツキ兄弟を含む10名は死刑を免れた。そして兄と弟は樺太流刑15年と5年の刑に処せられた。
ピウスツキは、それ以来10年間 (刑期は恩赦令で3分の2に減刑〉、国事犯として樺太に囚われの身となったが、その環境にもめげずに樺太原住民の社会にわけ入り、とりわけ原住民ギリヤークの実地調査を行った。1896年に刑期満了に伴って移住民の資格を取得し、南樺太のコノレサコフに開設された測候所に勤務し、それを機会に樺太アイヌに関心をもつようになった。
その後ウラジオストークに渡り、そこの博物館に勤務するようになったが、ロシア科学アカデミーの依頼もあってそこから樺太にアイヌ調査研究に出かけた。このとき、アイヌの酋長パフンチの娘と同棲し、1903年に長男、1905年に長女をもうけた。問題の蝋管は、この頃にピウスツキが調査費でエジソン式蓄音機と蝋管を購入し、自分の手で録音したものである。
日露戦争がおこると、ポーランド社会党の指導者となった弟ユゼフ・ピウスツキは日本の援助を求めて東京にやってきたが、それに成功することなく去って行った。しかし、このことを兄ピウスツキは知らないままに、1905年に函館にやってきて、東京、神戸、長崎と駆けめぐり、1906年に日本を離れてポーランドに帰った。
この間、彼は文学者の二葉亭四迷、横山源之助、アイヌ学者の鳥居竜蔵、坪井正五朗、政治学者の大隈重信、山縣有朋、島田五朗、そして日本の社会主義者らと多岐にわたる親交を結んだ。ピウスツキは、特にアイヌ救済を熱心に訴えて歩いた。彼はアイヌ原住民とその文化の理解者であり、保護者であり、アイヌ民族への愛情に燃えていた。
1906年にポーランドに帰ったピウスツキは、学歴不足から研究職にもつけず、学位取得のためフランスとスイスに留学したが、いずれも資金不足で挫折してしまった。しかし、1911年から1914年にかけて博物館や科学アカデミーに就職ができて研究生活が始まりかけたが、第1次大戦の戦雲に追いやられて再び流浪の旅に押しやられた。
そしてスイスからフランスと渡り歩き、1917年末頃にパリに流れついたが、1918年5月21日セーヌ河のミラポ一橋のふもとで水死体として発見された。死亡については、パリ警察の検視で自殺と断定されているが、その真相はいまなお明らかでない。遺体は、パリ北方のモンモラシーにあるポーランド人墓地に眠っている。
2.2 北里蘭
北里闌は、破傷風の血清療法の発見者として世界的に有名な医学者、北里柴三郎のいとこにあたる。北里は、明治3年に熊本県に生まれ、東京大学文学部を卒業後、若き日約5年間をドイツ留学ですごし、大阪医大(現阪大医学部〉で長くドイツ語教授を務めた。ドイツ語教授のかたわら、日本語の起源研究に没頭した在野の言語学者でもある。
昭和4年から6年にかけて日本語のルーツを求めて、南はボルネオ、フィリッピンから北は北海道、樺太まで研究旅行をし、各地の民謡や方言をエジソン式蓄音機を使って蝋管に録音した。北里は、「日本語の起源は、アイヌ語と朝鮮語、それに南洋語の混じったもの」という学説を主張し、それを証明するため各地の言語を収録した。これらをもとに、「日本語源研究の道程」「日本語の根本的研究」「日本古代語音組織考」などを著した。昭和35年に死去。
2.3 加計正文
夏目漱石の録音による蝋管は、広島県山県郡加計町の旧家、加計慎太郎氏の蔵の中にあった。この蝋管は、加計家の先代にあたる22代目の加計正文〈明治14年〜昭和44年〉が、明治38年10月27日に漱石に依頼して録音したものである。樺太正文は、東大文学部英文科に進んだが、林業や鉱山で栄えていた加計家を継ぐため、東大を中退し同町に帰っていた。しかし、東大時代の恩師夏目漱石を懐かしみ、彼に依頼して許可を得たのち、上京して録音したものである。
蔵から出された蝋管は、特注の桐と紙ケースに丁寧に納められ、蓄音機とともに保存されてあった。漱石の蝋管のほかに3本あり、うち1本は正文の親友で、かつ漱石門下の児童文学者鈴木三重吉が録音した「潮来節外」で、残り2本は内容が不明である。桐箱には、蝋管のほかに漱石、三重吉の書簡が沢山残されており、正文が彼等と交友が深かったことをうかがわせた。
正文は加計町に録音蝋管をもち帰ったあと、漱石を懐かしみながら時々聞いていた。しかし、次第に蝋管が針でいたみ、だんだんに聞きにくくなり、大正8年に聞いたのを最後に蔵の奥深く納めてしまった。その後、鈴木三重吉や小宮豊隆〈漱石門下の文学者〉の要請で何回か蔵から出して蓄音機にかけてみたが、すでに漱石の声を聞くことができずに、再び蔵の中に入れられて現在に至っている。蝋管は加計地方の特有な湿潤な気候と蔵特有の環境により、白いかび状のものでおおわれて劣化が進んでおり、かつ摩耗により音溝がほとんど消えており、音声再生の見通しは非常に暗い。
3. 録音蝋管の意義
3.1 ピウスツキ蝋管
ピウスツキは、世界でも有数のアイヌ研究者であるが、余りにも波乱に富んだ生涯であったためか、その生涯と業績にはまだ謎に包まれている部分が多い。彼は1896年から1905年の間、樺太にあって原住民であるアイヌと交わり、彼等の文化を研究した。ピウスツキは実際に樺太アイヌの中で長期間にわたって生活し、アイヌ語に精通できたただ1人の研究者であり、南樺太全域のアイヌ言語の資料を多く残した。さらに口承文学の採集と、それへの具体的、客観的考察を行い、これらはアイヌ語研究史において輝かしい業績となっている。
ピウスツキの仕事でひときわ異彩を放つものに、蝋管蓄音機による樺太アイヌ語の音声収録がある。言葉はいかに詳細に記載されていても、時間と共にそれから音声を再現することは難しくなる。したがって、現代では人類学者の必要な仕事に音声をテープレコーダーに収録することがある。この仕事の先駆的なことを、ピウスツキは当時の新製品である蓄音機と蝋管で行っていたわけである。
彼の音声収録は、アイヌ口承文学の諸文学様式を明らかにする上で貴重な資料である。さらに、蝋管には祭り歌、恋慕歌、舟歌、酒謡、神謡など民族音楽が多く含まれておりアイヌ音楽の貴重な資料でもある。また、蝋管にはハウキやオイナといった各種の神話や伝説が多く収録されている。これらはアイヌ文化の具体的要素を豊富に含むもので、文化人類学上から貴重な資料である。
以上のように、ピウスツキ録音蝋管は言語学、民族音楽、文化人類学において極めて貴重な資料であり、その解明はそれらにおいて重要な意義をもっている。しかし、長期にわたって放置されて劣化してきた蝋管からの音声再生には、工学的再生の技術的研究が重要であり、それなくして前記の学術的研究への出発ともなり得ない。
本再生研究を通して得られてきた工学的再生法の確立は、世界に放置されている多くの劣化した古蝋管からの再生に利用することがで きる。すなわち、音声再生方法の確立は、埋もれた貴重な文化遺産である未再生の古蝋管からの情報収集の可能性を開くものである。
3.2 北里蝋管と加計蝋管
北里蝋管には、アイヌ語、八雲方言、秋田方言、熊本方言などの日本語の各方言、台湾の高砂族の言語、フィリッピン諸島のサマール、タガログ、プラカン、バゴボなどの諸方言が生々しい音声で収録されている。日本語の方言の場合は、まだラジオなどで標準語が全国に流れなかった時代の“原方言 "の発掘に重要なデータを提供している。アイヌ語や台湾の高砂族の言語、フィリッピンの諸言語は、いずれも類例のない貴重な音声資料である。
加計蝋管に含まれる夏目漱石や鈴木三重吉の音声は、もし再生が成功した場合には、日本の偉大な文豪の肉声として文学書以外からの資料となり、社会的に貴重な資料となるであろう。
4. 蝋管からの工学的音声再生
4.1 蝋管レコード
1900年前後に使用されていたレコードは、円筒と円盤の2種類があった。円筒式は、エジソンが1877年に錫箔蓄音機として発明したのが最初で、蝋管式に改良して実用化された。一方の円盤は、ドイツ人ベルリーナが1887年に考案したもので、現在のレコードの原形である。この2方式は、形状ばかりでなく音声の記録方式も異なっていて、円筒の場合は音溝の垂直方向の変化が、円盤では左右の変位が音声信号に対応している。
円筒には、錫箔、蝋、プラスチックのものが存在したが、もっともポピュラーなものが蝋管であった。材質はステアリン酸を主成分に水酸化ナトリウム、パラフイン、酸化アルミニウムの混合物で蝋というより石鹸に近い。
標準的な蝋管は、直径55mm、長さ105mmで、1インチあたり100本のピッチでねじ状に溝が刻まれている。回転数は、160rpmであり、約2分間の音声が録音できる。当時は音声直接方式の録音時代で、ホーンから音声を吹き込み、そのエネルギーで蝋管の表面を針で削りながら記録していた。溝の深さは普通の蝋管の場合、最大で5μm 程度であるが、ピウスツキ蝋管は録音技術が未熟なためか、深くても10μm 程度である。蝋管蓄音機の再生音の周波数は、500Hz〜3.5kHz付近に集まっている。これはホーン特性を反映したためである。
蝋管蓄音機の特徴のひとつは、手軽に録音できたことである。エジソンの機械は、針の交換だけで録音機として使える点から、単なる音声再生装置としてでなく、現在のテープレコーダーのようにして使われることも多かったようである。ピウスツキ 、 北里、加計らの目的には、 このことが適当な道具となったと考えられる。歴史的には蝋管は短期間で消えてしまったが、 数百万本以上生産されていることから、多数が現在まで残っていると推定されている。その多くは、音楽が録音されたものと考えられるが、ピウスツキ、北里、加計のように個人的に録音した蝋管のなかに、言語学や民族学の貴重な資料や当時の著名な人々の肉声が残されている可能性があり大変興味深い。
しかしながら、現在では蝋管の変質や破損のために当時の方法による再生が困難な場合が少なくない。これらを考慮して、音声再生は(1)かび除去、(2)レプリカ作製、(3)信号検出、(4) 雑音低減の4段階にしたがって行った。
5.おわりに
約一世紀前にピウスツキが録音したアイヌの語りの蟻管が里帰りして、私達の北大応用電気研究所で音響工学的再生の努力がなされ、音声再生に成功した。逆境のなかでピウスツキがなしとげたこれらの労作に日の目をみさせ、一世紀近く前の樺太原住民アイヌの肉声をよみがえらせることは、現在の私達の責務であり、それはまた歴史が私達に残したロマンへの挑戦でもある。
また、北里蝋管においては北里闌の言語学者としての野心への再認識と残された遺産の発掘もまた、故人が私達に残したロマンの贈物である。加計蝋管に含まれる夏目漱石や鈴木三重吉の音声は、文学書を通して常に考える文豪だけにその肉声を聞くことができれば、それは神の声に似た感じすらするのではないであろうか。この音声再生の期待は社会的に大きいが、可能性が薄いのが残念である。
私達は、音声再生に触針法とレーザービーム反射法による非接触法を開発し、これらの併用によってほとんどの蝋管からの音声再生に成功してきた。特に、レーザービーム反射法は非接触方式なので貴重な資料を取り扱うのに極めて威力を発揮することが期待される。
早稲田大学語学教育研究所紀要33号
〈1986.12 〉
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