はじめに
第1章 北里闌(たけし)の誕生
北里家系譜
北里闌博士の略歴
01.謎の人物「北里闌」
-わすれられていた北里闌博士
02.小国町の神童
03.同志社と國學院に学ぶ
04. 海外留学生第一号となる
第2章 大学時代からドイツ留学
05. 森鴎外の奨めでミュンヘン大学へ
06. ドイツ文劇詩『南無阿弥陀仏』出版
07. 日本古代文字の研究を発表
08. 生涯の研究目標
09. グーテンベルグ生誕五百年記念出版
10. 軍艦「三笠」で帰国
第3章 日本語源の探索
11.ドイツ公使ヴァライ男爵の来訪
12.運命を変えた父の破産
13.大阪府立高等医学校に赴任
14.言語の不可思議
15.仮名統計表の作成
16.「究学津梁」千巻を閲覧
17.初の在阪「院友会」開催
18.経済界の不況で約束は反古に
19.審査されなかった論文
20.大震災で出版原稿を焼失
21.蝋管に録音されていたもの
第4章 後世への遺物
22.北里闌録音の蝋管資料
23.録音蝋管再生研究をめぐって
24.北里蝋管のリスト
25.蝋管始末記
26.在野の言語学者の録音・北里蘭
27.蘇る蝋管レコードの音声
おわりに

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3.同志社と國學院に学ぶ
4年間の寄宿舎生活を体験して明治24年に同志社を卒業したが、そこで外国語と日本語の差異、外国人の長所などを学んだが、国学の授業が同志社には全く無く、落胆する日々を過ごした。

そして次第に「もう少し、日本を知る必要があり、真に自国を認識するには日本を離れて、日本を見る必要があると感じるようになった。開国して近代国家への道を歩んでいた明治日本の若者は、誰もが海外の国々に行って、その文化を学びたいという、大きな夢を抱いていた。闌もその一人になろうと、早くから海外留学を志していた。

しかしながら、闌は、先輩達が日本のことを全く勉強せずに留学している姿を批判的に見ていた。日本というものをじっくり研究してから留学した方が、外国と日本の文化を比較することが容易になる。その基礎固めに「国学の研究によって日本の成立から学びたい、日本の古典をしっかり勉強したい」と思うようになった。しかし、闌の願望を充分に満たす学校は残念ながら大阪や京都には存在しなかった。

「東京には新しい国學院がある。外国と日本を比較する研究には、適当な道場かも知れない」と恩師から闌は助言を受けた。國學院を知ったのはこの時であり、この助言で国學院への進学を決めた。

だが実業界入りを強く望む家族らの意見との違いから「東京の國學院での勉学」についてはとても難渋をした。そこで闌はドイツから帰国したばかりで東京在住の北里柴三郎博士に、「父子間の意見の衝突を調停」してくれるよう頼み、結果として「北里柴三郎博士が監督する」ということで落着し、明治26年に國學院に入学できたのである。これは闌が北里柴三郎博士に助けを求めた最初のことになる。

國學院に入学した闌は「何か1つの事を把握する必要がある」と考えて、宮内省文学御用掛御歌所勤務の歌人鎌田正夫に師事して、和歌を学んだ。明治28年の冬休み、闌は鎌田正夫に同道して、國學院に入学した時の院長であり、明治26年12月に院長を退任したばかりの御歌所所長高崎正風男爵に初めて対面した。

『山畑の麦の色よく見ゆるかな土の肥えたる程も知られて
冬枯の真聞の入江の古柳みづの姻に春や知るらん』

ほか北里の二三首に心を動かされた御歌所所長の高崎男爵は、闌の詩に朱を加えた。このとき北里闌は高崎門下初の民間唯一の門人となり、号を「龍堂」とした。