第2話
 ものの見方・考え方


『主な対象読者』
 中学生から大学生くらいのグループ。
『両親へのお願い』
 小学生や中学の低学年のグループの児童または生徒
 には少し難しい内容かと思います。
 できたらお父さんやお母さんが一緒に読んであげて
 ください。親子での対話が始まることを期待しています。
 
 
 
本 文 目 次
 
第一章.遠い日の思い出
第二章.立方体はどう見える
第三章.球は丸いか
第四章.毛玉の次元
第五章.御神木(ごしんぼく)の意味
 
著作 坂田明治
 

 
第2話 ものの見方・考え方
 
 
第一章.遠い日の思い出
 とにかく、なんとかして理科好きな子供を一人でもいいから育てましょう。これが本コーナーの趣旨と考えています。まあ、理科好きと言っても、その知識に興味を持つ人や、考え方に興味を持つ人、実験に興味を持つ人、だれそれ先生に憧れてこの道に入る人など色々な人がいることと思います。
 
 実験的な試みも幾つかなされており、出前実験などのニュースが流れてきます。ただ、この方法に関しては、「本当にこれでいいのか」と疑問に思っています。というのは、このやり方には、「次がない」のではないでしょうか。一度、実験を見て「わー、すげー」と感心しても、すぐに忘れます。全ての学校に、毎週出前実験をしに行くようなことは、現実的ではないでしょう。自分で調べるなり、考えるなり、なにかができるようになるまで、継続的に興味を引くにはどうしたらよいのでしょうか。相当に難しい問題です。
 
 私の記憶に残っているひとつの出来事があります。とはいっても、なにぶん古い話なので、記憶が定かではありませんし、その後のこととごちゃまぜになっている可能性もあります。その点は思い出話なのでお許しください。
 
 1960年代の終わり頃、アポロ11号によって、ついに人類を月へ送ることに成功しました。この時期、大人も子供もテレビにかじりついていました。アームストロング船長が、この一歩がどうとかこうとか、歴史に残る銘言を言ったような記憶があります。個人的には、この言葉よりも、アポロ計画の中心人物の一人だったフォン・ブラウンの言った言葉、「最も難しいのは情熱を持ち続けること」の方が印象に残っています。
 
 この後、何回も月へ人を送っていましたが、あまりニュースにならなくなっていたと記憶しています。全く、フォン・ブラウンの言った通りになっていました。
 
 アポロ計画ですらこうですから、ましてや理科好きな子供を育てるには相当な努力と忍耐が必要でしょう。
 
 もう時間的な順序がどうなっているのか覚えていませんが、こんな質問をしたことがあるような気がします。
「先生。どうして月や太陽は落ちてこないの?」
 この素朴な質問に対して先生からは、ろくな回答はなかったと思います。「月や太陽が落ちてきたらみんな死んじゃうでしょ。だから落ちてこないのよ」と言いそうな気がします。もちろん個人的恨みから来る偏見です。
 
 その後で、図1のような絵をどこかで見つけて、「なるほど。そうだったのか」と納得した覚えがあります。
 
 
 ものを投げると、力を込めれば込めるほど、ものは遠くまで飛んで行き、やがて元の場所まで飛んでいってしまう。そうすると同じ事が繰り返されるから落ちてこないのか。図1を見て、そのような解釈をしていたと思います(ほしかった回答はこのようなものでした)。
 
 これらは、先生と生徒で考えがずれていたほんの一例です。もっと極端な例もあります。アポロ11号から何年か経って、「将来の夢」だか、「将来なりたい職業」だかを先生に聞かれたことがあったと思います。確か、「悪の組織の首領になって世界を征服し、人間どもをこき使ってやる」とか、「金持ちの独裁者になりたい」とか、「美女を2、30人はべらせてハーレムを作りたい」と書いたやつらは怒られました。そもそも、将来のことなど何も考えておらず、テレビ番組の影響でいい加減に答えていただけです。一方で、「偉いハカセになりたい」と書いた奴は誉められていました。もちろん、怒られた方とすれば、「何で俺達が怒られて、あいつだけほめられているんだ」となるのは当然でしょう。昔から、テレビや映画に出てくる「偉いハカセ」というのは、「平和のために水爆以上の破壊力を持つ兵器を作ったマッド・サイエンティスト」です。こいつが誉められるというのは腑(ふ)に落ちませんね。
 
 大体、「将来の夢」とかを聞いておいて、その後がないというのも問題です。ちゃんと将来の夢を聞いたら、それに向かって何をするのがいいのかを言ってくれるのが本筋でしょう。そうすれば、「偉いハカセ」も俺達と同じように怒られていたかもしれませんし。
 
 この辺のことが決定的になって、「絶対に教師にだけはならない」と心に誓ったものです。なにか話が逆転していますね。
 
 そして、ここがこの講座ものの見方・考え方の出発点となります。怒られたから、逆恨みに原稿を書いているというのではなく、先生と生徒とのずれ、言い換えれば「視点のずれ」が本稿全般を通しての基本となります。
 
 
第二章.立方体はどう見える
 どこまでできるか解りませんが、前章の冒頭にある考察を踏まえ、なるべく興味を継続できるような話題にしようと考えています。そのため、金がかからず、誰でも日常の中から拾えるものに焦点を絞ってみましょう(ついでに難しい漢字や、難しい言い方も使うのはやめますし、必要に応じてかなをふります)。
 
 立方体はサイコロみたいな形をした立体図形です。
 
 
図2を見てみましょう。こんな形をした立体図形を見たことのない人はいないと思います。この図形を色々な方向から眺めてみましょう。
 
 図3の@、A、Bの矢印の方向から眺めてみましょう。図4の@、A、Bのように見えます。同じ図形でも見る方向によって別の形に見えてくるのが解ると思います。このような例はいくらでもあります。あなたが今こうしてこのページを見ている時に操作しているマウスを色々な方向から眺めてみてください(注意:レーザーマウスなど、光を出しているものは、直接光を見てはいけません。目を傷めますので気をつけましょう)。それぞれ違った形に見えているでしょう。でも普段このことをあまり意識しないのは、我々の脳が、見る方向によって形が変ったとしても、それが同じものであると判断しているからです。
 
 色々な方向から眺めてみましょう。我々の脳は、それらが同じものであると自動補正してくれますが、意識的に違う形に見てみましょう。これが第一歩になります。
 
 
第三章.球は丸いか
 ここでの話題は球です。球を色々眺めてみましょう。
 
 
 図5を見るまでもなく、たいがいの人は「球なんてどっから見ても丸く見えるじゃないか」と考えると思います。そうでない人は、既に本稿の程度を卒業しています(めでたし。めでたし)。
 
 さて、大きさは変わるにしても、球はどっから見ても丸いと思う人は、夜空の星を眺めてみましょう。星が点に見えますね。晴れた夜空が見られない人は、図6で我慢しましょう。そして、星がその方向に見えるとか、その位置に見えるというのは、そこの方向から光がきているからです。
 
 
 肉眼で見えるのは、恒星(こうせい)と惑星(わくせい)のごく一部で、これらは球です。ということで、球といえども、非常に遠くから見ると点に見えます(近似的に点とみなすということですが、あまりこだわらない方がいいです)。
 
 どっから見ても丸く見えるはずのものが、丸ではなく点になっていますね。ここが重要です。例えば、次のような話に発展していきます。よく理科の授業かなんかで、「惑星はまたたかない。恒星はまたたく」というのがあります。これもちゃんと理由を説明してくれない現象の代表格です。普通、「空気(大気と言った方がかっこいいのですが、ここでは空気で統一します)のゆらぎによって恒星はまたたく」と説明されていますが、これは説明になっていません。惑星だって、空気のゆらぎの影響を受けるし、それどころか、太陽や月だって空気のゆらぎの影響を受けているでしょう(注意:太陽を直接見てはいけません。目を傷めますので気をつけましょう)。同じ物理法則に従っているはずなのに、なぜ恒星だけがまたたくのでしょうか。
 
 
 図7を見てください。惑星は近いので円に見えますが(ある程度大きく見えるということ)、一方、恒星は遠いので点に見えます(といっても実際には微妙な差ですが)。準備として、空気のゆらぎを考えましょう。空気のゆらぎというのは、空気の密度が変化するものだと認識しておきましょう(上空には強い風が吹いていて、空気の密度が変化しています)。そして密度が変ると、光の通り道が変化します。陽炎(かげろう)や逃げ水などを見たことがあると思います。もっと身近なところでは、ストーブの上の方や、冬に電車のドアが開いて、暖かい空気が冷たい方へ流れていくのを見てみると、ものがゆらいでみえるでしょう。これは温まった空気が冷たい方へ流れていくときに、密度が変化し、光の通り道が曲げられるからです。光が曲げられる一番身近な例はレンズです。レンズで光の通り道が曲げられ、ものが大きく見えたり、小さく見えたりします。
 
 光にはとても不思議な性質があって、目的地までの時間が最小になるような通り道に沿ってたどり着きます。これを「光路(こうろ)は最小時間をとる」と言って、幾何光学(きかこうがく)の公理にしていますが、あまり気にしない方がいいです(狭い意味では初等幾何、広い意味では変分法(へんぶんほう。何か怪しげな言葉ですね)という手法を用いています)。いずれ、誰かが幾何光学の原稿を書いてくれるかもしれませんね。
 
 
 せっかくだから、ちょっとだけ見ておきます。幾何光学で最初に出でくる問題は図8の問題です。馬が、川で水を飲んで、飼葉桶(かいばおけ)の干草を食べに行くときの問題です。この馬は怠慢なので歩くのが嫌いでして、なるべく歩きたくない。だから、歩く距離が一番少ないような道を見つけなさい、という問題です(光と関係ないじゃないか。と思う人は、この馬は光速で歩ける馬だと思いましょう。無理矢理こじつけて、苦しい言い訳ですね)。この問題は後の楽しみに取っておきましょう。
 
 さて、図7に戻ります。そこに星が見えるというのは、その方向から光がきているからだと認識しましょう。まず、このことを頭に入れておいてください。その上で、左下にある大きな円を見てみましょう。実線で書いた円は、空気のゆらぎがなかった場合の光が来る部分です。ゆらぎがなければ光は直進しますので(本当は光が空気の層に入ったときにも曲げられますが、これは無視しましょう)、実線で囲まれた円の内部に光がやってきます。点線で書いた円は、ゆらぎがあった場合に大部分の光がきたり来なかったりする部分を示しています(大きく曲げられて、どっか遠くの方へ行ってしまうへそ曲がりな光も少しあります)。円の右側の部分に来る光で説明しましょう。あるときは光が右の方にずれて、外側の点線の円のところにやってきたり、またあるときは、光が左の方にずれて実線の円の内部に光がやってきたりします。
 
 そこに星が見えるというのは、大部分の光がその方向からくることでしたから、大部分の光は実線の円の内部にきます。そして、ちょっとだけ、点線の円の内部にきます。条件次第ですが、どこか遠くの方へ行ってしまう光もわずかにあります。ですから、実際には、実線で書いた円だけに光がきているのではなく、授業中に席を離れてふらふらしているような光があります。このことによって、少し、ふらつきができます。
 
 少し大げさな数字を当てはめて様子を見てみましょう。例えば、直径が10cmで左右合わせて1mm程度ふらついても大した影響はないでしょう(1mm/10cm=1mm/100mm=1/100なので影響は小さい)。これなら無視しても差し支えないですね。
 
 一方で、図7の右の絵はどうでしょうか。ゆらぎがなければ、光のくるところは点になりますが、ゆらぎがあるために、点線の円の内部に光がやってきます。この場合、1mm程度ふらついても影響は絶大です(1mm/0mm=無限大ですよ)。そもそも、光の線が1本しかきてないのだから、それがどっか別のところへ行ってしまえば見えなくなります。こうして、暗くなったり、明るくなったりして、星がまたたきます。
 
 つまり、太陽や月、惑星は大きいので円に見えるため(月は満月のときでなくては円に見えませんが)、光のふらつきが相対的に小さくなりまたたかない。恒星は点に見えるため、光のふらつきが相対的に大きくなり、これがまたたいて見えるということになります。ただし、月の円周側の輪郭がはっきり見えるというのは(欠けている方はぼやーっとしますが)、別な現象が関わっているからで、ここでは考えないことにします。
 
 ふー、疲れましたね。ふと、海が見たくなってきませんか。
 
 
 ところで、地球は巨大な球でしたね(だから「球」という文字が入っている)。我々は、地球に比べればごく小さなものです。地球から見れば、表面にへばりついている微生物みたいなものでしょう。我々の目では水平線(「平」という文字が入っているから、たいらだと考えていたんですね)はまっすぐに見えます。図9みたいな感じかな。本当は、地球というくらいですから、地平線を考えてみたいのですが、障害物が多くて地平線が見えません。
 
 
 海を見れば解ると思いますが、波を無視すれば、どうみても地球は平面に見えます。広い草原などで周りを見ても、やっぱり平面に見えます。ということは、我々の目で見た世界観では、地球は平面だということになるでしょう。図10は誰がどこで見ても、地球は平らだということを表した図です。これをつなぎ合わせて、昔の人が、地球は平らだと考えていたのもうなずけますね。図11は昔の人が考えた地球です。(難しい話:「多様体」(たようたい。また、あやしげな言葉が出てきましたね)を勉強すると、ミクロの世界では同じでも、マクロの世界では全然違うものになることが解ります)
 
 
 単純に、「地球は球だから、昔の人の考えは間違っている」と思うのはよくありません。関連した話が最後の章で出てきます。実際、地球は平らだというのは、結構よく使っていますよ。例えば、家を建てるのに、誰も地球は球だからという考えで設計をしてません。みんな地球は平らという前提で設計しています。我々が、地球にへばりついて、我々の目で見ている範囲では地球は平らだと考えて一向に差し支えないでしょう。
 
 なお、「地球は球だ」ということを知らしめるのに、多大な努力と犠牲が払われました。先輩諸氏に感謝の念を捧げましょう。ただし、未だに、地球は平らだと主張している輩(やから)がいます。この私です。かなり昔から、「俺は地球が球だなんて信じんぞ。信じさせたければ、国産の往還機(おうかんき。宇宙まで出て戻ってこられる有人宇宙船)を開発して、ただで俺を乗せて地球が丸く見えるのを見せてみろ」と言ってます。(これを読んだ人が、将来、往還機を開発して、ただで乗せてくれないかな)
 
 この章での考察をまとめてみますと、球は必ずしも丸く見えるのではなく、スケールによって、点に見えたり、丸に見えたり、平面に見えたり、色々と全然違ったものに見えてしまうということです。
 
 
第四章.毛玉の次元
 前章と同じ考えで、もっと別なものを見てみましょう。面白いのは毛玉です。
 
 毛玉というのは、たくさんの撚った(よった。糸をねじってからみあわせること)毛を球状に巻きつけたものです。図12がそれですが、ちゃんとそれらしく見えるでしょうか。
 
 
 さて、この毛玉の次元を考えてみましょう。図13を見てください。左から2番目にあるように、我々の目のスケールで見れば、毛玉は3次元の物体に見えますが、宇宙規模のスケール(1番左)、で見れば、ただの点にすぎませんから0次元です。また、虫めがねのスケール(左から3番目)で見れば、繊維がからまっているように見えますので、1次元です(繊維は曲線とみて1次元と考えているということです)。顕微鏡のスケール(右から2番目)で見れば、繊維が柱状に見えますので、再び3次元に見えます。原子のスケール(1番右)でみれば、空間に点がポツリポツリと浮いているだけなので0次元です。つまり、スケールを変えることによって次元が変ってしまうということです。
 
 既に、お気づきでしょうが、前章で使った考え方も、今回と全く同じで、スケールを変えて見ているというだけです。
 
 よく、「色々な見方・考え方をしなさい」と言う人がいますが、大概、「んじゃ、色々な見方の例を10個くらい見せて」と言っても「自分でやれ」と怒るだけです。本稿で示したのは、その色々な見方・考え方として、「スケールを変えてみる」という方法です。ここでは、空間的なスケールでしたが、もちろん、時間的なスケールを変えてみることもできます。例えば、人間の寿命のスケール、地質年代のスケール、素粒子(そりゅうし)の寿命のスケールなどです。
 
 必要に応じて丁度都合のよいスケールを考えるべきでしょう。しかし、ここに一つ問題があります。おなじものを見ても、スケールが違ってしまっては、全く別なものとして捉えてしまうという問題です。それでは議論する際に、話がかみ合わなくなったり、結果が全く違ってしまったりしてしまいます。「人それぞれに考え方が違うんだから」で済む問題ではありません。
 
 そこで、議論をする場合に、どのように見ているか条件をそろえる必要があります。実験でもなんでも、色々と細かい条件が書き示されているのは、それぞれの人が頭の中に描いているものを越えて、共通の言語を与えているためです。そして、そこに書いてある条件に従って実験すれば、誰がやっても再現できなくてはなりません(追試と言います。落第点を取ったからやる試験のことではありません)。これで、再現しないと、その結果そのものが怪しいとなります。
 
 ものの見方・考え方は人それぞれですし、捉え方も人それぞれです。それを認めた上で、他人に話をするときは、共通の基盤にそろえて話をする必要があるとお解りになりましたか。
 
 第1章で先生と生徒の考えがずれていたのは、先生は、年中行事なのか職員会議で決まったからなのかはともかく、その瞬間のスケールで「将来の夢」を書かせようとしましたが、生徒は、「何も考えていない」というスケールそのもののない状況で考えていたためです。そして、どちらも歩み寄りがありませんでした。今となってはどうすることもできませんが、先生が人生というスケールで考え、そしてうまく生徒をこのスケールに乗せ、どのようにすれば夢が実現するかの指導をしていたら話は違っていたと思います。
 
 人それぞれに考え方が違うことを認め、共通の基盤にそろえること、ひらたく言うと、考えを歩み寄らせて同じ土俵に乗るということ。科学的な話を続けてきたのに、なんだか倫理(りんり)みたいなものが出てきましたね。
 
 
第五章.御神木(ごしんぼく)の意味
 いよいよ最終章です。楽しかった(?)本講座もこれでおしまいです。ここまで読まれた方なら、人それぞれに考え方が違っていること、そして、他人と話をする上で同じ土俵に乗る必要があると解ったと思います。この上で、少し考えてみましょう。
 
 まず、我々の知識と比べて昔の人の考え方が間違っているという批判はやめましょう。昔の人が考えたのは、そのときの時代的背景があったからです。この部分を抜きに考えるのは危険です。大体、我々の考えや知識だって、未来永劫正しいとは言い切れません。色々な人が色々な苦労と多くの犠牲を払った上に乗っていますので、この後も色々な人が色々と苦労したり、犠牲を払ったりして、どうなるか解りません。太陽系の惑星だって9個から8個に減らされるくらいです。もっと極端な例をいうと、現在の我々は、宇宙創世記から今までの歴史の上に乗っています。あの時、戦争がなければどうなっていたかも解りません(私は産まれなかった)。しかも、これらの歴史は実験室では再現できません。
 
 過去を考える場合、そのときの時代背景は重要です。例えば、伝統医学というものがあります。病気になったのは、怨霊の仕業だから、お払いをしてそれを治すというものです。我々からみれば、「こんなのインチキだ」となりますが、その当時としては、病気がなんでおこるのか解らず、そもそも、目に見えない微生物なんて存在すらも知らなかった。当然、そういった微生物が原因で病気となることがあるなどとは夢にも思わなかったはずです。そうだとすれば、病気の正体を怨霊ということにして、それを払えばよいというのも無理からぬことです。お払いによって気分がよくなり、それによって免疫系の働きがよくなるのであればなおさらです。
 
 また、「森へ入ると恐ろしいたたりに見舞われる」という言い伝えもあります。「たたりなんて、そんなの非科学的だ」などと思っている人は多いと思います。しかし、この言葉は日本が自給自足をしていた頃の言葉であって、経験的に森林の価値を十分によく解っていたときの言葉です。昔から、日本では、自然林と人の生活空間の間に里山を置いていました。そして、それぞれの空間にそれぞれの生態系があり、相互に重要な役目を担っていました。森へ入ること、それは破壊につながります。人間の目である狭い空間、狭い時間的スケールでは、破壊した部分だけで、あとは大したことがないように感じますが、実際にははるかに大きなスケールでの破壊になります。森林生態系が破壊されることによって、その場所だけではなく、海中へも影響が出て不漁、不作が続いたり、更には気候が変化したりと影響が大きくなります。まさしく、「森へ入ると恐ろしいたたりに見舞われる」ということが実践された訳です。
 
 話がかたくなってしまったので、息抜きをしましょう。「吸血鬼伝説」というのがあります。いつ頃、どこでできたものかは解りません。たぶん後から誰かが作った作り話でしょう。ただ、この伝説は実によくものごとを捉えています。簡単に要約すると、吸血鬼というおっさんが、バンパイア(正しくはヴァンパイアだそうです)とかいう吸血こうもりに変身して、人とか、家畜とか、犬とかから血を吸うと、血を吸われたものが今度は吸血鬼となって血を吸い、また、血を吸われたものが吸血鬼となって、と繰り返されます。一方で、牛などの家畜は牙がないため吸血鬼になりきれず、よだれをたらして苦しんで死んでしまう、というものです。
 
 最初の吸血鬼というおっさんは何だか解らないので無視して、バンパイアという名前のこうもりは存在します(和名はチスイコウモリです)。このチスイコウモリ、性格はしごく穏やかで仲間思いです。具合が悪くて血を吸いに行けなかったものには、血を吸ってきた仲間が血を吐き戻して分け与えます(人間より仲間思いですね)。
 
 ここまでは問題ないのですが、チスイコウモリは狂犬病ウィルスの自然宿主になっています。狂犬病(きょうけんびょう)とは、唾液(だえき)の中に狂犬病ウィルスが出てきて、噛(か)み付くことによって感染します。当然、狂犬病ウィルスは感染の機会を得るため、感染した動物や人間の脳を操作して凶暴(きょうぼう)にし、噛み付かせます(宇宙から来たエイリアンじゃなくても、脳を操作する微生物や寄生虫はたくさんいます)。こうして感染を広げますが、牛などの反芻類(はんすうるい)は噛み付く性質がないので、苦しんで死ぬだけです。こうして見てみると、「吸血鬼伝説」は狂犬病のことだと思うとつじつまが合ってきます。ウィルスなんて考えないでこの話を作ったんでしょうがよくできていると思います。
 
 ここまで来れば、本章のタイトルである「御神木」というものに何らかの意味があるのではないかというのが見えてくると思います。ただ単に、老木を祀って(まつって)大切に世話をしているだけではなく、何らかの裏があるはずです。
 
 そもそも、老木を大切にして世話をしている人に老人が多いということも不思議です。「木を大切にする」というだけなら、何も老木を大切にしなくても、若い木でもいいはずです。この謎はずうっと解りませんでした。しかし、ある時、老人からこの理由を聞く機会がありました。それによると、「人は、いくつになっても誰かに甘えたいと思う心を持っているが、年をとってくるとどうしても自分より目上の人がいなくなってしまう。それで甘えられる相手がいなくなる。結局、自分より年をとっているのは、木だけなので、木を大切に世話することによって、実は木に甘えているんだ」と。相手の立場が解って、確かに、納得がいきました。
 
 全ての老人がこのように思っているかどうか解りませんが、とにかく、自分のスケールだけでものを見るのではなく、相手のスケールでものを見ることが大切です。本稿では、色々なスケールでものを見ることを主要な目標にして、また、人によって見ているスケールが違うので、共通のスケールにそろえて議論することを説いてきました。純粋に(?)科学的な話でしたが、何故か倫理みたいな話になってきました。人間のやっていることは所詮(しょせん)お釈迦様(おしゃかさま)の手のひらの上でしかないということでしょうか。
 
平成18年12月8日
坂田 明治(あきはる)
 

 

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