第22話
 学びたくても学べない
 生きたくても生きられない子どもたち
 

 
「主な対象読者」
児童や生徒から熟年者までを対象者として書きました。
「両親へのお願い」
老若男女を問わず全年齢層の方々に読んで戴きたい。
特に年頃のお子様をお持ちのお父さんやお母さんは、学べること、食べられること、生きることの意味について、子供と一緒に話し合っていただければと願っています。
 
 
本 文 目 次
若い世代の皆さん
シエラレオネという国
学びたくても学べない理由
 1)まず貧困です
 2)次は病気
 3)無知が無知を生む
生きることしか考えられない
労働から学ぶ
手作りの学校
教育の持つ力
学校給食の影響
125円で一週間食べられる
食べさせてもらえるから学校に行く
シエラレオネ人の長所
70年前の日本人
海軍少年兵に志願
人生の意味を確かめたい
なんとももったいない
 
著作 佐藤 正明
 

 
 
 
第22話 学びたくても学べない
      生きたくても生きられない子どもたち
 
若い世代の皆さん
 皆さんはシエラレオネという国を知っていますか? 知らなくても恥ずかしいことはありません。私も50歳までは知りませんでした。ところが今では一番縁(えん)の深い国になってしまいました。私はもう77歳の老人なので、若い日本の皆さんのことはよくわかりません。
 
 しかし、シエラレオネの子どもたちのことならよく知っています。そこで今日は、皆さんが自分を考えるきっかけにでもなればいいかなと思って、シエラレオネの子どもたちのことを話してみます。学びたくても学べず、生きたくても生きられない子どもたちの話です。
 
 私がシエラレオネという国を初めて知ったのは、28年前に宣教クララ会のシスターである根岸美智子さんという宣教修道女(せんきょうしゅうどうじょ)が、当時私の勤めていた玉川大学で学生に講演してくれた時でした。卒業生だった彼女は7年に1度の休暇で帰国した時、母校を訪ねてその国のことを話してくれたのです。
 
 シエラレオネのルンサという町にグアダルペの聖母中学・高等学校があります。その時根岸美智子さんはそこの副校長でした。私は彼女の話を聞いて、その国の貧困(ひんこん)の凄まじさに強い衝撃(しょうげき)を受けました。そして、同じ地球上にそんな国があり、そんな人々がいることを、それまで自分が全く知らずにいたことにも大きなショックを受けたのでした。
 
 それがご縁で私は彼女を支援し、その国の子供たちが学校で勉強ができるよう学費を援助する「手を貸す運動」という活動を始めました。シエラレオネの人々が貧しいのは自立できていないからで、その解決には遠回りでも教育しかないと確信したからでした。
 
 そして、次に子どもたちが学校に喜んで来るようにと学校給食も始めました。なぜなら、そこの子どもたちは1日に1回の食事ができるかできないかの状態だったからです。この学校給食は彼らの命を救い、同時に給食の魅力で子どもたちを学校に来させる、結果的に教育できるという一石二鳥の援助です。これについては後ほど詳しくお話しします。
 
 
シエラレオネという国
 その前に、この国のことをざっと説明しましょう。シエラレオネは西アフリカにある共和国で、北海道よりやや狭い熱帯の国です。首都はフリータウン。1961年までは英国の保護領でした。昔は奴隷(どれい)狩りで痛めつけられ、今は世界で最も貧しい国です。文明は非常に遅れています。人口は約400万人。99%は黒人で、宗教は70%がイスラム、20%がキリスト教、残りは土着宗教です。部族は17あるので、公用語は英語を使います。教科書もみな英語です。
 
 主な産業は農業と零細な商業ですが、鉱物資源は実に豊富です。特にダイヤモンドでは世界有数の産出国です。その他に金、鉄、ボーキサイトなどもたくさん産出します。だから、ある人は「もし日本人がこの国の国民だったら、今頃シエラレオネは世界一豊かな国になっていただろうにね」と言っていました。
 
 しかし、現実にはその豊かな鉱物資源はそれほど彼らの利益にならず、むしろ反対にそのダイヤが原因で1992年から2001年までは物凄く残酷な内戦が続き、国を壊滅的に荒廃させたのでした。9年間の内戦は民族紛争や宗教対立が原因ではなく、ダイヤをめぐる欲望の争いだったのです。今年の5月ごろ、日本のあちこちの映画館で上映されたディカプリオ主演の、「ブラッドダイアモンド」(血まみれのダイヤ)はそれが主題の映画でした。
 
 
学びたくても学べない理由
 では、なぜこの国では子どもたちの多くが学びたくても学べず、生きたくても生きられないのでしょうか? 私はその主な原因を貧困、病気、親の無知、学校不足、戦争の5つだと見ています。
 
1)まず貧困です
 日本でも貧しい人はかなりいます。しかし、シエラレオネの貧しさとは比べ物になりません。この国では大多数が明日食べるものにも事欠き、その日その日を生きるのがやっとなのです。貯金も年金もありません。お金はマーケットで生産物や手作り品などを売って稼(かせ)ぎますが、首都以外には銀行がありませんから、僅かなお金は袋代わりの靴下などに入れて家にしまっておくだけです。
 
 ルンサはシエラレオネで10指に入る町ですが、それでも電気はありません。だから、テレビも電話もパソコンもありません。シスターたちは自家発電で一日のうち数時間だけ電気を使えますが、一般民衆は夜になるとケロセン(石油)・ランプを燈(とも)して過ごします。
 
 これでは宿題などできるわけがないでしょう? 皆さんの中には宿題がないとは羨(うらや)ましいなぁと思う人がいるかも知れません。しかし、本も読めないのですよ。もっとも本もありません。もちろん携帯も。すぐ死にたいほど退屈になると思います。
 
 暑い国だから、夜になると人々は外に出て、道端(みちばた)で物を売ったりします。その売り場のランプの明かりが暗闇(くらやみ)に点々と並ぶのを見ると、初めての旅行者は詩的に感じます。しかし、彼らはそれどころではありません。皆さんも暗闇を体験したければ、一晩電気をつけずに生活してみるとわかります。
 
 新聞もありません。水道もありません。水は井戸があればいいですが、ない家族は川か湖沼に汲みに行きます。鉄道もバスもありません。一番普通の交通手段は自分の足です。車は特権階級のもの。自転車のある人は羨ましがられます。とにかく文明の恩恵は実にわずかなのです。
 
 伝統的な民家は、土の壁に草葺屋根(くさぶきやね)です。今はトタン屋根が多いですが、共通して窓は小さく、内部は土間で、そこに藁(わら)を敷いて家族が並んで寝るのです。炊事(すいじ)も同じ土間で行ない、鍋が2つぐらいあるだけ。3個置いた石の上に鍋を乗せて煮物をします。燃料は薪です。貧しい家では家族が鍋を囲んで、煮た物を手ですくって食べるのです。茶碗もフォークもないからです。
 
 肉類はほとんど食べられません。冷蔵庫がないからすぐ腐ってしまいます。魚は内陸だと川魚を獲って食べるだけです。唐辛子(とうからし)をたくさん使った食事は、お米、キャッサバ、サツマイモ、カボチャ、バナナ、ピーナッツなどが主食です。それも午後に1日1回だけのことが多く、1日ゼロ回の時も珍しくはありません。
 
 時計がないから人たちは鶏の鳴き声で起き、母親は食べる物や薪を探しにいきます。準備が終われば昼過ぎですから、食事は日が暮れて暗闇になる前の明るい午後のうちにするのです。普通、トイレはありません。あっても外に穴を掘って、細枝で周りに柵を作っただけのものが多く、大便は手を使って水で洗うか木の葉で拭(ふ)きます。風呂もありません。川や湖沼で行水するのです。
 
2)次は病気
 こんな劣悪な生活環境である上に、もともと風土病が最多の土地です。多くの人が若くして病死します。一番多い病気は多分マラリアだと思いますが、大人は結核でも多く死にます。子どもの場合は下痢や破傷風で命を失うことが少なくありません。伝染病では黄熱病、コレラ、チフス、ラッサ熱などがあります。
 日本人は長寿世界一で平均寿命が80歳ほどですが、シエラレオネ人は世界で一番命が短く、平均寿命は35歳ぐらいです。病気になっても病院は少ししかありません。救急車などありませんから、たとえ病院があっても遠い道をおんぶしたりして行ったのでは手遅れになります。そして、病院についても薬は不足し、医療機器も不十分ですから助からないことが多いのです。
 
 短命の直接的な原因はさまざまな病気と、1日1回程度の食事しか出来ない栄養不良です。そして、内戦中は戦争災害がそれに輪をかけました。特に反政府軍は村々を襲い、一般民衆が政府に加担しないよう鉈(なた)で手足を切り落としたり、娘を守ろうとした父親に怒って家族を家ごと焼き殺したりしました。
 
世界の内戦でも類を見ない残虐を行ったのでした。彼らの幹部は今戦犯法廷で裁かれていますが、手足を切られ出血多量で、森の中で息絶えた人がどれほどいたか誰も数えていません。そういう戦争での死者があったせいか、1999年のWHO(国連の世界保健機構)発表ではシエラレオネ人の平均寿命は何と26歳でした! これには私も仰天(ぎょうてん)しました。
 
3)無知が無知を生む
 短命であるのは間接的な原因もあるからです。特に親たちの無知と衛生観念の欠如がそれです。病気の知識がないから予防しない。衛生観念がないから病気にかかりやすい。病気になると親が無知だから手当てが遅れる。だから、抵抗力の弱い幼児たちはどんどん死ぬ。私がマイル91のクリニックを訪問した時も、私の目の前で抱かれたままの幼児が息を引き取りました。子どもは5歳までに30%が死亡すると言われています。どんなにか生きたいであろうに、彼らはそういう国にうまれたばかりに、もっと生きたくても生きられないのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
   井戸から水を汲んで運ぶ少女       反政府軍に両手を切断された二人の若者
 
 無知や衛生観念の欠如の具体例を挙げましょうか。私が町へ行ったとき、若い女性たちがパン作りをしていました。そこへ幼児が泣いてきたら、母親はその子の鼻水と涙を手で拭いてやりました。問題はそこからでした。彼女は手を洗わずに、そのまままた粉を練り続けたのです。私はそのパンを買って食べる気にはなれませんでした。
 
 また、女性は時々自分の家で、一人で赤ちゃんを産みます。産婦人科はおろか、産婆(さんば)さんもなしです。あり合わせの刃物を使って自分でへその緒を切りますが、土間で産みますからへその緒が土にまみれることがあります。そしてそこから破傷風菌(はしょうふうきん)が入って死を招くことがあるのです。
 
 こんなこともありました。私がシスター根岸さんとルンサの町を歩いていた時です。私はティッシュで鼻をかんで、それを道端にポイ捨てしました。汚い道の草むらだからいいだろうと思ったのです。そしたらシスターに、「先生、捨てないでください!」と注意されました。私はマナー違反を咎(とが)められたのだと思い、すみませんと謝ってすぐ拾いました。するとシスターは笑いながら言いました。「いいえ、そうじゃないんです。鼻紙を捨てるとすぐ子どもが拾ってしまうんです。そして、それを乾かして、翌日それにピーナッツなどを乗せ、市場で売るのに使うからですよ」と説明してくれました。なるほど、私の鼻をかんだ紙が食べ物の包み紙になってはまずい、不衛生だと納得したものでした。
 
 
生きることしか考えられない
 皆さんはきっとこんな不幸な境遇の彼らに同情するでしょうね。しかし、ちょっと考えてほしいことは、そんな彼らなのに実に必死に生きようとすることです。私たちの年代が体験した日本の戦中・戦後の飢えた時代もそうでした。栄養失調になりながらも、むしろ生きよう生きようとしたものです。いや、死に脅かされているからこそ、死ぬまいと生にしがみついたのです。私の知る限り、飢えや病気の時も、戦火の中を逃げまわった時も、シエラレオネの人たちが自殺したという話は聞いたことがありません。死が身近だからこそ、彼らは生きることしか考えていないのです。私はこれに驚きます。
 
 ところがこんなに豊かな日本ではどうでしょうか? 生きようと思えばいくらでも生きられる人々が、なぜたくさん自殺するのでしょうか? 私はこれにも驚くのです。日本では大人も子どもも自殺が世界最多です。私は言いたい。若い世代の皆さん、自殺などしてはだめですよ!と。自死などを選ばなくても、人はいつか死にます。死にたくなくても死ななければならない時は必ず来るのです。早まることはありません。今の日本人は生きられることを当たり前と見なすから、命を無駄にするのではないでしょうか?
 
 これは世界で一番命の短いシエラレオネの人たちからの問いかけだと思います。まだ人生をよく知りもしないうちから、生きる意味がないなどとは言わないものです。それに死ぬのはいつでも死ねますが、一度死んだら生き返ることはけっしてできません。そこをよく考えてほしいものです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第1回現地訪問時の筆者とJSSの生徒達の歓迎   シエラレオネの生活風景(佐藤画)
 
 
労働から学ぶ
 さて、シエラレオネはこんな貧しい国ですから、子どもたちは小さいときから働かされます。例えば農民の子どもは親の畑仕事を手伝う貴重な労働力になります。国民の80%は農民ですが、機械を使わない手作業の旧式な農業だからです。農民の子でなくても、家では水汲み、薪拾い、臼を使って穀物つき、路上での物売りなどをします。彼らは自分も働かないと家族が暮らせないことを知っていますから、一生懸命働くのです。それは素晴らしいことですし、一つの立派な経験学習です。しかし、問題があります。親が無知で教育の大切さがわかっていないと、子どもを働かせるのを当たり前と思い、学校で学ばせることを考えないからです。
 
 1960年に宣教クララ会のシスター4人が初めてルンサの町に入ったとき、直面した最初の難問は「子どもに教育なんか要らない」という親たちの考えだったそうです。そういう親の子どもたちは「学校で学びたい」という気持ちを起こすチャンスさえなく、自分たちがどれほど無知かさえも知らないで大人になってしまいます。そして、無知が無知を再生産するのですね。これは悲劇的です。ただ、今日では多くの親が教育の大切さを知って、わが子を学校に入れようと思うようになってきています。
 
 しかし、親が子どもを学校に行かせたくても、そして子どもが学校で学びたくても、学べない事情が生じます。一つは学校の数の少なさです。ルンサの町では宣教師たちが50年ほど前に、教会付属のミッション校を建てました。しかし、そこまで歩いて片道3時間も4時間もする村の子には、学びたくても無理でした。
 
 そこでルンサの主任司祭だったステファニ神父は、近隣の村々に幾つもの分校を自分の手で建設しました。まるで大工そこのけでしたが、おかげで村々の子達は少なくとも小学校レベルの教育を受けられるようになったのでした。私もその幾つかを訪問しましたが、生徒100人、先生3人ぐらいのスケールです。私はトヨタの小型トラックに50キロ入り米袋を積んで行きましたが、それは分校の先生たちに「手を貸す運動」から米のボーナスを出すためでした。
 
 
手作りの学校
 しかし、いくら学校が近くに出来ても、学ぶチャンスのない子は出てきます。その2大原因は貧困と親の無理解です。3年前からシエラレオネでも小学校と中学校は月謝無料となりましたが、それ以前はどの学校でも全部月謝が要りました。生活費ぎりぎりのお金しかない貧しい庶民(しょみん)はどうしようもなくなることがあります。たとえ理解のある親であっても、やむなく子どもを中途退学(ちゅうとたいがく)させ、働かせなければならなくなったりするのです。そういう家庭の子どもは学びたくても諦(あきら)めるしかありません。
 
 日本人は新しがり屋過ぎますが、おかげでどんどん進歩しました。ところが、シエラレオネ人は反対に保守的で、古いものを後生大事に続ける国民性があります。それが新しいものを吸収させず、世界からどんどん置いていかれる一因になってきました。
 
 親たちの教育観も同じで、自分たちは学校になど行かなかったが生きて来られた。子どもたちも同じでいいと考えがちです。だから子どもに学校教育を受けさせない親が多いのです。そういう親の子は学校で学ぶチャンスがありません。
 
 内戦前の統計ですが、シエラレオネでは小学校の就学率(しゅうがくりつ)が40%、中学生となるとわずか0.3%でした。1000人に3人しか中学に行けなかったのです。これは子どもたちにとって、いかに教育を受けるチャンスが少ないかの一つの証明です。だからシエラレオネは人材が少なく、経済的に発展できずに来たのでした。今はもっと就学率が向上しているとは思います。しかし、飛躍的に変化してはいないでしょう。また、学校へ行っても教科書は5人に1冊、ノートも鉛筆も足りず、電気がない教室は暗い。そういう悪条件のもとで学んでいるのです。皆さんには想像がつきますか?
 
 戦争も子どもたちを学びたくても学べない羽目に追いやりました。内戦の9年間、400万人の国民のうち、80万人は国外の難民キャンプに逃(のが)れました。100万人は戦火を避けて逃げまどう国内移動難民(いどうなんみん)だったと言われています。捕えられて少年兵にされた男児や性奴隷にされて反政府軍といっしょに引き回された少女たちも大勢いました。勉強などできるわけがありません。この子たちは学ぶチャンスと学びに最適の年代を軍隊の暴力で奪われたのでした。
 
 それでも、私たちの援助しているOur Lady of Guadalupe校の生徒約400人は内戦中首都フリータウンに逃げ、そこで神父さんの助けを得て曲がりなりにも勉強を続けたのでした。その衣食住医の費用は私たちが援助金でまかないました。私は彼女たちの学びたい意欲に感動したので、費用を全面的にバックアップしたのです。しかし、戦争で殺された少年少女たちはもう学びたくても学べません。どんなに悔しかったことでしょうか。彼らの未来を奪った者共の罪たるや重かつ大です。
 
 
教育の持つ力
 私たちは教育こそ彼らを自立させ、自分たちの問題を解決する鍵だと信じ、28年前から教育里子・里親制度(JSS)をつくり、優秀で見込みがあり学習意欲があるのに、貧しいがために学校をやめざるをえない子達の資金援助をしてきました。対象は中学生以上でした。400人中80人くらいがその教育援助を受けていました。援助に値する生徒の人選は現地のシスターと先生たちに委ねました。ちなみに、この教育援助は内戦中だけ中断しましたが、2002年からは再開しています。
 
教育支援というものはすぐには成果が出ませんが、嬉しいことに「手を貸す運動」ではすでに成果が現れ始めています。なぜなら、JSS(Japan Scholarship Students)の教育援助を受けたかつての生徒たちが、今では病院の院長、弁護士、財務省の役人、学校の先生、修道士や修道女などになって、シエラレオネ国内でも海外でも活躍し始めているからです。かつて彼らは「学びたくても学べない不幸」に呑み込まれかかっていた少年少女たちでした。
 
教育援助で学び修道士になったピーター・ダオ
 
 
学校給食の影響
 小学生には、直接の教育援助の代わりに学校給食を始めました。欠食で発達障害になることが心配だったし、何よりも空腹では勉強どころではなかったからでした。学校給食が始まる前は、シスターが休み時間に、「さあ、外へ出て遊びなさい」と言うと、子供たちは「シスター、動くとお腹がもっと空くからここにいさせてください」と嘆願(たんがん)して、教室の隅(すみ)にペタンと座る有様だったそうです。お金のある子は昼時に物売りのおばさんからバナナとかサツマイモなどを買って食べられましたが、そうでない子は夕方まで食事なしの我慢(がまん)だったのです。
 
 そこで、これではいけないと、私たちは1200人の小学生、幼稚園児に学校給食を始めたのでした。1987年のことでした。それを知った親たちは歓喜のあまり、「サンキ サンキ モモヨ モモヨ ジャパン ピープル!」と歌いながらルンサの町をねり歩いたそうです。手紙でそれを知った私たちも、あんな貧弱(ひんじゃく)な給食でそんなに喜んでもらえるとは、と感動したものでした。サンキとはクリオ語、モモヨとはチムニ語で、ともに「ありがとう」の意味です。
 
 給食といっても粗末なものです。現地を訪問した時、私も食べてみました。初期はブルゴと言う豚や鶏の飼料みたいな穀物を混合したものでしたが、後でお米に変えました。給食はそれにサツマイモやキャッサバの葉、南瓜(かぼちゃ)、少しの小魚等を入れた汁をかけるだけです。味はコンソメなどでつけ、ハヤシライスみたいな感じです。皿のない子は小さな洗面器にそれをよそって食べます。
 
 日本の子どもだったら、「ゲーッ、マズソウ!」と顔をしかめるかも知れません。しかし、シエラレオネの子達にとって、給食は一日で一番嬉しい時間なのです。当番が炊事場からクラス分の給食をたらいで運ぶと、先生が分けてやり、皆でお祈りして仲良く食べますその時の顔は実に幸せそうです。それを見て私はふと思ったものでした。日本のように物が有り余るほどある豊かさは、むしろ人間から幸せを感じる幸せを奪うものではないだろうか、と。
 
 
125円で一週間食べられる
 内戦前はこの学校給食は1200人の幼児・児童だけが対象でした。しかし、内戦後4年ぶりに学校が再開されてからは、受益者は中・高生徒と職業センターの生徒、隣の男子小学校児童も含めた約4000人に膨れ上がりました。誰もが飢えていたからでした。一食は25円ほどかかりますが、それだけの人数が週5日ずつ1年間食べると、大変なお金が必要になります。でも約700人の個人と150ほどの団体が支えてくれればこそで、ありがたいことに今もそれが続けられています。
 
 私が28年間にたった2度しか現地に行っていないのも、この旅費で何人の子達が給食をいただけるかと思うと、とても頻繁(ひんぱん)に行く気になれないからです。100円あれば4人の子が給食をいただけます。シエラレオネまでは旅費だけで1人約40万円かかりますから、それだけのお金があれば、何と80人の子どもが1年間給食をいただけるのです。安易に旅行などできるわけがありません。
 
 
食べさせてもらえるから学校に行く
 たしかに私たちが助けることができている子どもたちはたかだか4000人ほどで、シエラレオネ全体からみれば微々たるものです。しかし、食べられるから学校へ行くのが嬉しくてならない。学校へ喜んでいくから結果として勉強し、知識を得る。それが貧困を克服する自立につながる。そう考えると、意味は微々たるものでもないと思うのです。
 
 学校給食は少なくとも一日一回の食事を確保させるから、生きたくても生きられないリスクのある子どもたちに生きるチャンスを与えています。そして、生きていればこそ、学びたい子どもたちは学ぶことができるのです
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
給食をもらって世界一嬉しそうな顔の女児        喜びいっぱいの給食タイム前
 
 さて、私は長く書き過ぎました。もしここまで読んでくださった若い世代の方がいたら、君はすごいと褒(ほ)め、かつ感謝したいと思います。ほんとはまだまだ話すことは尽きないのですが、過ぎたるは及ばざるがごとしですから、あと二つのことだけ話して終わりにしたいと思います。
 
 
シエラレオネ人の長所
 一つはシエラレオネの人たちの長所と短所です。彼らの長所は明るさ、物を大切にする心、感謝する心、特に分かち合うことを知る心です。もちろんこの国にも富を独占する超お金持ちがいます。しかし一般の貧しい庶民はお互いに分け合います。例えば、一つの飴をもらった子は石で砕いて米粒みたいになったかけらを、仲間の子どもたちと分け合って食べることを知っています。
 
 内戦中は戦火を逃れて国内難民になった人々がたくさんいました。彼らをどこが吸収したかと言うと、親戚などでした。私が見たある家族は一軒に30人以上が住んでいました。彼らは喜んで避難者を受け入れたのです。たしかに土間に藁(わら)を延ばすだけですから、5人10人の人が来ても夜具には困りません。しかし、真似ができるかというとなかなかできないことです。
 
 反政府軍に襲撃されて、シスター根岸さんが39度のマラリア熱にもかかわらず湖沼やジャングルを抜けて逃避行をした時も、シスターを背中におんぶして湿地を横切り、にわか作りの担架に乗せて村から村へと国連平和維持軍の基地までリレーで運んでくれたのは村人たちでした。
 
 もちろん彼らの欠点もあります。例えば簡単に嘘(うそ)をつき、盗(ぬす)む傾向があります。しかし、一番の問題は教育がないことでしょう。学ばないから知恵が足りない。知恵が足りないから創意工夫(そういくふう)をせず、昔のままを守る。だから、よく働くのに得るところが少なく、世界から遅れる一方です。知識がないから強健な体に恵まれているのに長生きできない。わかち合う美しい心があるのに、知恵が足りないから貧乏で、分かち合う物が足りない。そして、貧しさから脱却できないのです。
 
 皆さん、シエラレオネのことを知ると、学ぶことの素晴らしさがわかってくるのではありませんか?勉強は進学のためではないと私は思っています。勉強するのは、自分がよりよく生きるため、そして他人も幸せにしてやれるためではないでしょうか。知恵も知識も技術もなければ、私たちは人を助けたくても助けられません。それどころか、自分を生かすことすらできないのですね。
 
 
70年前の日本人
 もう一つ話してみたいのは私自身のことです。私はシエラレオネでは子どもたちがよく働くと書きましたね。暑い国なので、学校へ行っている子も家に帰ると、男の子などはパンツだけになり、裸足で埃(ほこり)っぽい道を走り回ったり、家の手伝いをしたりします。そういう子どもたちを見て、私が何を連想したと思いますか? 70年前の私自身です。
 
 昭和10年代の日本では、田舎の子どもはシエラレオネの子のようでした。私は学校へは下駄(げた)や草履(ぞうり)で行きましたが、下校時はそれが減らないように脱いで手に持ち、裸足で帰宅しました。家が貧しい農家だったから、学校から帰ると父を手伝って田畑でよく働きました。草取り、田植え、収穫(しゅうかく)物の運搬(うんぱん)等です。塾などない時代ですから、家での勉強はちょっと宿題をするぐらいでした。
 
 しかし、小学校6年生の時、私は人生の厳(きび)しさを思い知らされたのです。ある日、担任の先生から「佐藤、お前は頭がいいから中学にいかないか?」と勧(すす)められました。今と違って当時の中学(旧制中学)は5年制でした。その後が専門学校とか高等学校、大学だったのです。中学受験者はクラスで数人だけでした。その他は小学校6年の後、2年制の高等小学校で学んでから社会に出たのです。
 
 私は中学へ行きたいと親に話しました。すると、とんでもない。こんな貧乏なのにお前だけ中学にやれるか、と言われてしまったのです。わが人生最初の挫折(ざせつ)でした。中学に行けず、私は高等小学校に進み、子供心にも貧乏の辛さを噛(か)みしめ、運命を呪(のろ)いました。私が学びたくても学べないシエラレオネの子達に心から同情したのも、一つには自分がかつてそうだったからでした。
 
 
海軍少年兵に志願
 かつて学生たちにこの話をしたら、彼らは「じゃ中学も出ないで、どうして大学の先生になれたんですか?」と不思議がられました。私は自分のその後を話してやりました。太平洋戦争(当時は大東亜戦争)下では高等小学校を卒業しても、農家の3男が生きる道は工員か軍人ぐらいしかないと思い、私は海軍の少年兵に志願することを選びました。軍隊では衣食住を保証し、給料もくれたからです。でも、それが命と引き換えだったとは当時は考えませんでした。というわけで、私は昭和19年5月、長崎県の針尾海兵団に入団しました。14歳でした。
 
 嬉しいことに、少年兵は1年間、毎日午前中は室内で授業を受ける勉強でした。中学レベルの物理、化学、数学などです。小学生の時は家でほとんど勉強しなかった私でしたが、中学に行けなかったせいか、勉強がしたくてしたくてたまらなくなっていました。だから海兵団での授業はこの上ない喜びでした。ところが、一年後厚木海軍航空基地に配属されて3ヵ月後に、日本は敗戦を迎えてしまったのです。1945年(昭和20年)でした。軍隊で身を立てようとした私の人生設計はすぐ狂ってしまいました。
 
 
人生の意味を確かめたい
 復員した私は昭和21年から昼間は登記所(とうきしょ)で働き、夜は夜間中学校3年に編入させてもらって勉強を再開しました。いわゆる定時制中学校です。昭和22年の学制改革で、旧制中学は新制中学と新制高校に変わりました。定時制高校を卒業できると、私は仕事をやめ、退職金と貯金で大学を受験しました。こうして、学びたかったのに中学で学べなかった貧乏農家の息子は、夢にも思わなかった大学に入れたのでした。後には大学で教える立場にもなったのですが、私が大学へ行ったのは就職のためではなく、自分の人生の意味を確かめるためでした。だから哲学科を選んだのでした。
 
 
なんとももったいない
 私がこんな身の上話をしたのは、今の若い世代の皆さんに、皆さんが本当はすごく恵まれていることをもう一度確かめてほしいと思ったからです。学びたくても学ぶチャンスの少ないシエラレオネの子どもたちは、私の子ども時代とそっくりです。だから、私は彼らの気持ちがわかります。
 
 そして、学ぶチャンスがいっぱいあるのに、それを無駄にしている若い人たちを見ると、何というもったいないことを!と思うのです。わけても、生きたかったのに死なざるをえなかった戦時中の若者や、今でも生きたいのに生きられない人がいることを思うと、早まって自分の命を絶つ若い人に対しては、何でそんなに命を粗末にするのだろうかと思ってしまうのです。
 
 たぶん、日本の若い方々は恵まれすぎているのです。食べ物もあり余るほどあると、かえって食欲が湧かず、うんざりして捨ててしまうことがあります。
 
 同じように、学ぶチャンスも有り余るほど与えられると、何のための勉強かわからなくなってしまい、有り難味を感じないばかりか、うんざりしてくるのかも知れません。
 
 命もそうで、生きられることが当たり前過ぎると、それがどれほど尊いかが感じられなくなり、粗末にしてしまうのかも知れません。
 
 説教をするつもりはありませんよ。ただ、学びたくても学べない不幸を知っているから、学校へ行けることを心から感謝するシエラレオネの子どもたち、生きるのがたいへんだから必死で生きようとして、自殺など考えないシエラレオネの子どもたち、そしてそんな彼らの境遇と重なる私の少年時代の話が、多少なりとも皆さんの参考になればいいかなと思って長々と書いただけです。最後まで読んでくださってありがとう!
 
          2007年7月1日
        元玉川大学教授
国際援助団体「手を貸す運動」代表
余生風(よせふ)佐藤 正明
E-mail:Joseph M. Sato <jos-masato@rainbow.plala.or.jp>
 
 
 
世話人からの連絡:
「シエラレオネの子どもたち」または「手を貸す運動」について、もっと多くを知りたいと希望する方並びに国際援助団体「手を貸す運動」に興味を感じられた方は、ぜひ代表佐藤正明様に直接にご連絡してみてください。
 
注)上記メールアドレスの@は小文字にして送信ください。
 

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