第35話
 国連職員をめざす人のために −その3−
 

 
 
「主な対象読者」
 将来は国際的に活躍したい、または将来国連職員になりたいと考えている高校生から大学生および40才代の転職可能年齢層が主な対象です。これを読んだ親御さんは周りにいる若者に国連職員という職種があることを説明してもらいたいと願っています。
 
「本著作のめざすもの」
 国連職員になるにはどうすれば良いのか、その道を教えてもらいたいとの問合せを聞くことがあります。そこで、「国連職員をめざす人のために」という若者への指針的な散文を筆者の個人的な体験にもとづく内容を含めてまとめていただきました。
「その1」から「その5」の5編に分けて連載します。
尚、この原稿は、いずれ単行本にしたいと考えています。
 
 
本 文 目 次
 23.杭は高く
 24.口利き
 28.決断
 
以下、次号
国連職員をめざす人のために −その4−
 第六章 国際機関と日本人
 
国連職員をめざす人のために −その5−
 第七章 採用試験
 第八章 おわりに
 
著作 玉城 英彦
 
 

 
 
第35話 国連職員をめざす人のために −その3−
 
第五章 私のケースを紹介しよう
20.夜行に飛び乗って
 さて、私自身の場合を紹介する。私は、日本人スタッフ募集のためにWHO特別チームが来日することを新聞紙上で知って、黄色い応募用紙に必要事項を急いで記入し外務省に投稿した記憶がある。数ヶ月して東京の外務省で面接があるので上京するようにという通知を受けた。当時、私は熊本県水俣市にある環境庁の研究所「国立水俣病研究センター」に勤務していた。また、東京にある国立公衆衛生院(現在の国立保健医療科学院)の学生でもあった。
 1983年の夏の話である。学生の特権を使って、学割の切符で夜行電車に乗って東京に着いた。久しぶりの東京である。人口三万人の地方都市に比べると、東京は夢の、また夢の世界だ。ハイヒールを履いたひとは早足で、私が走っても追いつかない。見るもの、聞くものすべてが刺激的だが、この世のものとは思えないスピードで動いていく。女性も綺麗だが、何となく冷たい感じだ。
 
21.面接とB4の用紙
 面接は、外務省の四階で実施された。テレビではよく見ていたが、外務省の中に入るのはこれが初めであった。外務省の玄関の扉はよそ者を寄せ付けまいとするかのように、硬く重く閉まっていて、身分証明書を提示してやっと入管できた。一歩踏み入れた途端、心臓がドキドキしてきた。これは面接を受けるという興奮のせいか、息苦しそうな官庁の重い空気に心臓が反射的に反応したせいか、いずれにでも取れる複雑な胸のうちには変わりない。
 
 しばらく待たされた。好きな司馬遼太郎の本を読んでいた。突然、係官が来て、次の課題の中から一つ選んで自分の思うことを書くように指示された。「なぜWHOに行きたいか」「プライマリーヘルスケアとは」「世界の母子保健は?」というものであった。私は一番の「WHOに行きたい理由」を選んで、「学生時代に、沖縄在住のアメリカ人の小児科医の友人からWHOのことについて、詳細に聞いていたので、将来チャンスがあればぜひ挑戦したいと思っている・・・」のようなことを書いた記憶がある。B4用紙に二行書いて一行開ける、という役所の起案文書風に仕上げた。気楽に書いてくれと言われたので、緊張感もなく試験という意識もなく、思うままに書きなぐった。
 
 面接官は、事務局長補(ADG)、専門官、人事課長の三人であったが、私は楽しく明るく行くことにしていたので、緊張することはなかった。この面接方式は日本的なやり方で、面接官三人と面接者が対面するように座り、一人ずつ質問してきた。その一人は、なぜWHOに行きたいか訊いてきた。先ほどB4の用紙に書いたばかりであるので、比較的スムースに答えることができた。
 
22.個性的であれ!
 人事部長が隣の部屋で私が書いた資料を見ながら、君は変わった書き方をするね、と言った。最初はよく呑み込めなかったが、先ほど書いた「なぜWHOに行きたいか」という文書の書き方、すなわち役所の起案方式が個性的だったわけだ。確かに、英語で二行書いて一行空ける書き方は見たことがない。内容はともかく、この書き方がまず目に留まったようだ。世の中、何が得し何が損するかわからない。
 
 それから数年後のことであるが、WHO本部で自分の個人ファイルを取り寄せたときに、その一番底に東京の外務省で使用したB4の用紙が綴じられていた。例の二行書一行空けで綴った自分の小エッセイを発見した。このエッセイは応募者の文章力を評価するための試験であったということが初めてわかった。赤面するほどの汚い字体で貧弱な文章構成であったが、よく採用ラインを超えたものだと思った。
 
 国際社会では、何かと個性的である方がよい。このぐらいのことで個性的とは言えないが、自分というものをアピールする手段・方法を早くから自然と身につけたいものだ。日本では個性的であると、何となく主流から外れた落武者に見られがちだが、国連社会では個性は貴重な財産である。
 
 個性のない人は気の抜けたビールみたいなもので、存在感が薄い。個性と個性のぶつかり合いが建設的であればあるほど、その成果も大きい。批判を正当に評価し自分のものにしていくだけの度量を常に持っていたいものだ。
 
23.杭は高く
 日本では「出る杭は打たれる」と言って、個性派が育ちにくい。杭が出ないように、目立たないように、個性を殺して、控えめにと進む。打たれないようにするためには、個性を殺して集団に埋没するか、超個性的になって打たれ強く、打たれ難くなることだろう。実際、杭を高くすれば、もう打つ人はいない。高い杭は打たれない、打てるひともいない。私はそう思っている。気高くしろということではなく、自分の信念を貫き通せということだ。
 
 私のポストは二年契約で、一年目は見習い期間であった。見習い期間に帰国させられることは少ないが、全くないわけでもない。同僚の一人は二年目の契約を更新できず帰国させられた。これは大変だと思った。現実に解雇された事例を身近で見て、襟を正したものだ。
 
 国連のどのポストでもよいということではなく、事前に担当者と打ち合わせて、この部署では何ができるかを算定し、本当に気に入ったプログラムに応募すべきである。業務内容と自分の関心や専門がマッチしないときには仕事の成果も上らないので、見習い期間中に解雇される可能性が高まる。前述したが、公募情報にあるポストに直接応募しても受け入れられる確率は極めて低いので、事前にできるだけ多くの有用な情報を先輩や友人から集めておくべきだ。
 
24.口利き
 じゃどうしたら担当者と知り合いになれるかということである。これにもまたいろいろな方法があり、一般化は難しい。例えばWHOの会議などに出席して認められることだ。国際学会などで個人的にアプローチして自分を売り込む。WHOの事務所に押しかけ自己紹介する。先輩や知人から紹介してもらう。JICAなどの海外プロジェクトに参加して、現地の関係者のネットワークに入る。とにかく、自分から積極的に人間関係を構築していくことが必要である。
 
 最も効果的であるのは、厚生労働省や外務省のひとに口を利いてもらうことである。でも、一般のひとには役所のひとに近づくのが一番難しい。役所は同じ釜の飯を食べていないひとにはけっして親切とはいえないので、私たちの声は向こうになかなか届かない。ここでは、先輩などのコネを大いに利用して、お願いしてみるのも一つの方法だろう。
 
 役所にも、積極的にアプローチすると本当に懇切丁寧に指導してくれる先輩が多いので、たとえば厚生労働省の国際課の国際機関担当官に自分を売り込むことだ。この担当官は国連機関を経験しているひとが多いので、その人事についてとても詳しい。面接を直接申し込むぐらいの勇気がなければ、国連機関には勤まらない。霞ヶ関のオフィスの仕切りは高いが、一歩踏み込むことで運勢が開けるかもしれない。これもあなた次第である。
 
25.パプアニューギニアに飛べ
 外務省での面接から数ヶ月経って、伝染病部部長ファカリ博士が来日したおりに、東京で二度目の面接を受けた。ファカリ部長とは意気投合した。しかし、数ヶ月経っても何の連絡もなかったので、断られたと諦めていたら、WHOから研究所に突然ファックスが届いた。
 
 「すぐに、パプアニューギニアへ飛べ」と。これにはビックリした。女房はパプアニューギニアがどこにあるかも知らなかった。人食い人種で有名なあの南の国だというと腰を抜かさんばかりに驚いていた。
 
 パプアニューギニアのARI(急性呼吸器感染症)のプロジェクトマネージャーに行かないかという誘いであった。しかし、一歳の息子もいたし、水俣の研究所の仕事もほぼ軌道に乗ったばかりであったので、今回はオファーを丁重に断ることにした。
 
 これでWHOの仕事はもうないだろうと諦めていたら、それから数ヵ月後、今度はWHO本部(在ジュネーブ)に来ないかという誘いをもらった。すぐにでも出頭せよ、と言わんばかりの厳しい内容のエアメールが研究所に届いた。国連機関というのは、こんな激しい内容の手紙をよく送りつけるものだと半ばあきれて、一方では驚いた記憶がある。
 
 今回は本当に迷った。水俣で三年半も過ぎたし、それなりに仕事も軌道に乗ってきた。また上司も東京から赴任したので、退職できる環境はそれなりに整っていた。水俣には一人放り出されゼロからの出発であったが、三年間で水俣病患者や地域住民、環境関係の資料も電子化し、解析できる状況までもって行った。
 
26.不知火海の夕日
 赴任した当時、水俣病研究所には、所長と私、事務の方々ばかりで、人里離れた山の上で寂しい思いをしていた。研究所とは名ばかりで、高価な実験機器にはカバーが掛けられ、税金の無駄使いをしていると、マスコミにはいじめられていた。不知火海に沈む夕日(実にすばらしい!)だけが唯一の慰めであった。
 
 水俣での三年間は現地アルバイトのひとたちと一緒に、更地に小さい城を築いていくような、新鮮な楽しみがあった。周りの多くのひとに助けられながら、一回の荒海の航海を終えてやっと寄港する港が見えてきたときであった。大型コンピュータも導入し、データ解析が順調に進んでいた。論文作成にも取り掛かっていた。やっとここまで来られた、という感慨深いものがあった。
 
 というのも、この研究所は初期のころ、水俣市民に必ずしも歓迎されていなかった。水俣病患者が公式発見(1956年5月1日)されてから25年が経過していたが、患者団体、市民、行政の間の溝は深かった。50年経った今でも、この溝が完全に埋まったわけではない。
 
 しかし、私はテニス活動などを通じて、三年の間に水俣市民にすっかりなりきっていた。「水俣の代表」として熊本県大会に仲間たちと一緒に参加できたことを今でも誇りに思っている。
 
27.WHO本部からの誘い
 荒山を更地に整理し花を植える。いよいよ咲きそうになったとき、植えたひとではない別のひとがその花を摘む。研究所では収集した資料にアクセスすることがだんだん難しくなってきた。資料室への入室の鍵は上司の机の引き出しに収まった。世間によくある話である。この状況がこれからも続くならば、もうここを離れた方がましだ。
 
 また、公衆衛生を勉強した者としてWHO本部で働けるということは夢の夢であったので、そのオファーは大変に魅力的であった。田舎の研究所でローカルに頑張るのも一つのオプションであるし、外国に飛び出すのももう一つのオプションだ。六年以上も米国にいたので外国に出ることに特に違和感はなかったが、独身時代の米国行きとは家庭状況が違っていたので、一抹の不安がないわけでもなかった。
 
 私は当時公務員であったので、国際機関への派遣法の対象であったが、小世帯の環境庁には、一人の下端の研究員を国連機関に派遣(出向)するほど人的なゆとりはなかった。当時の環境庁の局長などは、出向を含め辞めないでも行ける方法をいろいろと模索してくれてあり難かった。一年待てば、もしかしたら辞めないで行けるかもしれないという情報もあったが、WHOからは明日にでも出頭せよ、との手紙で脅(?)されている。不確かな一年は待てないだろう。
 
28.決断
 私は、国家公務員を辞める決断をした。WHOでは一年後にクビになるかもしれない一抹の不安はあったが、ナンクルナイサ(琉球語:前向きに何とかなるさ!Tomorrow is another day!)で、ジュネーブ行きを決めた。
 
 ジュネーブはテレビで見る世界で、もちろん一度も行ったことがなかった。まして、小さい子どもと女房を連れての生活がどんなものになるか、想像することはできなかった。ジュネーブはフランス語圏だ。日常生活もろくに送れないのではないかという不安はつきない。見たこともないWHOで、国際人としての国連職員の仕事をこなしていけるだろうか。不安は尽きない。でも、もう後には戻れない。匙は投げられた。
 
 1985年3月末、ジュネーブの街角には残雪が残っていた。この冬は何十年ぶりの大雪であったらしい。その名残が石畳の街角に見られた。これから一ヶ月以上、ホテル生活を余儀なくされた。二歳の子どもと女房には、このホテル住まいは大変難儀だった。ジュネーブでの船出では決して順調ではなかった。だけども、自分たちだけが特別に苦労したというわけでもなかった。
 
 仕事のことはさておいて、ジュネーブで一番困ったことはフランス語であった。フランス語が話せないと買い物にも行けない。40歳近くになって手まね物まねで会話するのは苦痛だ。私が苦労している間に、息子だけがどんどんフランス語を吸収していった。
 
29.幸運は準備をしているものだけに微笑む
 この世の中、未来はどうなるかわからない。ある特定の目的に向かって準備できるものではないが、日頃から努力して足腰を鍛えておくことは必要のようだ。「幸運は準備をしているものだけに微笑むというのはフランスの細菌学者ルイ・パスツールの有名な言葉だが、準備しているひとに必ずしもチャンスが回ってくるかというとそうでもない。その逆は真かもしれないが、その逆はもう運だけだ。
 
 それでは、偶然が起こることをただ待っておればいいかというとそうでもなく、ある「方向性」だけは持っていて、その方向性に向かって行動を起こしていく必要があるという。もちろん、この方向性にも当然リスクが伴う。方向性そのものが間違っている可能性がないとはいえないからだ。そうなるももうどうすれば判らない。神頼みするだけしかないのか。
 
 幸運の神様は、「その時」に備えて常に用意された人にのみ訪れる。持続する心構えが可能性を引き出すチャンスを生み、行動を促す。多くの成功は偶然による。一方で、偶然は行動によって引き起こされる。
 
 よって、行動することでまた新しい行動が誘発される。この誘発された行動が多少間違ったものであっても、これが人生と諦めることができる。しかし、行動なき諦めは、単なる妄想に過ぎない。自分の過去を振り帰っても「妄想」があまりに多すぎた!
 
平成19年11月30日
著作 玉城 英彦(たましろ ひでひこ)
北海道大学大学院 医学研究科
社会医学専攻 予防医学講座
国際保健医学分野
著書:玉城教授の故郷の思い出をつづったエッセー集
「恋島(フイジマ)への手紙 −古宇利島の想い出を辿って−」
発行所 新星出版
 
 
 
 
 

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