第42話
 死ぬこと・生きること −キリスト教の信仰について−
 

 
 
「主な読者」
 特別な年齢階層に読者を限定しているわけではありません。人間として誰でもがいずれかの時期には死に直面します、死を迎えるまで私達は生きています。
 死ぬことおよび生きることとは、何であるのかを考えるキッカケになるよう話題を提供した積りです。
 たとえ意味が良くは理解できなくでも、気軽に読み進んでいただきたいと願っています。
 
本 文 目 次
 8.魂、霊、心
12.さいごに
 
著作 中村 朗
 

 
 
第42話 死ぬこと・生きること−キリスト教の信仰について−
 
1.生き物には死期があります
 今から70年以上まえのことになりますが、私が小学生のころ、夏休みは本当に楽しかったことを思い出します。でも夏休みには必ず、宿題が出ます。ある夏には昆虫の標本を作る宿題がでました。
そこで、もち竿(さお、釣ざおのような細い竹竿)ととりもち(べたべたした粘着物)を近所の駄菓子屋で買って、高い所に止まっている蝉(せみ)やトンボを捕りにいきました。捕まえた昆虫は羽に付いたとりもちをベンジンで拭き取り、竹でできた虫篭(むしかご)に入れて家に持って帰りました。でもほとんどは長生きしないですぐに死んでしまいました。その死んだ昆虫で標本をつくるのです。
 
 子どものころには、昆虫が死んでも、当たり前のことと思い、昆虫の死を別に気にかけたことはありませんでした。それでも、犬や猫のようなペットの場合は少し違います。家で飼っていた犬が死んだときには、とても悲しい思いがしました。皆さんの中にも同じような思いを経験した人が大勢いることでしょう。
 
 また皆さんの中に、お父さんやお母さんや兄弟など親しい人を亡くされた人もいるでしょう。どんなにか、悲しいさびしい思いをしたことでしょう。それは愛情によってつながっている人なので、昆虫などの死とはまったく違うのです。しかし、生きているものは、いつかは死んでゆきます。それでは死んだそのあとは、どうなるのでしょう。死んだあとには何もなくなるのでしょうか。
 
 もしそうだとしたら、今私たちが生きているのは、何のためなのでしょう。皆さんはまだ若いので、生きることとか死ぬということなどについては、余り考えたことは無いでしょう。しかし、今日はこの生きることや死ぬことについて皆さんといっしょに考えてみたいと思います。
 
2.私はクリスチャン
 まず私がどのような考えで、「死について」の話しを進めたいのかを最初に説明をしたいと思います。私はクリスチャンです、クリスチャンは聖書を神が与えてくれ言葉として信じています。しかしながら、聖書を読みはじめた頃は、意味が良く分かりませんでした。さらにイエスキリストが色々な奇跡をしたという記事などは、とても真実を書いている書物として受け入れることが出来ませんでした。それでも教会には通っていました。
 
 そしてある時、別に聖書のことを考えていたのではないのですが、突然に聖書の言葉がひらめき、イエスキリストが私を救ってくれたことが分りました。なぜそのようなことが起きたのかいまもって分りませんが、大きな喜びにみたされたことはいまも記憶しています。そのとき以来、聖書に対して持っていた疑いがとり除かれ、聖書を神の言葉として信じることができるようになりました。ですから、この聖書を基にして、この話しを進めてゆきたいと思います。
 
3.聖書に書かれていること
 聖書には、神が天と地とその上に存在するすべての生き物をつくったと書いてあります(1〕。そして海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物を治(おさ)めさせるために神は人を造られました(2)。人は他の動物と違って神に似せて造られたのです。
 
 はじめに神は、物質的な人体を造られ、その鼻に命の息を吹き込みました。そして人は生きたものとなったと書かれています(3)。このことから、人間は物質的なものと、命の息、すなわち非物質的な霊的なものでできていることが分ります。
 
 そして、この霊的なものは永遠に存在します。だから人間は神が特別の目的を持って造られたものであり、人が永遠に神と共に住むことができるようにと、エデンの園に住まわせたのでした。
 ところが、人間は神の戒(いまし)めを守らず罪を犯し、ついにエデンの園から追放されてしまいました。その罪のため、人間は死ななければならないようになったのです。
 
 しかし、神は愛でありますから、人が神と永遠に住むことができる道をもう一度開いてくれました。聖書には次のようなことが書いてあります。
 
 『実に神は、ひとり子(イエスキリスト)をさえ惜(お)しまず与えるほどに、世を愛してくださいました。それは、神の御子(みこ)を信じる者が、だれ一人として滅(ほろ)びることがなく、永遠の命を得るためなのです。神がご自分の御子を世にお遣(つか)わしになったのは、世に有罪判決を下すためではありません。救うためなのです(4)。』
 
4.良い知らせ―福音
 聖書には良い知らせ(福音)について次のように書いてあります。
 『兄弟たちよ。わたしが以前あなたがたに伝えた福音(良い知らせ)、あなたがたが受けいれ、それによって立ってきたあの福音を、思い起してもらいたい。もしあなたがたが、いたずらに信じないで、わたしの宣べ伝えたとおりの言葉を固く守っておれば、この福音によって救われるのである。わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったことです。(5) 』(口語訳聖書)
 
 『よく言っておきます。わたし(イエスキリスト)の言うことを聞き、わたしを遣(つか)わされた神を信じる人はだれでも、永遠のいのちがあります。罪のために罰せられることは絶対にありません。すでに死からいのちに移っているのです(6)。』
 
 以上の聖書の言葉は何を云っているのか分りにくいかと思いますが、要約すると、人間は神の戒めを破って罪を犯し、その結果、死に定められました。しかし、神は私達人類を愛しておられるので、私達の罪の身代わりとしてイエスキリストを惜しまずに与えて下った。そしてイエスは私たちの罪のために死なれ、葬られ、三日目に墓の中から復活されたということです。この良い知らせ(福音)を堅く信じるのなら、永遠の死から救われ、永遠の命にと移されているということです。この福音を信じている者がクリスチャンなのです
 
5.人間はだれでも一度は死ぬ
 さて、この福音とか罪とか、また聖書の言葉について初めて聞かれる方たちには、いったいなにを言っているのか分らないかと思います。先に書きましたように、私もはじめは何のことか良く分りませんでしたが、神御自身が福音を示してくださって、信ずることができるようになりました。
 
 ですから今は分からなくても、どうかあきらめないでください。もしできれば、キリスト教会に出席して牧師さんに質問するなり、説教を聴くなり、聖書を読むなりして、熱心に求めていたら、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、開けてもらえるであろう。すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである(7)。」 と言う聖書の言葉の通りになるでしょう。
 
 さて聖書に、次のような言葉があります。
 『人間には、一度だけ死んで、その後裁きを受けることが定められているように・・・(8)
 すなわち人間はだれでも一度は死ぬこと(肉体の死、第一の死ともいわれています)を避けることはできない、そしてその死の後、神の審判を受けなければならない。
 
 ですから、人間は死んだら一切が終わりになるのではなく、その後に神の最後の審判があるということです。この審判で福音を信じている者は、すでに罪が赦されていて永遠の命を保証されているのですから、死の宣告は受けません。しかし、福音を信じていない者は、永遠の霊の死が宣告されます。これはまた第二の死ともいわれています。その一度目の死というのは、肉体の死のことで、第二番目の死とは、神を信じない者の霊が受ける報い、すなわち永遠に火と硫黄の燃えている池に投げ込まれると表現されているように(9)、霊のからだが永遠に神の臨在から隔離されてしまう、死を意味しています。
 
 この部分も、私たちの理性で理解することは困難だと思います。なぜならこれらの霊的なことは、信仰によって受けるべきことだからです。
 
6.キリスト教の信仰とは
 聖書は信仰について次のように言っています。
 『さて信仰とは、望んでいることがらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである(10)。』
 
 信仰とは望んでいることを確信し,まだその事が現実にあらわれていなくても、
あたかもその事実をすでに見ていると確認することだと言っています。ですから神を信じ、聖書の言葉を確信するのが信仰であるということなのです。
 
 
 では第一の死、肉体の死について考えてみましょう。はじめのところで話したように、昆虫でも犬や猫のようなペットでも、あるいは人間でも、生きている物はいつかは死にます。これは避けることができないと学びました。
 
 多くの人が死ぬのはいやだとか、死ぬのは怖いと思っています。若し皆さんが真っ暗な夜道をひとりで歩いていたら、怖いと思いますか?多分怖いと思うでしょう。なぜ怖いのでしょう、それは何が起きるか分らないと言う不安感や、恐ろしいことが起きるかも知れないとか、悪者が出てきて殺されてしまうかもしれないとか、色々恐ろしいことを想像するので怖くなるのだと思います。
 
 人間は未知のことについて、恐怖心をもちます。私が四十数年年前にシカゴに来たとき、シカゴはギャングの街で危険だと皆が言うので、大丈夫かなと不安がありました。然しシカゴに着いたとき、そんなことは思い過ぎで、何の危険もないことがわかりました。
 
 はじめからその事情を知っていたら、そんな恐怖心は起きなかったはずです。 このようにもし真っ暗なところにいても、何の危険もなく、また何も恐れるようなことは起きなくて安全だと知っていたら、別に恐怖心は起きないでしょう。
 
 ですからもし私たちが、死とは恐ろしいことではなく、次のすばらしいところに入る段階であると知って、死に対する心構えを訓練していたら恐怖心から開放されると思います。
 
7.トンボの幼虫ヤゴ
 書き出しのところで、蝉のことを書きましたが、蝉の幼虫は数年間(3-17年)地下で生活をしています。北米にすむ一種の蝉は17年間も地下で生活をしているそうです。昨年の夏が丁度17年目で、その時は、足の踏み場も無いくらいにぞろぞろと、羽化をする前の幼虫が、地上に這い上がって来て、止めてあった私の自動車のタイヤに幼虫がいっぱい這い上がっていました。そこから羽化しようとしていたわけです。
 
 日本でそんなにたくさんの蝉の幼虫を見たことがないのでおどろきました。とにかく幼虫の硬い殻が裂けて、そこから、蝉が出てきて、時間がたつと羽も硬くなり完全な成虫となり、抜け殻を残したまま、飛び去ってゆきます。皆さんはその蝉の抜け殻を見たことがあると思います。
 
 さて、のろのろとはっている幼虫と飛んでいる成虫とはまったく違うので、これが同じものとは思われません。トンボの場合は、幼虫のヤゴは水中で育ちますが、時が来ると、水中から上がってきて、羽化して成虫となり、抜け殻を残して飛んでいってしまいます。蝶類の場合は、幼虫は毛虫のように這い回っていますが、やがてさなぎとなり、羽化して美しい成虫の蝶となって空中に飛び去って行きます。
 
 このように蝉やトンボや蝶も幼虫と成虫とは全く似ても似つかない形になります。 そしていったん成虫になると、もう抜け殻に戻ったり、地下や水中に入って生活することはなくなります。かえって、蝉を地面に埋めたり、トンボを水のなかに入れたら死んでしまいます。
 
 では蝉やトンボが抜け殻から出たと言うことは死んだことでしょうか? そうではありません。そこから今までに無かった新しい生活、地下や水中の生活ではなく、空中で飛び回る新しい生活を始めたわけです。幼虫が成虫の新しい生活に入ったということになります。
 
8.魂、霊、心
 さてここで、人間について考えてみたいと思います。神が人間を物質的なもの(肉のからだ)と非物質的なもの(命の息,霊のからだ)で造りました。すなわち、物質的なものとは脳、筋肉、色々の内臓、骨、髪の毛、皮膚といった各部分から出来ている人体のことです。それと非物質的なものとは、魂、霊、心,考える力、意志、良心などがそれです。
 
 私達が地上にいるあいだは、その肉の体という殻の中に霊魂がはいって、生きているのです。ですから、第一の死とは、物質的な肉体から、霊魂が抜け出て新しい霊魂の生活をはじめることなのです。
 
 それはちょうど昆虫の幼虫が殻を破って成虫となることにたとえることができると思います。そして成虫が幼虫とはまったく違うように肉のからだと霊のからだとは、まったく異なっています。
 
 霊魂が肉体から抜け出る事―すなわち肉体の死―が終わった後は、その肉体は昆虫の抜け殻とおなじように動かなくなくなります。その脱ぎ捨てた殻、肉体は霊のからだにはもはや必要なものではなくなったわけです。ですから肉体が死んだからといって、私たちの生活のすべてが終わったのではなく、そこから新しい霊のからだの生活が始まることなのです。私たちの地上の生活は、ちょうど昆虫の幼虫が、地下や水のなかの生活をしているのと同じなのです。
 
 しかし、成虫になるにためには、その殻を脱ぎ捨てなくてはならないのです。肉体はそれまでの幼虫時代の私たちを保護するのに必要であった硬い殻であったわけです。成虫にはもはやその殻の必要がなくなったように、私たちが霊のからだになったとき、肉体は死と言う脱皮によって抜け殻となったのでもはや必要のないものとなります。
 
 そして成虫は今までの幼虫の生活では想像もできなかった新しい生活、自由に空中を飛び回るすばらしい生活を楽しむことができるのです。成虫が抜け殻を見て「ああこれで自分の生命のすべてが終わってしまった」と悲しむでしょうか。いや、むしろいままで体験したことの無い、空中の生活のすばらしさで、抜け殻のことなど忘れていることでしょう。
 
 もちろん福音を信じているという、前提条件が必要ですが、私たちの肉体の死の体験も、そのあとに来るすばらしい霊の生活の喜びで、影が薄れてしまうことでしょう。このことを信じることができれば、死は恐ろしいことではなく、むしろ新しい希望のある生活への出発点と言うことができます。
 
 卒業式は今までの学業を終えて新しい人生への門出ですから、悲しいことでもなく、恐ろしいことでもない、むしろ喜ばしい希望の時なのです。
 
9.葬儀は死んだ人が神の家に帰る祝賀式
 シカゴ市の南部には黒人の教会がたくさんあります。私の友人たちの家族のお葬式で何回も黒人教会に行った事があります。その葬儀はとても明るく、また賑やかで、彼らが本当に死んだ家族が肉体を離れて新しい霊の生活にはいったことを喜び合っているのを肌で感じます。
 
 一時的な別れの悲しみはありますが、再び神のもとで出会えることを信じて神を賛美し、死んだ人が“神の家に帰る祝賀式”として祝っているのです。日本のお葬式とはまったく違う雰囲気には、はじめの頃は驚きましたが、すばらしいと思うようになりました。
 
 さて此処でもう一度蝉の成虫のことを見てみましょう。蝉の成虫は、せっかく殻から出て新しい空中の生活を楽しむようになりましたが、地下生活の長かったのに比べて、成虫の生存期間は一か月以下と言われています。ですから、長い時間の地下生活をしたのにもかかわらず、たった2−3週間で死んでしまうのです。もっと長生きをしたいと望んでも、そうはいきません。
 
 これは前に話した人間の第二の死にたとえることが出来るのです。それはどういうことなのでしょう、人間が死という肉体の殻の脱皮をして、霊の体に変えられたとき、福音を信じていれば、前に学んだように、永遠の命をすでに与えられているのですから、神の裁判はフリーパスですが、そうでない人は、最後の神の裁判のあるまで、一時的に地獄に送られます。
 
 そしてその後、裁判で霊のからだの永遠の死を宣告されます。これが第二の死です。蝉の成虫が空中を飛び回る生活はほんのわずかで、結局は永遠に死んでしまうのと同じです。その一方、福音を信じてクリスチャンとなった人は、肉体の死から脱皮した霊のからだは天使にむかえられてパラダイス(天国)に導かれます。聖書はその素晴らしさを次のように描写しています。
 
 『私は、王座から大声で叫ぶ声を聞きました。「ごらんなさい。神様の住まいが人々の間にあります。神様は人々と共に住み、人々は神様の国民となります。神様自ら人々の中に住み、その目から涙をぬぐってくださるのです。もはや、死も悲しみも叫びも苦痛もありません。それらはみな、永遠に姿を消したからです(1)。」
 
 此処でもう一度今までのお話の要約をしたいとおもいます。
1.一般に使われている「死」という言葉は肉体の死を意味し、誰もが必ず経験しなければならないことです。しかし、この第一の死は、永遠の死ではなく、それに続く霊の命への一段階であります。
2.肉体の死の後、神を信じていない人たちの霊は、ハデス(地獄)に移され最後の審判の時までそこに閉じこめられ、その裁判の結果、永遠に神からの隔離、「火と硫黄の燃えている池が、彼らの受けるべき報いである(9)という刑罰を与えられるのです。人の霊は永遠のものですから、この永遠に神から隔離されることを第二の死と言います。非常に恐ろしい事です。
3.しかし、イエスキリストを信じている者は、信じた時に永遠の霊の命がすでにあたえられています。だから、肉体の死を経験したあと、天使によってパラダイス(天国)に導かれ、霊のからだは永遠に神と共に天国にあります。ですからクリスチャンにとっては一度目の死は、恐ろしいとか悲しい体験ではなく、永遠の希望に向かって出発する喜びの時なのです。
 
 次の話は私が前に誰かから聞いた事のあるものです。理解の参考になるか思います。診察を終わった患者さんが医師に「死ぬのが怖いです。死んだ先はどうなるのですか?」とたずねました。医師は「さあ、知りませんね」と答えました。「でも先生はクリスチャンでしょう。死の向こう側に何があるか知らないのですか?」そのとき医師はドアーの取っ手を握っていました。そしてドアーの向こう側で犬のクンクン云う声とガリガリと引っかく音が聞こえました。医師がドアーを開けたとたんに一匹の犬が喜びながら飛び込んできました。そこで医師は患者さんに向かって云いました。「私の犬はこの部屋に今まで入った事がありませんから、この部屋に何が待ち受けているのかなど全然知りません。ただ自分を可愛がってくれる主人がいるという事だけを知って喜んで飛び込んできました。私も死のドアーの向こうに何があるか知りませんが、ただひとつ、私を愛してくださる主がいらっしゃるという事を知っています。それだけで十分なのです。」
 
10.生きるということ
 以上死について学んできましたが、もうひとつ大切なことがあります。それは「生きる」ということです。それには先ずなにが私たちの生きる目的なのかを知ることです。
 
 もし皆さんが何処かに行こうと思ったら、まず目的地を定めなければなりません。そして目的地に向かって歩くなり、交通機関を利用するなりしてそこに到着します。しかし、目的地を示されても、自分勝手に方向もかまわず、歩き出したのでは、目的地に着けるかどうかわかりません。
 
 また皆さんが何かを造るときに何を造るのか目的物を決めないで造るでしょうか。それでは何が出来るかわかりません。では自動車を造るとしましよう。そしてどうしたら一番性能の良い、乗り心地の良い、良い形で、しかもガソリンの消費量も少ない車を目的として計画し、設計してから造ることでしょう。
 
 はじめのところで、学びましたように、神は人を造られました。全知全能の神が何でも良いからと勝手気ままに人を造られたでしょうか。そうではなく、神は目的を持って、最高の御計画、設計で人を物質的なものと、非物質的な霊的なものでつくられた事は、容易に信じられることです。神に似せて人を造られたとあります。神は霊の方ですから、私たちは見ることが出来ません。
 
 ですから人間の外見の身体の構造が、神に似せて造られたということではなく、神格〔人間ならば人格〕に似せて造られたものと私は考えています。(他の動物はそのような神格に似せて造られていない点が人と違います。)これは人が永遠の命をあたえられ、神と永遠の交わりをすることが出来るようにとの目的で造られたということと信じます。
 
11.モーセの法律
 しかし、前に話しましたように、神に背いた罪のため、人は永遠の命を失ってしまいましたが、愛の神はイエスキリストを人類に与えてくださり、イエスが人類の罪の代価をとして十字架の上で死なれました。この福音を信じることによって、人はもう一度無罪となり永遠に神との交わりをすることが出来るようになりました。ですからはじめに、福音を信じて、神との交わりを再開することです。
 
 次のイエスと他の宗教家との会話を読んでみましょう.先生。「モーセの法律の中で一番重要な戒めは何でしょうか」と尋ねました。イエスはお答えになりました。『心を尽くし、たましいを尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが第一で、最も重要な戒めです。第二に重要なのも、同じようなもので、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』という戒めです。ほかのすべての戒めと預言者たちの命令も、この二つから出ています。ですから、この二つを守れば、ほかの戒めを全部守ったことになるのです。これを守りなさい(12)。」
 
 当事は数百の守らなければならない戒めがありましたが、イエスは上の二つ戒めを守るならばそれでよろしいと言っておられます。ですが人間は好きな人を愛することは出来ますが、嫌いな人を許したり、愛したりは出来ません。これには神の愛が必要です。
 
 私たちが福音を信じ、罪を悔い改めて神の元に来るとき、神は愛―神の神格―をあたえてくださいます。そして上記の二つのことを可能としてくださいます。そして私たちを通して神の愛が多くの人に示されることを神が望んでおられます。前に書きましたように、神は一人の人でも滅びることを望んでおられません。私たちが自分を愛するように隣人を愛することによって、その人達が神の愛を見出し神を信じるようになることが神のみ心です。私達はその目的のためにつくられています。
 
 さてここで人の物質的部分の身体について聖書に書かれていることを見てみましょう。
 『身体は、神様があなたがたに与えてくださった聖霊の家であって、聖霊様がそこに住んでおられることが、まだわからないのですか。あなたがたの体は、自分のものではありません。神様が多額の代価を払って、あなたがたを買い取ってくださったからです。ですから、あなたがたの体のどの部分も、神様の栄光を現わすために用いなさい。その所有者は神様だからです(13)。』
 
 私たちの身体は神の所有物であり、神の霊が私たちのうちに住んでおられると書いてあります。だから神の栄光をあらわすようにこの身体を用いるようにとあります。ということは私たちの身体を大切にするよう教えています。
 
 麻薬やタバコは身体に害になります。食べすぎ飲みすぎも良くありません。健康に良い食物を取り、適当な運動や十分な睡眠は身体のためになります。そして健康な身体を持って上記の戒めを守ることが、神の目的にかなう生き方だと、信じます。
 
 すなわち、「心を尽くし、たましいを尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛すること」、そして「自分を愛するように、あなたの隣人を愛すること」にはげむことです。
 
 では、もう一度皆さんが目的に従って設計して造ったすばらしく快適に走る自動車のことを考えて見ましょう。その自動車を私にくれたとします。ちょうど私の住む所が無いので、その自動車を住まいとしたとしましょう。それは狭くて、住まいには適していませんが、無いよりはましだといって私が住んでいたら、これは皆さんがその自動車を造った目的にかなっているでしょうか。皆さんはこの自動車を住まいとして造ったのではなく、性能の良い、快適に走る車として造りました。ですから私は皆さんのせっかくの目的を果たさず、むしろ無視して無駄にその自動車を使っている訳です。
 
 神は私たち一人一人を特別な目的を持って造ってくださいました。ですから自分勝手な気ままなことをしていたのでは、神の目的を無視して無駄な生活をしていると言うことになります。
 
12.さいごに
 ここでひとつの提案があります。それはノートブックに「今していること、これからしたいことなど」を書き込んでください。またそのノートを前においてよく読み、目を閉じて「ここに書いたことは神の目的にかなったことか」どうかを神に聞いてください。静かに急がないで神に聞いてください。神はあなたの心に分かるように答えてくださいます。そして与えられた答えを自分の生きる目的として毎日の生活をしていかれると今までに体験したことのない喜びに充たされた生活となるでしょう。これが神の目的にかなった生きかたです。
 
 前にも書いたように、初めて聖書を引用した文章を読むかた達には分りにくいことがたくさんあったことと思います。またこの限られた文章だけでは、信仰に関する色々のことを詳しく説明することはできません。ですから、これを機会に教会に出席されて色々の質問をするなり、聖書をご自分でもっと詳しく学ぶなりすれば幸いなことと信じております。心から皆さんの上に神の祝福と導きをお祈りいたします。
 
 以下は聖書に親しんでおられる方の参考までにこの文章中にもちいた引用聖句の箇所を記しました。聖書は明記の無いものは理解しやすい、リビングバイブルを用いました。

 (1) 創世記 1:1−25
 (2) 創世記 1:26−27
 (3) 創世記 2:7
 (4) ヨハネによる福音書 3:16-17
 (5) コリント人への手紙 第一15:1−4〔口語訳〕
 (6) ヨハネによる福音書 5:24
 (7) マタイによる福音書 7:7−8
 (8) ヘブル人への手紙 9:27
 (9) ヨハネの黙示録 21:8
 (10) ヘブル人への手紙 11:1〔口語訳〕
 (11) ヨハネの黙示録 21:3−4
 (12) マタイによる福音書 22:36−40
 (13) コリント人への手紙 第一 6:19−20

 
 
2008年2月16日
著作者 中村 朗(あきら)

 

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