第43話
 細菌学者・志賀潔先生に敬礼(けいれい) その4
 

 
 
「おもな対象読者」
 中学生から大学生までの幅広い年齢層の皆さんに読んでもらいたい。
 細菌学を発展させた大先輩たちがいかに苦労したかを読み取ってもらいたいからです。
 
 
 
 
 
「細菌学者歴伝」
 赤痢菌の発見者で国際的な細菌学者である志賀潔先生は、細菌学者歴伝と題して、微生物学の創造に貢献した大学者についてのエピソードを書き残してくれています。そのなかから数名の代表的学者を科学の発展史の一部として選び出してここに紹介します。
 シリーズ「細菌学者・志賀潔先生に敬礼」というタイトルであらためて若い青少年にも読めるように書き直しを試みました。志賀潔先生から若者へのメッセージです。
 
 
本 文 目 次
 
 
 
梅野 信吉以下、次号
11.梅野 信吉
12.エールリッヒ、パウル
13.秦 佐八郎
14.ウォルター・リード
 
編集・著作 田口 文章
 
 

 
 
第43話 細菌学者・志賀潔先生に敬礼(けいれい) その4
 
8.マック・ペテンコッファー Max Pettenkofer (1818-1901年)
8−1.衛生学を確立
 マック・ペテンコッファーは、ミュンヘン大学、ビュルツブルグ大学やギーモレー大学などで、化学と医学を学びました。1883年ミュンヘン大学の正教授になり、後に衛生学研究所を建設してその所長となり、1901年に永眠するまでここで研究をしていました。
 
 彼は衛生学の基礎を作り、化学的及び理学的方向から衛生学の研究を行ない、とくに室内の換気法に関する有益な業績を残しました。ミュンヘン市の水道は彼の設計したもので,その水質の良質なことは,水道敷設の模範とされています。
 
 ローベルト・コッホが細菌学を興して、伝染病の細菌病原説を唱えると、ペッテンッファーは心に甚だおだやかでないものがありました。彼の主張する地下水説は、伝染病の流行は「士地と時の素因」によるものと考えていたのでした。コッホがコレラ菌を発見しても、ペッテンコッファーはコレラの発生はコレラ菌のみでは起こるものでないと主張していました。
 
8−2.コレラ菌液を飲む生体実験を実施
 ペッテンコッファーは、コレラ菌をXとなし,このXはコレラ発生の唯一の原因ではない、地中にあるYという素因と合してXYとなって初めてコレラが発生するものであるという主張でありました。
 
 彼は自分の学説が正しいことを立証しようと,コッホが発見したコレラ菌を入手して門弟エィリッヒとともにコレラ菌の培養液を飲んでしまいました。その夜彼は激しい下痢をおこしました。幸いに中毒症状までは起こさずに治りました。しかし、彼の弟子のエィリッヒは次の晩に劇烈なコレラの症状を発症し、コレラ特有の「米のとぎ汁のような水様便」の下痢をし,脱水状態から衰弱・尿閉などを発し,数日の治療でようやく死を免れました。
 
 この事件は後々まで有名な話となって,世に伝えられている。自分の学説に忠実なのと頑固(ガンコ)とを,取り違えてはならない
 
 
9.野口 英世 (明治9年−昭和4年,1876-1929)
9−1.語学の天才
 幼名を清作というのちの野口英世は、明治9年(1876年)、福島県猪苗代湖畔磐梯山地方の農家の家に生まれました。中学を二年で退学してしまった清作は、その時すでに英語、フランス語、ドイツ語を読み、大人たちを驚かしたほどの語学の天才でありました。
 
 東京の伝染病研究では、更におどろくべきことにイタリア話やスペイン語の文も読めたのです。著者(志賀潔)がある日、イタリアのセリ博士の赤痢菌に関するイタリア語の論文を野口英世に見せたところ、1週間程でこれを日本語に訳してくれたことを記憶している。今から思うに、野口はこの時初めてイタリア語の文を読んだのだと思う。
 
 のちにデンマークのコペンハーゲンに留学した時、1年たらずしてオランダ語とデンマーク語を話し、かつ書けるようになったという。また、黄熱研究のために南アメリカに行ったとき、土地の医師や役人とスペイン語で話したというので、さすがの野口英世の先生である国際人フレキシナー博士も野口の語学の才能には驚いていたようです。
 
9−2.研究室での野口英世
 野口は、研究も勉強も実に全力を尽したのです。研究室にいて疲れると、椅子から立ち上がって床にゴロリと横になり、1〜2時間ほど眠り、目がさめると直ぐに研究するとのでした。野口夫人によると、野口は夕食後に1〜2時間は長椅子の上で眠り、目がさめると直ぐ机に向い、夜中まで勉強していたそうです。
 
9−3.北里柴三郎とフレキシナーの弟子となる
 野口清作少年は、20歳の時に上京してきて、東京の済生学舎に入学し医学の勉強をはじめました。わずか2年間で医術開業試験の前期と後期に合格したのでした。
 
 北里柴三郎先生は、熊本県の出身で庄屋の息子であり、東京大学医学部(のちの)を卒業した医師です。しかし、身分や出身および学歴などにはあまりこだわらない指導者でしたので、済生学舎を出た野口英世を国内最初の伝染病研究所で採用しました。1898年入った野口は北里柴三郎所長の下で細菌学を学びました。
 
 その翌年の1899年の春たまたまアメリカの細菌学者フレキシナーがフィリッピンのマニラに行く途中に東京に立ち寄り、伝染病研究所に北里所長を訪ねてきました。この時、フレキシナー博士の英語の通訳を北里所長は22才の野口英世に頼んだのでした。彼は、その時初めてフレキシナー博士を知ったのです。
 
 アメリカまでの旅費を友人などから調達した野口英世は、招待もされてないのに3等の乗船券を買って太平洋を越え、1899年の12月24日ペンシルベニア州都のフィラデルフィア市まで行ってしまいました。その足ですぐにペンシルバニア大学にフレキシナー博士を訪問し、東京から来た野口ですと挨拶をしたのでした。
 
 フレキシー博士は、野口のこの不意の訪問に驚き、彼の生活費について心配し事務当局と折衡してくれましたが、その当時のアメリカの大学には外国人に対して支出すべき経費はなかったのです。そこで、フレギンナーは実力をもってするより外に道なしと教え、野口に研究課題を与えたのでした。
 
9−4.黄熱の研究をはじめる
 野口は、原因不明な伝染病の研究に没頭しました。1918年に彼は黄熱の研究のため、ロックヘェラー研究所より南米のエクアドルに出張しました。これは、南米出張4回(1918-1924年)中の最初でした。これに先んじて、野口は大正4年(1915年)に日本に帰って来たとき、稲田博士の熱性黄疸の研究を見学して米国に帰り、北米の地にも不明熱としての熱性黄疸の存在を確めました。
 
 次に彼は、黄熱に注目した。彼の前後4回にわたる南米の遠征において、彼は黄熱患者の血液(27例中6例)にレプトスピラを発見しました。しかし、ここで彼の研究心を奮起させたのは、アドリア・ストークス博士の研究で、ストークス博士によるとアフリカの黄熱にはレプトスピラを証明できない、その病原体は濾過性の別なものだというのでした。
 
レプトスピラは果たして黄熱の原因なのか、あるいは濾過性病原体(現在はこれをウイルスと呼ぶ)はレプトスピラの一定発育期にあるものなのか、またはレプトスピラは混合感染であるのか。これは後の研究として残されました。
 
9−5.三人の博士が帰らぬ人となる
 野口英世は、ついにアフリカにまで出かける日が来ました。1927年10月のことでした。11月17日ゴールドコーストのアクラに上陸し、直ちに研究室を作って研究に着手しました。やがて彼はアフリカにおける研究を終わり、ストークス博士がいう黄熱の濾過性病毒を発見し、ストークス博士の成績を再確認したのでした。自らのレプトスピラ説を否定して、帰国の準備をしていました。
 
 しかし、この時すでに野口英世は、不幸にも黄熱に感染していたのです。症状はたちまた増悪し、1928年5月21日についに永眠しました。
 
 ああ、彼は生まれて16歳にして故郷を出て、20歳にして東京で医学を学び、25歳のときに米国に留学し、ロックフェラー研究所では伝染病の研究に従事すること30年、その間、欧州に渡り南米に渡航し、研究の足跡は世界に広くゆき渡って、ついにアフリカの異郷の地において永眠したのでした。彼の死を聞いた時、著者(志賀潔)は万感胸に迫り、ついには涙がとめどなく流れ落ちたのでした。
 
 英国の病理学者ヤング博士は、アクラにいて野口英世の研究資料や標本などを整理しようとしているうちに、ヤング博士もまた黄熱に罹り、野口の後を追って5月29日に歿してしまいました。
 
 黄熱の濾過性病毒説のストークス博士は、また黄熱の濾過性病毒(ウイルス)を証明した後、間もなく黄熱を発症して昇天してしまったのでした。三人の黄熱研究者は、相前後してアフリカの地において、黄熱病原研究のためにその生命を犠牲にしたのでした。
 
 
10.エドワード・ジェンナー Edward Jenner (1749-1823)
10−1.考えておらずとやって見るがよい
 1749年5月17日、宣教師であるジェンナー家の三男として生まれたエドワード・ジェンナーは、5歳の時父親を失い、兄の手で育てられました。彼は小さいころから博物学に興味をもっていました。イギリス・ブリストルのドクター・ダニエル・ルドローのもとで医学の初歩を学び、その後ロンドンに出て、セントジョージ大学で医学を修めました。その間ジョン・ハンター教授の家に下宿していたのです。
 
 1780年のある日、ドクター・ルドローに診察して貰いに来た百姓の娘がいうには、「私の病気は、天然痘ではないと信じます。なぜなら私は、以前牛痘(牛の天然痘のこと)に感染したことがありましたから」というのでした。その言葉は若いジェンナーの耳に、強い衝撃(しょうげき)を与えたのでした。その10年後の1790年に、この百姓の娘の言ったことをジェンナーがジョン・ハンター教授に話すと、「考えておらずとやって見るがよい」といましめられた。
 
 この言葉は若い学徒ジェンナーの脳に、深く刻み込まれたのでした。その時以来ジェンナーは、天然痘の研究をー日も忘れることなく、ある時は牛痘を取り、あるいは豚痘を取って試験しました。こうして彼はこの2種類の痘が、天然痘の変種にほかならずとの確信を得るに至ったのです。
 
 この若い研究熱心なジェンナーは、何の躊躇(ちゅうちょ)もなく自分の長男に豚痘を接種し、一定日の後さらに天然痘の毒を種えてみました。この天然痘毒は何らの症状をも起さなかったので、彼は自分の考えが正しい事が判明したと大変に喜びました。
 
 さらに進んで研究してみると、痘の採取時期によってその膿を接種した後の成績が同−でないことを知ったのです。すなわち、ある場合には接取した局部に発痘のみで予防力が弱く、ある時期の痘胞は全身作用を起こして予防力の確実なことが判ったのです。
 
10−2.好機到来(こうきとうらい)
 彼の目的が達成される時期がとうとうやってきました。1796年5月14日、ジェームス・イプスという8歳の子供に、初めて牛痘を接種したのです。その材料は牛痘に感染したスラ・ヘルメスという牛乳搾乳の少女の膿を用いたのでした。これこそ人に感染した牛種痘を、人体に接種した最初の実験となりました。
 
 7月1日になってこのフィプスに天然痘を接種してみたが、何らの異状もなくもちろん発病もしなかったのです。彼はこの予期せぬ好成績をみて、烈しい喜びの衝動を感じたのでした。今日私たちが彼の実験方法をみるに、学術的に何ら非難するところがないほど精確なものであります。
 
 彼は、この研究の成績を1798年に自費出版の著書としてこれを出版しました。彼はまたロンドンに出て、彼の実験を友人の医師らに説明しようと試みましたが、誰一人として相手にしてくれる者もなく、むろん種痘を受けようとする者もなかったのです。世界的な大発見は、社会のうけいれるところとならないのはし方がないことなのでした。
 
10−3.ようやく学界が注目する
 彼はワクチンの種を、セント・トーマス病院のドクター・クラインに与えて、郷里ヘと帰ってしまったのでした。クラインは、2〜3人の小児にこの痘苗接種を試みて、効果があることを確かめることができました。ジェンナーの発見は、ようやく学界の注意をひくことになったのです。
 
 この時、クラインは手紙をジェンナーに送り、ロンドンに移住することを勧誘しました。そして、クラインは1年の収入として、1万ポンドの保証をジェンナーに与えました。しかし、私的な利益のために屈せず、名誉のために動かぬジェンナーの崇高な人格は、この友人の勧誘を断ったのでした。
 
 間もなくして、ジェンナーの有力な礼讃者が現われました。ヘンリー・ヒックスは、ジェンナーの種痘を小児に接種したのを手始めとし、次にはレディー・グラフィン・モルトンの一人息子にも接種したのでした。その成績をみたバークレーのグラフィンは、プロイセン(のちのドイツ)のウイリヘルム四世大帝王に種痘を勧めて、その王子などに種痘をさせたのでした。
 
10−4.英国の議会に認められる
 一方、英国の議会は、1万ポンドの贈与を決議しました。1803年に皇立ジェンナー研究所が設置されて、痘苗の無料配給を図ったのでした。その後、痘病乱造の弊害があって成績不良の事実があったが、その調査のために設けられた委員会は、ジェンナーに有利な報告をしたことにより、1808年英国議会は再び2万ポンドをジェンナーに贈与して、彼の生活を助け、なおまた国立種痘研究所を設立して、ますます種痘の普及を図ったのでした。
 
 ジェンナーは、最初の種痘を受けたジュームス・フィルプスのために住宅を建設し、その庭園に自からバラを植えて、彼の優しい心を示したのでした。ロシアの女皇は、その皇子に種痘を接種して、その名をワクシノフと付けたのはすこぶる興味あることでした。
 
 一方では、ジェンナーに年金を与えて表賞した。ロンドンの医学会は、金碑を贈呈し、オックスホード大学は理学博士の学位を与えた。1805年にナポレオンは、軍全隊に種痘を行なうよう命じたという。このようして、ジェンナーの種痘法はたちまち全世界に広まり、わが国へもジェンナーの発見後数年たらずして伝えられました。
 
 ジェンナーは、1788年にカサリン・キングスケートと結婚し、二男一女をもうけ、極めて平和な家庭を作った。この最愛の妻は、彼より先に1815年に亡くなりました。その後、ジェンナーはバークレーに隠居して、静かに余生を送ったとのことです。脳卒中に罹って、1823年1月26日に74歳でこの世を去りました。
 
 
 
平成19年4月25日
編集・著作 田口 文章(ふみあき)

 
 

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