第55話
 実物に勝るものはなし
 

 
「主な対象読者」
 初中等教育に関心のある方,児童や生徒の親御さん,教育に携わっている教員の方などを読者としてえがきながら原稿を準備しました。中学や高校の生徒さんが読まれても理解できると思います。
 
「原稿執筆の目的」
 視聴覚にうったえる既成の教材を用いた教育は、効果的であることに間違いはない。しかし,図,写真や映像などは,あくまでも図、写真、映像であって,いつ見聞きしても変化がなくおなじなので、教師や生徒が新鮮な驚きや感動をおぼえることがあるでしょうか。理科嫌い,勉強嫌いを生む主な要因は、理科教育の在り方と教える立場の教師や父母の責任ととらえ,つめこみ教育に頼らない良い対策はないのでしょうか。
 校舎の内外を問わず生きている動植物を生徒たちの身近におき、自然と接することができる環境を準備し、そこから各自の能力に応じて何かを感じて貰う「実物教育」の意義と意味について自分の実践の一部を紹介するつもりで原稿を書きました。
 
 
本 文 目 次
 
著者 森田 達己
 

 
 
第57話 実物に勝るものはなし
 
ビオトープのある学校
 今年の夏(平成20年8月),コーチを務めるサッカー部の1年生部員35名を引率して県外のある高校を訪れ,対外試合をおこなった。その学校は,校外に広い敷地をもち,グランド脇にはビオトープを設けている大変環境の良い場所にあった。そこに県内外から数チームが集まって試合をおこなった。
 
 帰り際,信じられないアクシデントが起こった。グランド脇のビオトープに生徒が落ちているのである。落ちた生徒やそれを周りで見ていた生徒の表情は一様に強ばり,ふざけて入り込んだのではないことは瞬時に理解できた。
 
 このビオトープには,人工的に置かれた大きな石が点在し,水面には,ウキクサ科の浮漂植物であるアオウキクサLemna aoukikusaが隙間なく繁茂しており,さながら緑に塗られたコンクリート上に施された石庭のようであった。
 
     
 
 アオウキクサ(Lemna aoukikusa)      本校の教材池に繁茂するアオウキクサ
 
 試合を終え,バスに移動する際に,部員3名がこの「石庭」を横切ろうと足を踏み入れ,ビオトープに落ちてしまったのである。この3名の生徒に聴くと,「あれが池であるとは思わなかった。落ちるまで緑色のコンクリートであることに疑いはなかった。」ということであった。今までにも浮き草をみたことはあったが,水面一面に隙間なく繁茂している状態を見たことがなかったようである。
 
 後で聴くと,この日,ここのグランドを訪れた他のチームの選手数名もこのビオトープに落ちてしまったそうである。もちろんこの学校の生徒がビオトープに足を踏み入れる事はないとのことではあったが,表示や柵もないこのビオトープが,特に夏場のアオウキクサが繁茂する時期は危険であることをこの学校の顧問に伝えるとともに,自分自身にも予測できなかった事を反省しつつグランドを後にした。
 
本校での生物学教育
 広島国泰寺高校は,旧制広島一中の伝統を受け継ぎ,質実剛健の校訓のもと,文武両道を目指している進学校である。広島市の中心部にあり,周囲を高いビルに囲まれた環境の中で,生徒達は日々勉学に部活動に励んでいる。在籍する生徒のほとんどは市内から通学しており,緑豊かな環境で生活している生徒は多くない。したがって,日々の学校生活の中で自然を体験できる機会は,意図的なものを除いては非常に少ない。
 
 そのような状況の中,生物という科目を担当する私たちの使命はとても重大と考えている。本校では,3名の教員が生物を担当しているが,都市部の学校であるからこそ,観察や実験に力を入れて指導にあたっている。特に,普段目にすることの少ない「実物」を用いた授業にこだわって展開するよう心がけている。
 
 最近では,本校の教員が友人からいただいたというカサノリAcetabularia ryukyuensis)を生徒に見せながら授業を展開した。授業では毎年紹介している単細胞の緑藻類であり,教科書にもきれいな写真が載っているこのカサノリであるが,私自身実物を見たのは初めてであった。
 
 生徒とともに感動を共有し,同時にこの生物が環境の変化とともに非常に短期間で生命を終えてしまうこと,生命を終えた亡骸がどのような状態になるかなどを理解することが出来た。また,カサノリの生殖方法や休眠方法,さらに沖縄では,準絶滅危惧種に指定されていること,しかし教材として購入することが可能であり,非常に高価であることなど,実物を目にするとその生物への興味が大きく膨らみ,この生物を取り巻く状況も知ることが出来た。
                                           カサノリ
                                      (Acetabularia ryukyuensis
視覚的な教育
 昨今の教科書は,印刷技術もあがり,非常にきれいでわかりやすい模式図や写真が掲載されるようになった。また,教科書の副教材として用いられる図説や図解も多種多様な図や写真が載せられている。その中には,教える側の私たちですら実物を目にしたことのない生物,ましてや絶滅危惧種に指定さているなど,実物が手に入らない,もしくは手に入れることで生態系を大きく変えてしまう危険性がある生物についてもその画像が掲載してある。この点については,大変便利な教材であり,それを用いて授業を展開すれば,確かに理解は得られやすい。
 
 また,最近では,パソコンで動画が見られる教材も登場してきた。限られた時間や場所,予算のなかで効果的な授業を展開しようとする際に,数年前に比べて格段に授業展開が容易になってきたように思う。しかし,写真はあくまでも写真であり,映像もまた同様である。画像そのものは,生命を持たないがゆえに,いつ見ても変化がない。変化がないためにそれを見ても生徒は考えることをしない。教科書の副教材としての役割は十分に果たすのであろうが,これだけに頼ってしまえば,予測できない生物の行動や反応から「なぜ」という素朴な疑問を生み出し,それに対する自分なりの考えを持つ機会が大きく制限されてしまう。
 
バーチャルな教材
 このようなバーチャルな教材だけを用いて生物学を教ええることで,正しい自然観や生命観,倫理観,ひいては考える力,生き抜く力を育むことが可能であろうか。大学入試での得点だけを目標とするのであれば,必要な知識を注入し,問題演習を繰り返す方が効果的である。
 
 事実,昨今の大学入試センター試験(生物T)においては,実験・考察問題の対策として,その目的と使用器具・試薬,操作方法とその意義・注意点を理解させ,文章の読解力,グラフや表の理解力をつければ,実際に実験していなくてもかなりの高得点が期待できる。しかし,その高得点をあげた生徒が正しい生命観を抱いているといえるのであろうか,疑問である。
 
五感の活用
 観察や実験は時間とお金,労力がかかる。しかし,何ものにも代えられない貴重な体験が得られる。また,実験には失敗もつきものである。その失敗から学ぶことは大いにある。失敗の原因は何か,失敗を繰り返さないためにはどのような工夫が必要か,など,生徒達に考えるきっかけを与えることができる。このような実験や観察,体験活動をとおして,生命というものを視覚だけでなく,においや触った感じなど五感をフルに活用し,感じ取って欲しいものである。こうした体験を通じてこそ生命観,自然観を育むことが可能となるのではないだろうか。
 
先輩から教えられたこと
 私が大学を出て初めて勤務した高等学校で、ある先輩生物教員に教えられたことがある。その先生曰く,「生徒の基準が図説であってはならない。基準はあくまでも実物である。どんなにきれいな写真や図よりも実物に勝るものはない」とのことであった。
 
 私自身,高校生の時分に生物の授業で観察をおこなった経験がほとんどない。部活動も生物部ではなく運動部に所属していたため,実験室のどこに顕微鏡があったかもあまり覚えてない。当時の恩師の苦労は推察されるものの,興味のわく授業とは言い難いものであった。
 
 私が新任教員であるころ,この先輩教員の授業を参観させていただいた際に,生徒ともにワクワクしながら観察したことを今でもはっきり覚えている。あの時期に実物を重視する先輩生物教員と一緒に勤務できたことを大変幸運に思う。
 
理科嫌い?
 子ども達の理科嫌い・理科離れが叫ばれはじめて久しいが,生徒達は決して科学的な現象や生命体が嫌いなわけではないと考える。事実,どの科目においても観察・実験に対する意欲は非常に高い。他校の教員に聴くと一般に進学校と呼ばれる学校以外の高等学校においても同様であるという。結果をレポートにまとめる力や考察する力には差があるかもしれないが,観察・実験そのものには一様にとても良い反応を示す。要は,講義形式の授業と観察・実験をどう組合せ,融合していくかがポイントであり,またそれが社会生活とどう関わるかを教えていくことが大切である。
 
 人間誰しも,楽しく幸せに暮らしたいという理想をもっている。そのために健康でありたい,美しくなりたい,好きな仕事をして達成感を得たい,他人に認めてもらいたいなどの欲求がでてくる。この欲求を学校教育に繋げるために,体験活動や観察・実験,実習などが必ず必要となる。
 
 理科嫌い・理科離れは,理科教育の在り方そのものが原因である事は明確であり,社会の風潮や家庭教育にその責任を押しつけるべきではない。現場の理科教員は,めまぐるしく変化する状況を正確に捉え,それを教材化していく努力を怠ってはならないと思う。
 
良い指導方法
 現在,理科教育界には多くの研究会や学会が存在し,多くの先生方がより良い教材や指導方法の開発について研究されている。私自身も日々の校務の忙しさを理由に教材研究が滞ることがあるが,授業中の生徒の目の輝きを失うことは出来ない。将来,科学技術大国日本を背負って立つであろう生徒達の指導に手抜きは許されないことを肝に銘じ,毎日の授業に取り組むべきである。
 
自然な自然観察
 本校の生物教室には,メキシコサンショウウオやアフリカツメガエルなどの両生類やメダカなどの魚類を中心とした様々な動物や植物を飼育・栽培している。それらに対する生徒達の関心は,生物という科目を履修しているかいないかに限らず非常に高い。生き物の世話は,基本的に科学部生物班の生徒が行っているが,授業や何らかの会合で実験室を訪れた生徒達は,思い思いに動物に名前をつけ,その行動を興味深そうに観察している。視覚だけでなく,臭いや鳴き声,時には実際に触れながらそれを理解しようとしている。
 
 また,本校では,平成14年度より指定していただいているスーパーサイエンスハイスクール事業の一環として,毎年,理数コース1年生を中国山地にある比婆山に連れて行き,自然観察合宿をおこなっている。都市部に暮らす生徒達は,初めて見る生き物に大きな関心を示す。同時に,険しい山道や変わりやすい山の天候までも体感できる。生徒の反応を見ると,やはり,生物教育には実物が非常に大切であることを再認識する。
 
 ビオトープを「石庭」に見間違えた例は,決して少なくない。自然に触れる機会が失われつつある都市部の学校でこそ,実物をとおして正しい生命観・自然観を育み,同時に生きていく知恵,力を育成していく必要がある。私自身も自省しながら研鑽に励んでいく所存である。
 
おわりに
 昨今のニュースをみると,人がいとも簡単に人の命を奪う痛ましい事件が後を絶たない。また,年間の自殺者数をみても,3万人を超え,横ばい状態である。動機や背景は様々であろうが,命の尊さは何ものにも変えられないものであることを十分理解して欲しい。命の大切さ・尊さを学ぶ機会は,いたるところにあり,学校で学ぶ生物の時間もそのひとつである。
 
 教育の本質は,子ども達にこれから社会の中で生きていく力を育成することであると考える。生きていく力とは,判断力対応力適応力問題解決能力コミュニケーション能力などが考えられるが,これらを総合した力こそがこの複雑な社会を生き抜く力であると考える。子どもによってはそれぞれの力に強弱,得手不得手があろうが,いずれにせよこの総合力を駆使して将来を生き抜いていかなければならない。
 
 学校は,教育機関であり,教育に関する材料や方法の知識・技術は豊富にある。しかし,その効率性を重視するため,工夫されすぎた教材が,生徒達の判断基準を狂わせているのではないかと感じることがある。鮮やかに彩られ,きれいな形に整形されたものが,「本物」ではない。実物は,もっと変化に富んでおり,色も不揃い,形も歪なものもある。これこそが基準であり,この多様性から学ぶべき点は非常に多い。これらを排除し,人工的な生物像だけで生命現象を教えると子ども達は偏った生命観を身につけてしまうように思えてならない。
 
 家庭においても同様である。テレビモニターの中で,かっこよく,或いはかわいらしく創られたキャラクターたちが闘ったり,楽しく振る舞ったりするロールプレイングゲームなどは,特にまだ判断基準が明確でない幼い子どもにとって生物の概念を狂わせる大きな要因であるように思う。現代の住宅・環境・体質などの諸事情から,ペットを飼えない状況があることは,十分に理解出来るが,その代役をパソコンのモニターの中で振る舞う物体に求めるのは,大変危険であるように思う。
 
 私たちに身近な生物,例えば,野菜や果物などの植物や肉や魚などの動物からも,様々な事が学べる。産地や収穫時期はもとより,なぜそのような色をしているのか,なぜ,そのような形をしているのかなど,幼い頃からこのような質問をなげかけることによって,子ども達は,考えようとする習慣がつく。また,そこから素朴な疑問が生じ,知りたい,学びたいという意欲が湧いてくる。学校や家庭において,この意欲を大切に育て,子ども達が健全で正しい生命観を抱いてくれることを願ってやまない。
 
 
 
平成20年10月30日
広島県立広島国泰寺高等学校
教諭 森田 達己
 
 

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