第75話
 微生物と人類との関わり 〜微生物には不可能はない!〜
 

 
「主な読者対象」
 中学生以上の生徒や学生から一般人を主な対象と考え、これらの幅広い年齢構成の人集団に向けて微生物がつくる酵素の話を中心に微生物の力について綴りたいと思います。
 
本 文 目 次
 
 
著者 森本 兼司
 

 
 
第75話 微生物と人類との関わり 〜微生物には不可能はない!〜
 
はじめに
 「微生物には不可能はない」とは、なんだろう?と思われる読者は多いと思います。本稿では、微生物の無限の力の一端を皆さんに紹介したいと思います。まずその前に微生物と人間との関わり合いの歴史を皆さんに知って欲しいと思います。
 
 皆さんは、「微生物」と聞いて何を思い浮かべますか?真っ先に思うことは、微生物=バイ菌だと思います。子供の頃によく、お母さんから「手にバイ菌が付いているからよく洗いなさい」と言われた人は多いことでしょう。ですが、なぜかと不思議に思いませんでしたか?
 目には見えないのにバイ菌が手や食べ物に付いているのはなぜでしょう?それは微生物が人の目には見えないくらい非常に小さく、私たちの手は日常いろいろなものに触れ、そして手の表面は微生物にとって居心地の良い環境なので、実に150種類もの微生物が何万という数で住みついているからです。
 
 もちろん手だけではなく、皮膚や体内(消化器官)のあらゆる所に微生物は住みついています。バイ菌が口から体の中へ入るとひどい場合、食中毒になります。食中毒を引き起こすための菌の数はとても少なく数百個程度で症状がでる例もあります。だから手洗いをし、食べ物は火などを使い殺菌して食べることでバイ菌が体の中に入らないようにしているのです。
 
 
バイ菌という細菌はいない
 少し前までは黴菌と難しい漢字を書いてバイ菌と呼ばせていました。このバイ菌という言葉、実はこれはバイ菌という名の一種類の微生物は存在せず、人にとって害をもたらす微生物達をまとめて表しています。これまでに多くの研究者が様々な微生物を見つけてきましたが、微生物の種類は非常に多く、その数は未知数といわれています。
 
 食中毒を起こす菌の種類は、実はこのうちのほんの一部でしかなく、ほとんどの微生物は人に対して害をもたらすどころか、むしろ人と共存・共生して役に立っています。口の中や腸内に生息する微生物は生態系のバランスや人間の健康維持のために欠くことのできない存在なのです。
 
 
微生物との長い付き合い
 さてこの身近な“微生物”ですが、我々人とは長いお付き合いであることをお話しましょう。酒、ビール、ワイン、パンは微生物の1種である酵母の発酵によって作られていることはよく知られていますが、この発酵、実は紀元前6000年(今から8000年前!)も前から使われている技術ということを知っていますか?
 
 当時は、自然発生的に酵母がブドウ、大麦や小麦を発酵させたものを偶然に人が口に含み美味しいと感じたことから、微生物の存在に気がつくことなく微生物を利用してきた訳です。それに人類は気付かずに脈々と先人たちの技術を受け継ぎ、改良を重ね続けて、今のさまざまな発酵食品(ワイン、日本酒、醤油、味噌など)をよりよいものにしてきたわけです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
酵母の発見
 この酵母、人類に発見されるまでにはずいぶんと時間がかかりました。1683年にオランダ人のアントニ・ファン・レーウェンフックが顕微鏡を用いて歯垢(しこ)中の口内細菌を初めて観察し、その後にビール中の酵母を観察しました。それから約300年が経過し、ご存知のように微生物を使った産業は目覚ましく発展してきました。
 
 微生物の発見から遅れること約200年、酵素の結晶化に始めて成功し、遺伝子の発見が50年ほど前になります。そして遺伝子工学(バイオテクノロジー)の発展により、実にたくさんのことが分かってきました。
 
 微生物は酵素を作り、その酵素はタンパク質でできており、微生物が持つ遺伝子が設計図となっていること、そして人類は、遺伝子工学の技術を編み出し、今では自由自在に様々なタンパク質を簡単に増やすことができるようになりました。
 
 微生物も人類と同じ生物なので、生命活動を維持するために、様々な組織・器官を持っています。そのうちの1つに酵素があります。酵素はさまざまな物質を別の物質に構造を変化させる力(これを触媒といいます)をもっていて、たくさんある酵素には得意不得意があり(酵素の基質特異性といいます)、実に様々な酵素が生命維持のために細胞内で働いています。
 
 先に説明した発酵にも、実に様々な酵素が関係していることが知られています。そして食品、医薬品、環境浄化分野では、バイオテクノロジー産業が深く関わっていて、そのほとんどは微生物がもっている酵素を利用したものになっています。
 
 
微生物に不可能はない
 さて、そろそろ本題の「微生物には不可能がない」という話をしましょう。不可能がないという意味は、微生物はなんでもやってくれる、スーパー微生物という意味ではありません。確かに微生物は最終処分者なのでいろんなものを分解して物質の循環を司る役割を果たしていますが、ここでは微生物がつくる酵素の話を中心に綴りたいと思います。
 
 先にも書きましたが、微生物は非常に多種類の酵素を持っていて、世界の研究者が日々酵素の機能について解析をしていますが、まだまだ人類が及びもつかない働きをしている、機能が分からない酵素が無数にあります。研究者は、例えば環境汚染を無害化するように反応する酵素があれば・・・と思いを馳せて、その酵素を探索することから研究を始めます。これまでの経験をフルに使って目的の酵素を探し出すわけですが、数ある微生物のうちには研究者がターゲットとする酵素を必ず持っていると筆者は考えています。これが「微生物には不可能はない」とタイトルを付けた理由です。
 
 
特効薬としての抗生物質
 ここで代表的な例を挙げて、説明したいと思います。実にたくさんの例があり、何を題材に選ぶか悩みましたが、抗生物質を取り上げてみたいと思います。ご存知のように抗生物質は病気にかかったときの特効薬として現代の医療には欠かせない薬品で、とてもたくさんの種類があります。世界で最初に発見された抗生物質のペニシリンは、イギリス人のアレクサンダー・フレミングによって1929年に発見されました。実はこのペニシリンは、微生物の培養実験に失敗したことにより偶然に発見されたのです。
 
 フレミングは、細菌を寒天培地上で培養していましたが、そこに青カビが混在し細菌の生育を阻害している現象に気づいたことから世紀の大発見になりました。後でフレミングは、この功績でノーベル賞を受賞しています。このような発見というのは、どこで何が起こるか分からないので不思議なものです。
 
 さて、このペニシリンを含む抗生物質というのは、自然界においては本来自分自身を守るため、つまりは周囲にいる他の菌の生育を抑えて、自分だけが繁栄できるようにするために獲得した物質だということをまず知ってください。それを偶然にもヒトが発見して、そしてヒトの都合の良いように改良を重ねて病原菌からヒトを守るために使用しているのです。
 
 細菌は増殖するときに、自身の体を維持するために細胞壁を合成するのですが、先のペニシリンは攻撃する細菌の細胞壁の合成を阻害する抗生物質で、これにより相手を増殖できなくしてしまいます。ちょっと詳しく見てみましょう。図1に代表的な細菌の構造を、図2に細胞壁の合成について示しました。
 
 
 
 
 
 
微生物の身体を形つくる細胞壁
 微生物の細胞壁は、すべて酵素反応によって造られ、細菌の細胞壁は主に2つの糖質と複数種のアミノ酸から出来ています。少し難しくなりますが、主鎖としてN-アセチルムラミン酸 (NAM)とN-アセチルグルコサミン(NAG)が交互に結合した1本の糖鎖があり、これが複数並行して壁表面を広く覆っています。それを補強するためにアミノ酸が4つ結合したペプチド(テトラペプチド鎖)が各NAMと結合し、それらペプチドが互いに結合しあって細胞膜とも結合し、さらに隣同士の糖鎖を5つのグリシン(ペンタグリシン鎖)が架橋して強固な細胞壁を合成します。
 
 細菌の種類によって、このテトラペプチド鎖は種類の異なったアミノ酸からできていることもあります。最後の仕上げとなるテトラペプチド鎖とペンタグリシン鎖を繋ぐ酵素がそれぞれ@トランスペプチダーゼとAD-アラニンカルボキシペプチダーゼです。これらが働かないと正確な細胞壁が合成されないことになります。
 
 
ノーベル賞のペニシリン登場
 ここでようやく、ペニシリンの出番です。青カビが作るペニシリンの構造はテトラペプチドの一部(D-アラニンが2個結合した形)に非常に似ています(図3)。細菌が細胞壁を合成している最中に、ペニシリンが近くに存在するとAの酵素、D-アラニンカルボキシペプチダーゼにペニシリンが結合してしまいます。一度結合するとペニシリンはこの酵素から外れなくなり、この酵素は二度と細胞壁合成に参加できなくなります。
 
 こうすることで細胞壁の合成が不完全となり、細胞壁が薄くなります。最終的には溶菌、つまり菌が溶けて死んでしまい、青カビの周囲からいなくなります。カビにも自分を守るための細胞壁がありますが、その構造は細菌のそれとはかなり成分が異なっており、ペニシリンの影響を受けない(受けたのでは意味がないですからね)ようにできています。これがペニシリンの全容ですが、この仕組みは非常に巧妙だと思いませんか?こうして青カビが繁栄できるわけです。
 
 この仕組みが解明されたのは、ペニシリンが発見されてからずっと後のことですが、研究者はペニシリンが有効な細菌を駆除するために医薬品として開発し、現在広く病院で使われています。このペニシリンが発見されたお陰で、細菌の感染症でヒトが死亡する確率が激減したそうです。
 
 
ペニシリンに抵抗する力
 ところが、攻撃される側の細菌も黙ってやられ続けてはいません。細菌などの下等生物は、ヒトなどの高等生物と比べて進化の速度が非常に速いことが知られています。つまり下等生物の遺伝子は、どんどん変化し続けて、なんとかして生き残ろうとします。やがて抗生物質に抵抗(耐性)する能力を獲得します。
 
 このような能力を獲得した細菌は薬剤耐性菌とか抗生物質耐性菌などと呼ばれ、特に病院などでは“院内感染”を引きこすとして非常に恐れられている細菌に変化します。
 
 では、どのようにして耐性を獲得したのでしょうか?一番簡単な方法はペニシリンを分解して周囲からなくしてしまうことで、これにより二度と影響をうけることがなくなります。実はペニシリンを分解するのも酵素でペニシリダーゼまたはβ-ラクタマーゼなどと言われ、ペニシリンに曝され続けると次第に細菌はこの酵素を作るように進化し、ペニシリンに抵抗性を持つようになります。
 
 
 そこで研究者は、次にペニシリダーゼで分解されにくい抗生物質メチシリンを開発しました。メチシリンは細菌が作るペニシリダーゼが効かず、その細菌の増殖を抑えることができるようになりました。ですが細菌はこのメチシリンにも抵抗性を持つようになりました。こうしてヒトと抗生物質耐性の細菌との戦いが始まったわけです。
 
 
メチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)の出現
 このメチシリンに抵抗性をもつ細菌で有名なものにメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)があります。ニュースにもなったことがありますが、院内感染を引き起こす原因菌の1つです。さらに研究者は、この状況を克服するためにさらに抗生物質を探索し、バンコマイシンが有効であることを発見しました。
 
 このバンコマイシンは、ペニシリンと同じように細胞壁の合成を阻害することで病原菌を抑えるのですが、ペニシリンとは少し仕組みが違っています。ペニシリンは細胞壁を合成する酵素に結合して阻害しますが、バンコマイシンは細胞壁のパーツに結合して細胞壁の合成を抑えてしまいます。またバンコマイシンは、ペニシリンが効かない細菌以外にも様々な細菌にも効力があることから、発見当時は最強の抗生物質として知られていました。
 
 ですが、これも細菌は克服してしまいます。バンコマイシン抵抗性細菌の登場です。今度は、バンコマイシンを分解する酵素を作るのでなく、細胞壁の構成成分を変化させ、バンコマイシンが結合できないように進化を遂げてしまいました。これはまだ実験室レベルでの話ですが、バンコマイシンを使いすぎると必ず院内感染が起きてしまうと予測されていて、こうしたことを避けるために適切な使用量を守っていくことが必要だと考えられています。
 
 
微生物は勝ち続けるのか
 このように微生物が作る抗生物質やその構造を基に研究者が化学合成で開発した抗生物質を用いて他の微生物を抑えてきました。しかし、抗生物質に攻撃される微生物はすぐに耐性化しようと進化を遂げ、微生物自身の生存をかけヒトと戦いを挑んできます。研究者は、さらに次の新しい抗生物質を新たに探索することや開発をしますが、また耐性菌が発生してしまう、つまり細菌と研究者とのイタチごっこがこれから永遠に繰り返されることでしょう。
 
 新しい抗生物質を作るのも、そしてその抗生物質で抑えようとする菌が耐性をもつことも、微生物がやってのけているわけです。ここに微生物には不可能がないという能力の一部が垣間見えます。これに負けじと研究者はあらん限りの能力を使い、微生物は未知の力があると信じて今日も研究に取り組んでいます。
 
 
おわりに
 研究というものには、ペニシリンのように突然に何気ない観察から大発見に発展する可能性があります。私が現在取り組んでいる研究分野でもこのようなことが実際にありました。これを読んでいただく読者の皆さんが、正しい微生物の知識と微生物のもつ無限の力、そして生命の生存(生き残り)への執着心を感じ取ってくれれば幸いです。皆さんがそういったことから科学に興味を持ち、研究者への道に進んでくださることを切に願っております。
 
平成22年7月25日
著作者 森本 兼司(けんじ)
香川大学 研究推進機構
希少糖研究センター
 
 
 

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