第78話
 鏡の国の光子さん 〜鏡の不思議〜
 

 
「主な対象読者」
 あまり年齢には関係なく、身近にある事象に素朴な疑問や好奇心などの探究心をもてる人を主な読者対象に考えました。
 
「原稿執筆の目的」
 鏡に映った自分の姿を見たときに、裏表が逆になっていると認識する人はいないと思う。版画の原板やハンコを見ると、表裏が逆になっていると認識することはあっても、左右が逆になっているとは認識しない。鏡と版画で一体何が違うのでしょうか。
 鏡に映った自分の姿は、左右逆で、上下逆にならないのはなぜかという質問を大人から受けると、そんなの自分で考えろとつっぱねてしまう。あまりむげに断ってばかりいるのも問題だし、いつまでもつきまとわれるのも面倒だから、とりあえず書いておいて、「ここを見ろ」ということにしたいと考えたのが、この原稿執筆の主な理由です。
 
本 文 目 次
 1.はじめに
 2.光と影
 4.左右が逆?
 5.裏と表
 7.おわりに
 
著者 坂田 明治
 

 
 
第78話 鏡の国の光子さん 〜鏡の不思議〜
 
1.はじめに
 よく、「鏡に映った自分の姿は、左右逆で、上下逆にならないのはなぜか」という質問をする子供が多いと大人から聞きます。かなり昔からある問題ですが、本当に子供がそういう質問をしているのでしょうか。大人が勝手にいっているんじゃないかな。(朝永振一郎が散髪屋で、鏡に映った自分の姿を見て、「はて、左右が入れ替わっているのに上下は入れ替わってないなぁ」とかいったという話を聞いたことがあります)
 
 それで、大人からこのような質問を受けると「そんなの自分で考えろ」とつっぱねていました(満足のいく解答ができないから)。しかしまあ、そうはいっても、あまりむげに断ってばかりいるのも問題だし、いつまでもつきまとわれるのも面倒だから、とりあえず書いておいて、「ここを見ろ」ということにしました。これが今回の原稿執筆の理由です。
 
 やれるだけのことはやるとしても、上に書いたように完全なものではありません。理論的に進む部分ばかりではなく、結局は人間の感覚に頼っている部分があり、この部分が問題です。読者の内の誰かが将来解決してくれることを期待します。
 
 またいつものことですが、他と同じようなことを書いても面白くありません。こちらはこちらで、好き勝手なやり方で説明をします。あっちこっち寄り道しますし(この原稿でもっとも重要な部分です)、かなりいい加減な部分もあります。うまくいったかどうかは読者の判断に任せます。
 
 
2.光と影
 光と影と言えば、日本アニメの定番です。大体が、主人公は正義の味方で「光」、そして主人公と同じような能力を持った悪役が「影」として出てきます。この「影」の方は「光」の引き立て役のはずなのですが、「影」の方に人気が出てしまうケースも多々あるようです。興味深いことに、「影」の方が最初に自分の能力に目覚め、「光」の方は「影」の影響を受けて後から、それも最終回近くになって自分の能力に目覚めるというふうにストーリーが展開していきます。
 
 人間の目は、光を捉(とら)えてものを見ます。ですから、最初から「光」を利用していたといえるでしょう。しかし、意識的に利用したのは「影」の方が先です。
 
 我々の先輩(せんぱい)方(祖先といった方がいいかも知れません)は、自分や大切な人などの容姿(ようし)をとどめておきたいと思っていました。理由は色々あるでしょう。いつも大切な人のそばにいたいとの思いなどです。別に権力者(けんりょくしゃ)でなくとも、自分の姿を後世に残したいという思いもあったでしょう。
 
 それではどうすればいいか。簡単な答えは、画家に肖像画(しょうぞうが)を描いてもらうことです。しかし、問題があります。過去においても、現在同様豊かではありませんでした。画家に肖像画を描いてもらうには大変な費用がかかります。当然ほとんどの人は手が出ません。一部の金持ちや権力者でなくては無理です。確かに、金持ちや権力者の肖像画ばかり残っていますよね。
 
 そこで利用されたのが「影」です。「シルエット」と言えば解るでしょうか。
 
 
 シルエットの作り方は図2にある通りです。ろうそくの光(鏡を利用して明るさを増します)を利用し、その人の特徴が最も出るような影が作られ、その影の輪郭(りんかく)に沿って筆で描いて、切り抜かれ、最後に白い紙にのり付けされます。こうして作られたシルエットは、おどろくほど実物とよく似ていることがあります。しかも、かなり安くあがります。
 
 この、シルエットが非常に良く実物に似ているという特徴は、一部の画家の間で興味を引き、しだいに一つの分野を作りだしていきました。
 
 やがて写真が発明され、値段も下がってくると、写真が肖像として使われるようになりました。しかしながら、肖像画やシルエットが写真によって駆逐(くちく)されたりはしていません。現実に今も残っています。
 
 写真はもちろん「光」を利用しています。この利用ができるようになるまで、科学や技術の発達が必要でした。そして、人は「光」を直接扱えないなら、光のないこと、つまり「影」を利用して目的を果たしたというのは面白いですね。
 
 
3.鏡のことをよく知らない
 説明はこの後に書きますが、鏡は光をきれいに反射するものです。しかし、我々は鏡のことをよく知りません。この話の前に、目のことを知っておく必要があります。
 
 
 目で見えるということは、物体の表面ではね返された光を目で捉えるということです。ここで、光をあらゆる方向に反射する場合を「散乱」と言います。読んで字のごとく、光をあっちこっちに散らしているという意味ですね。また、このような面を「つや消し面」とも呼びます。一方、光をきれいに反射している場合を「つや出し面」と呼びます。もちろん、鏡はつや出し面の一種です。(ちゃんと書くと解りにくくなるので、ここでは、散乱も吸収もせずに全反射(全部反射していること)しているものを「きれいに反射」と書くことにします)
 
 少し難しくなりますが、光には波長というものがあって、特定の波長の光を反射し、その他の波長の光を吸収すると、我々の脳はその反射された光の波長を目で捉えて色を付けます。図3のひょうたんみたいなものの色と光線の色を見て考えてください。なお、光の波長と色については「第37話 光や音の話に説明がありますので、興味のある方はご覧ください。
 
 そして、鏡は我々の認識できる全ての波長の光(可視光線という。要するに見える光ということ)をきれいに反射するものです。
 
 ここで、光を散乱も吸収もせず、そのまま通してしまうとどうなるでしょうか。
 
 
 図4にあるように物体があってもなくても目に入ってくる光は同じです。ということは、その物体があるかないかは目を通して判定できないことになります。つまり見えません。透明ということですね。(半透明については自分で考えましょう)
 
 では、光をそのまま通してしまうのとは逆に、光を全てきれいに反射してしまったらどうなるでしょうか。つまり、「鏡そのものがどう見えるか」ということです。大概の人は鏡そのものを見えると信じているみたいですが。
 
 鏡を見てみましょう。鏡に映った自分の顔など、鏡に映ったものが見えます。どんなにながめなおしても、鏡に映っているものは見えても鏡そのものは見えません。もちろん鏡のふちは見えますけど。
 
 
 どうして鏡そのものを見ることができないのでしょうか。図5を見てみると、鏡で光がきれいに反射されてしまうということは、鏡の奥の方から、点線で書いた矢印のように光がきているのと同じになります。その光は、あたかも何事もなかったかのように、そのまま実線で書いた矢印のように進みます。つまり、鏡なんかないも同然のように振舞(ふるま)われるわけです。ないものは見えませんから、鏡そのものは見えないということになります。
 
 鏡そのものは見えず、鏡に映ったものだけが見えるという事実は、色々と応用できます。手品や特撮でよく使われていますよ。映画などで、美女が、腹に穴が空いても生きているというような場面を見たことのある人もいるでしょう。そういうトリックとして使われます。色々ごまかされるということは、よく知らないということを利用しているので、結局、我々は鏡のことをよく知らないということになりましょうか。
 
 それにしても、透明なものが見えないのは当然としても、それとは全く逆の性質を持っている鏡そのものまで見えないというのは面白いですね。
 
 
4.左右が逆?
 いよいよ、本題の左右が逆に見えるという話に入ります。(鏡を持ってきて、自分の顔を見ながら読むといいです)
 
 
 図6をよく見てみましょう。確かに、実物の人が左手を上げているのに、鏡に映った人は右手を上げていて、左右が逆になっているように見えます。その他に何か気づきませんか。
 
 そう、上下は入れ替わっていませんね。つまり、本稿の最初の問題にある状況になっています。更によく見てみましょう。実物の人は鏡の方を向いているのに、鏡に映った人は、こっちを向いています。向いている向きが逆です。
 
 色々と考え直してみましょう。鏡は光をきれいに反射するものです(ただそれだけのもの)。ということは、この性質から説明がつかなくてはならないはずです。
 
 
 図7は鏡に対して垂直に入った光(図中赤の矢印)と、鏡で反射されて出てくる光(図中青の矢印)を描いたものです。両者の光は進行方向が全く逆です。
 
 光線が逆行していることから、鏡の方を向いている人を鏡に映すと、鏡の中からこっちを向いているように見えるというのは納得できます。
 
 では、向いている向きが関係ないものを鏡に映したらどうなるでしょうか。丁度、第2章で扱ったシルエットは、物体の輪郭(りんかく)情報(じょうほう)だけで、どっちを向いていようと関係ありません。
 
 
 図8を見れば明らかですが、シルエットを鏡に映すと、上下左右いずれも全く入れ替わりません。全く同じです。
 
 ということから、上下が入れ替わらず、左右が逆というのは間違いで、鏡の方向への向き(前後)が入れ替わっているということになります。
 
 しかし、これで全て解決というわけではありません。ではなぜ、「前後が入れ替わると上下は入れ替わらず、左右が入れ替わったように見えるのか」という疑問が残ります。
 
 まず、色々な状況、つまり、鏡を色々な方向に向けるか、あるいは、同じことになりますが、鏡に映すものを色々な方向に置きなおしてみましょう。
 
 
 図9は横を向いている状況です。この際に、全体を見ると、上下も左右も入れ替わったようには見えません。しかし、人を見ると右手と左手が入れ替わったように見えます。実物の人から見れば、上が左で、下が右です。それでも、鏡に映った人は、上が右で、下が左で、上下は入れ替わらず、左右だけ入れ替わっているように見えます。なにか矛盾した状況のような感じですね。どうやら鏡の面を元に考えているのではなく、人を中心に考えているようです。
 
 
 図10は逆立ちしている状況です。この状況でも、上下は入れ替わったようには見えませんが、右手と左手が入れ替わっているように見えます。ここでもやはり、上下は入れ替わらず、左右が入れ替わったように見えます。
 
 
 図11は鏡に足を向けて横になった状況です。鏡が前後の向き(人の向いている方向)を反転(はんてん)するということがよく解ります。しかし、この場合でも右手と左手が入れ替わっているように見えます。また、このような場合の応用として、鏡を床に置いたり、天井に貼り付けたりして眺めると(もっと簡単に、手で鏡を自分の頭の上に持っていって眺める)、上下が入れ替わっているように見え、その代わりに人の前後の向きが入れ替わっているようには見えません。これは上下を鏡の奥行き方向へ持っていったため、上下と前後そのものが入れ替わったためです。やはりここでも、鏡の面を元に考えているのではなく、人を中心に考えています。
 
 結局、色々な状況で見ると、上下は入れ替わらず(上下と前後そのものを入れ替えてしまう場合もありますので、その場合は読み替えます)、左右が入れ替わるように見えます。なお、色々なものを鏡に映してみれば解りますが、左右非対称なものを映しても左右が入れ替わって見えます。つまり、人間の体がほぼ左右対称(さゆうたいしょう)だからとかいうこととは関係ありません。
 
 
5.裏と表
 前章でやりましたが、シルエットを鏡に映しても上下左右いずれも全く入れ替わりません。シルエットの本質は輪郭(りんかく)ですから、輪郭情報は全く変わらないということになります。とすると、輪郭の中にある面で左右が入れ替わっているように見えるということになりますね。
 
 鏡は前後を逆にしますから、考察(こうさつ)を続けていくためには、方向と面と間の情報を何らかの形で結合する必要があります。こう書くとなんか難しそうですが、既に、身の回りに都合のいい道具を持っています。
 
 
 ねじを考えてみましょう。ねじは、みぞの刻まれた円形の部分(大抵は+か−のみぞ)を回すと進みます。図12は「右ねじ」と呼ばれているもので、時計回りに回すと、図の矢印の方向に進みます。これとは逆に反時計回りに回すと進むものもあり、そちらは「左ねじ」と呼ばれています。
 
 「右ねじ」を簡略(概念化 がいねんか)にしましょう。図12の下に書いてあるように、円周に矢印(円周の回る向き)を描き、この矢印の方向に回転したときに、円板の進む向きを示した矢印を描き込んだものが右ねじとなります。「左ねじ」も同様です。
 
 
 「右ねじ」を鏡に映すと図13のように、「左ねじ」になります。今までは「・・・のように見える」というものばかりでしたが、ここで初めて本当に右と左が逆になっているものが出てきました。右と左の意味に少々疑問は残りますが、ねじという物体ではなく、それを概念化したものについて入れ替わっている点が重要です。(つまり理論的ということ)
 
 ねじを使えば、面に裏表を考えることができます。右ねじでも、左ねじでもどちらを基準にしても同様なので、ここでは右ねじを基準にしましょう。つまり、右ねじの進む矢印の方向を「表」、その反対側が「裏」ということです。
 
 もちろん、右ねじの進む矢印の方向を「表」とすれば、左ねじの進む矢印の方向は「裏」となります。これは簡単なので、実際に絵を描いてみてください。ねじの皿に裏表をつけている様子が解ると思います。
 
 
 図14は、平面と球面について、右ねじの皿の部分を面上に密着させて動かしたものです。ここで、「球面に円板なんて密着させられないじゃないか」と思うでしょうが、ねじの皿はゴムみたいなものでできていて変形できると解釈してください。実際にやってみれば解りますが、ガラス板みたいなものの上で右ねじの皿を板に密着させてどのように動かしても、ねじの進む方向を示す矢印の向きは変わりません。
 
 また、球面(きゅうめん)の方はというと、ボールなどの表面にねじの皿を密着させてどのように動かしても、ねじの進む方向を示す矢印の向きは、ボールの外側を向いており、決して中心方向に向かせることはできません。
 
 この事実を利用して、面に裏表を付けることができます。右ねじの皿を面に密着させてどのように動かしても、決してねじの進む向きを示す矢印を逆向きにすることができないときに、その右ねじの進む向きの方を「表」反対側を「裏」とすればよいことになります。(図14で矢印のある側が表、ない側が裏です)
 
 書いてあることが解りにくいかも知れません。こういうときは、裏表のない面で様子を見てみると案外解ったりします。
 
 
 メビウスの帯は裏表のないことで有名です。メビウスの帯で、右ねじの皿を面に密着させて一周すると、図15のようにねじの進む向きを示す矢印が反対向きになります(面に厚みがないことに注意しましょう。実際に紙で作るときは厚みがありますので、一周してもとの位置というのは紙を透かしてみなければなりません)。確かに、ねじの進む向きを示す矢印が逆向きになっていますね。
 
 
 前に書いたように、鏡に映すと、右ねじが左ねじに入れ替わりますので、図14の手前で書いたことから、「鏡に映すと裏表が入れ替わる」ということが解ります。
 
 だんだん鏡に映すとどうなっているのかが解ってきました。念のためにまとめておきましょう。第1点は、シルエットを鏡に映したときのように、鏡は輪郭を全く変えないということです(図8)。第2点は、鏡に映すと裏表が入れ替わるということです(図16)。この二点が重要です。
 
 では、裏表を逆にするなら、裏表のないものを映すとどうなるでしょうか。メビウスの帯を鏡に映して自分で考えてみましょう。
 
 
6.視覚と運動機能
 まず、人間の感覚について考えましょう。
 
 
 鏡は我々の視覚(しかく)と運動機能の関係を乱します。これは、簡単な実験で確かめられます。目の前に鏡を置いて手元が映るようにします。そして、鏡に映った手元を見ながら文字を書いてみてください。まず、まともに文字なんか書けません。文字でなくとも四角形など、もっと簡単なものでも書けません。むしろ目をつぶってしまった方がきちんとかけるでしょう。
 
 訓練すれば、鏡に映った手元を見てある程度書けるようになるそうです。してみると、我々の視覚と運動機能は、本能か学習によるかは別として、長い時間をかけて関連付けてきたものと考えられます。
 
 次に、左右が逆かどうかは比較対照となるものがないと解りません。
 
 
 図18を見ただけでは、左右が逆かどうかなんて解りません。元になるものと比較してはじめて左右が逆かどうかを判定できます。図16やその前に色々出ている図を見てみましょう。左右が逆かどうかを考える上で、実体となるものが描かれていますね。
 
 ついでに書いておくと、鏡があることが解っていなければ、そもそも鏡に映ったものか実体かどうかも解りません。第3章で書いたように、鏡そのものは見えませんので、鏡のふちでも見えないかぎり、鏡の存在を知る方法すらありません。
 
 さて、鏡に映ったものが左右逆になっているように見えるかどうかということは、脳が判定していると思われる証拠があります(図9、11の説明。また、図19以降の説明)。
 
 既に、前章までの考察から、鏡は裏表を逆にするだけということが解っています。
 
 
 図19はあえて第3の観測者(かんそくしゃ)を置いたものです。この観測者から見れば、左右が逆ではなく、裏表が逆になっているように見えます。図19をよく見てください。観測者には、実物の人の後ろ姿しか見えません。鏡に映った姿は、前から見た姿として見えます。従って、観測者には裏表を入れ替えたものとして見えます。
 
 ここまで来て、観測者には裏表が逆に見えると説明しましたが、既に、図6を見て、このモニターを見ているあなたが観測者になっていると気づいていたでしょうか。気づかなかった人も多いと思います。それは視点が実物の人になっていたからです。今の説明を読まれた方は、裏表が逆になっているように見えたり、また、左右が逆になっているように見えたりすると思います。しかし、モニターに映っているものは何も変わっていません。このことから、最終的にどう見えるかは、我々の脳が判定していると考えてよいでしょう。
 
 奇術師(きじゅつし)は、見ている人の注意が奇術のタネに向かないようにうまくやっています。一流の奇術師になると手品のタネが堂々と観衆の前に置かれていても、それに気づかせないということを聞きます。我々の脳の判定方法をよく知っているのですね。
 
 
 我々の脳がどのような機構で判定しているのかは解りません。ですが、かなり優秀な判定機構を持っているものと思われます。図20のように同じ人を色々な方向に向けても同一と判定します。更に、空間内を色々動かしてできるものは同じものと判定できます。そればかりか、多少変形を加えても、やはり同一と判定したりします。知り合いが太ったり、やせたりしてもやはり同じ人と判定していますよね。
 
 今までのことから、左右が逆に見えるというのは、脳の判定機構の問題となってきました。ですが、脳のことはよく知りません。従って、満足のいく解答は無理です(第1章で満足のいく答えができないと書いていたのはこの理由からです)。しかし、不充分であってもやれるだけのことはやってみました。
 
 
 ここで人間の脳がひねくれているという例をひとつ。
 
 今までの考察から、シルエットを鏡に映しても、上下左右全く変わりません。こう書くと、すぐに図21のようなものを考えて反論する人がいます。鏡が前後方向を逆にするということをうまく利用しています。つまり、鏡の面に対する左右を前後に入れ替えて、前後が逆になっていることを左右が逆になっていると読み替えています。我々の脳が主体を鏡ではなく、シルエットの方にとって判定しているということがよく解りますね。やはり、左右が逆に見えるというのは、脳の判定機構の問題のようです。
 
 
 なお、シルエットは輪郭情報だけですので面ではありません。便宜上(べんぎじょう)黒く塗ってあるだけです。輪郭情報だけということは、シルエットの人がどっちを向いているのかが解らないということです。つまり、上げている方の手が右手なのか左手なのかが解りません。また、図22のように軸の回りの回転によって重ね合わせることができます。重ね合わせられるということから、同じものと考えられるはずです(図20の説明)。しかし、それでも左右が逆になっているように見えます。いったい、脳はどのように判定しているのでしょうか。全く解りません。
 
 
 図23は、ごく普通に左右が逆になっているように見える状況の判定を考えてみたものです(視点は図中の実物の人)。我々は脳の中に自分の姿を持っていますので(美化されていたりしますが)、それを書き加えてあります。今までの考察で、状況にもよりますが、シルエットを鏡に映しても、上下左右全く変わりません。変わるのは裏表が入れ替わるだけです。そして、裏表が入れ替わっているため、空間内でどのように動かしても、脳の中にある自分の姿とは重なり合いません。恐らく、鏡に映った自分と一番近いものは、図23の「脳にある姿」として描いた状況だと思います。(どのように、何がもっとも近いかという判定をしているのかも解りません)
 
 この状況で、我々の脳は、裏表が入れ替わっていると判定できず、混乱し、その結果、上下は入れ替わってないが、左右が逆になっているという判定を下しているのだろうと思います。
 
 
7.おわりに
 理論的に進められる部分(5章まで)は、説明の良し悪しはあるとしても、まあ、誰でも説明できるものです。しかし、そこから先は、脳の判定機構という難題にぶつかってしまいます。鏡に映った自分の姿が、上下は入れ替わらないのに、左右が逆になっているように見えるという問題は昔からあり、しかもまだ完全な回答ができていないというのはこのためかと思われます。
 
 脳の判定機構というのは、どうなっているのかさっぱり解りません。同じものを見ても、人それぞれに捉え方が違うというのはなぜでしょう。更に、だまし絵や錯視などでなくとも、何らかの情報を得ると、同じものが違って見えるというのは一体何なんでしょう。
 
 鏡に映った自分の姿を見たときに、第一観で「裏表が逆になっている」と認識する人はいないと思います。例え、頭では「裏表が逆になっている」と知っていても。
 
 しかし、版画(はんが)の原板やハンコを見ると、表裏が逆になっていると認識することはあっても、左右が逆になっているとは認識しません。鏡と版画で一体何が違うのでしょうか。
 
 考えれば考えるほど謎が深まってきます。本稿は、理科好き子供の広場の原稿としては珍しく、完全な回答ができず、より難しい問題にしただけというものです。しかし、謎が深まるというのは、それだけ進歩してきていることでしょうから、まあいいのではないかと思います。
 
 今回は、解らないということが解っただけです。それでも思考訓練としては意味があると思いますが、はたして、みなさんはどうお考えでしょうか。
 
平成21年10月24日
著作者 坂田 明治(あきはる)
 

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