158.大学生の学力と「罪と罰」.9-11-99.
「大学院入学資格の弾力化に係わる大学院入学者選抜について」では、大学院が科学技術の進展や社会経済の変化に対応し、研究者及び高度専門職業人の養成に果たす役割に鑑み、高等専門学校・短期大学の卒業者、専修学校・各種学校の卒業者、外国大学日本分校、外国人学校の卒業者などの大学を卒業しいてなて者であっても研究能力を有する者については、個々人の能力に着目して大学院に進学させる道を開くので、大学院入学者選抜の円滑な実施にご配慮いただくようお願いしますとあります。この内容は、少し大袈裟に表現すると、無差別に大学院に入学を許可しても文部省としては文句を言いませんよとなるのかも知れません。 「学校教育法施行規則改正」では、早期卒業の要件に関する項目として「いわゆる3年で卒業できる」としています。大学の学部の教育は、3年間で終了し卒業させても良いと言うことになります。これより以前に、大学院の修士課程は1年間で博士課程に進学させても良く、博士課程は2年間で修了させても良いとの通達も来ています。成績の良い学生であれば、学部教育は4年間のところを3年間で、2年間の修士課程は1年で、3年間の博士課程は2年で、合計9年間の予定を6年間で終了し、博士号を授与することも可能になっているのです。また「大学設置基準改正」では、学生の履修科目登録単位数の上限設定に関する項目で「学生が1年間又は1学期に履修科目として登録できる単位数の上限を定めるよう努めなければならないものとする」とし、あまり多くの科目を履修させるなとの意味であります。また新聞には、「勉強しない学生には試験を難しくして簡単に単位を認定するな」と大学審議会が文部省に答申したとの記事が掲載されていました。 「入学条件は低くし、修業年限は短縮しても良いが、多くの科目は履修させず、卒業は厳しくしなさい」ということになりそうです。
A.大学生の学力低下. 大学生の学力低下が大学内で問題になっているのみならず社会的にも話題となっていることから、大学審議会や文部省は上に書いたような改革や答申を次々と出さざるを得ない社会的な背景となっているのだと思います。 大学生の多くは、あまり欲や夢および的確な目標がなく、ものこどを簡単に諦めてしまう傾向があることは、確かだと私も感じています。「あまり勉強しない大学生を卒業させるな」と言いますが、簡単には解決できないと思います。 各大学は、学生の入学定員と修業年限に応じた総定員を前もって定め、文部省からその数の学生を受け入れる許可を得ています。しかし、何かの計算違いで30%を超えた学生を入学させてしまう、または休学や留年などの理由で在学生総数が総定員の30%を超えてしまうと、文部省からオシカリを受けます。必ずある数の学生を卒業させないと、ある数の学生を入学させられなくなってしまうのです。入学定員をまもらせるのは、金儲け主義で無責任な大学を排除することにあると思われます。しかし、収容できるのであれば、フランスの大学のように何人でも入学させても良いが、卒業定員を定め守らせる方が学生には厳しいが、進級や卒業するためには勉強するようになると思います。少子化の影響で入学定員の学生数を確保するのが難しい大学や短期大学が増え出しました。背に腹は代えられないのですから、私立大学では無理してでも定員の確保に勉めるようになると思います。学生に入学して貰うのですから、今後ますます学生を粗末には扱えなくなるかも知れません。 大学生が勉強しないのは、ある商品がどうしても売れないのと同じ原則と考えられます。質が良くて安い商品が売れない筈がありません。売れないのは、購買意欲を起こさせない何らかの理由があると思います。大学生が授業という商品を買わないのは、商品である講義の内容が理解できない、興味をもてない、面白くない、面白さを解らせてくれない等から真面目に出席や受講しないか、出席しても隣の学生と無駄話をしてしまうのだと私は考えています。誰が講義しても面白さを解らせるのが難しい教科目もあることでしょう。 大学で行う入学者の選抜方法が適切でないからと結論してしまえばそれまでなのですが、高等学校で例えば、生物学を履修してない学生が生物系の学部・学科に入学して来ますから、入学後に基礎科目としての生物学が理解できない学生が本当に多いのも現実なのです。本来総べての教科が学生にとって無味乾燥であるとは信じがたいのです。 大学生の学力低下の原因は、高等学校までの教育の結果が主であり、次に大学の教員の質の問題が従として存在するのではないかと私は考えています。大学の教員が大学生の学力低下を招いた主犯であるとは思えません。
B.ドストエフスキーの『罪と罰』. 『細菌対策講座』とい課題の夏休みの自由研究を実施した中学生の宮後絢音さんを「109 子供たちの自由研究」で昨年紹介しました。この紹介文を読んだ読者からの反響は大変でした。今年は高校1年生になった宮後絢音さんをまた紹介します。彼女は、今年の夏休みは理科の研究は行わず、好きな作家である太宰治の人間失格をはじめ多くの本を読みとおす読書三昧の夏休みを愉しく過ごし、自由研究として読後の感想文を学校に提出したようです。 宮後絢音さんは、中学3年生の時に『細菌対策講座』とい微生物の研究を展開したのですが、それと平行して多くの書籍を読みふけり、それらの読んだ本については自分なりの読後の感想を記録していたようです。私が個人的に太宰治の人間失格にはあまり興味がないので、昨年読んだと本人が言う「ドストエフスキーの罪と罰」の感想文を読ませてくれるように彼女に頼んでみました。中学3年の夏休みの時に書いた感想文を、無修正でそのまま以下に転載します。取り敢えず、中学生の文章をお読みください。本人の許可を得てあります。
「罪と罰」を読んで 三年二組 宮後 絢音 "miyajiri" <miya1@venus.dti.ne.jp>
「一人を殺せば犯罪者だが、数百万人を虐殺すれば英雄である」―チャップリンの映画『殺人狂時代』の中でのこの台詞は、さすがに今では通用しないが、ベトナム戦争前後までは立派に実証されていた。この物語の主人公、ラスコーリニコフも、この言葉を裏付けようと試みた一人であった。 彼は考えた。「自分は法律でさえも踏み越える事のできる選ばれた少数者の内の一人なのだろうか、それとも単に服従するのみの群衆なのだろうか。いや、自分は選ばれた者である。『英雄』たるべく生まれた者なのだ。」 彼のもったいわゆる選民思想は、二十世紀前半の世界に嵐を巻き起こした。歴史上にいう第二次世界大戦である。我が国日本もそれに侵された国のうちの一つであった。「神州不滅」―その言葉の果てに見たものは、焼け爛れた死骸に埋め尽くされた焦土である。また極端な選民思想でもってユダヤ人を大量に虐殺した、かのヒトラーは自ら命を絶つ羽目になった。結局古今東西を通じて選民思想というものが栄えた試しはない。 彼がその選民思想を拠り所として犯した犯罪。それは金貸しの老婆とその妹の頭を斧で打ち割って殺した事である。金に窮していたラスコーリニコフは、かねてから悪感情を抱いていた金貸しの老婆を『英雄としての所業をなす為』に殺す事を計画した。しかし、彼は予定外にその妹をも殺してしまった。彼女の断末魔の表情は、彼が罪の意識にさいなまれる原因となっていく。 しかし、彼がその時苦しんでいたのは罪悪感のためではない、と私は思った。彼の持っていた秘密の重荷を少しでもおろしたいという、その欲求にさいなまれていただけだ。彼はまだ自分が『英雄』となることを信じて疑わなかった。そして自分の犯した犯罪は、その『偉業』を成し遂げる過程での、ただの小さな汚点であると思っていたのだ。自分は『選ばれた人間なのだ』・・・『特別なのだ』と。 『選ばれた人間』―今でも少数の人々はその思想にとらわれているように思う。『自分は特別なのだ』と思うことによって優越感を得、自己満足に浸り、そして彼らの思うところの『普通の人間』を嘲笑う。『その他大勢』と自分は違うんだという『自信』に基づいて。 しかし、私はその考えに疑問を抱かせられる。『自分は特別なんだ』と自分で信じこむことによってしか成り立たない『自信』。なんと脆く崩れやすいことか。毎日普通に、真面目に生活している人たちを『群衆』とみなし軽蔑していたラスコーリニコフは、その『普通の人たち』と同じように暮らしていけたとでもいうのか。いや、それができなかったからこそ、彼は罪を犯したのだと思う。 そんな彼の前に、一人の『聖女』が現れる。ソーニャという一人の娼婦である。彼女は徹底した自己犠牲精神と慈愛の心を持っていた。その敬虔さに、ラスコーリニコフは徹底して侮蔑の態度で接する。彼女に罪を打ち明けた後も、そして自らを法の手に委ねた後も…。それでもソーニャは彼を救おうと懸命な努力を続けた。彼女は彼を何から救おうと思ったのだろうか。罪の意識からか?それとも彼自信のその傲慢な思想からであろうか。私はその両方からであると思う。ソーニャはラスコーリニコフを救いたかったのだ。ソーニャはクリスチャンである。「神の愛は平等に何人にも注がれる…。」彼女はそう信じている事であろう。選ばれた人間など存在しないのだ。聖人も犯罪者も誰しもが等しく生きる権利を持ち、それは誰にも侵す事などできない。それはキリスト教の思想をこえて、今の私たちにも必要な考えであると思う。 人は弱い生き物なのだと思う。『自分は特別なんだ』ーそんな風に自分を保とうとしてみたり、他人を侮蔑してみたりする。しかし、そのような思想の『罪』は、他人を傷つけ、あまつさえその命さえ奪ってしまう。そしてその『罰』は、冷たく、恐ろしく、やるせないものとなり、自分の心を蝕む。しかし、結末でのラスコーリニコフはその『罰』に耐える事ができると、私は思う。彼を無償の『愛』が支えているからである。たった七年―その年月がなんであろう。彼が得た物の尊さに比べれば。 ラスコーリニコフはソーニャの献身的な愛によって目覚めた。自分という人間の本来の価値。愛される事で確認された、自分の居場所の発見。そして、何よりも生きる目的。それらを得たからであろう。 人間は全て等しく生きる価値があり、生きる意味がある。それは自分と他の人との関わりの中で見えてくる。この話を通して、私は強くそれを感じさせられた。 以上(原文のまま)
C.さいど大学生の学力不足を考える. 上に記した文書を読み終えた後、私は宮後絢音さんにメールを送りました。難しいドストエフスキーの罪と罰を熟読して、「絢音さんの考え方、生き方や目標など、何でも良いのですが、なにか体得した事、新発見または以前の自分と変ったことなどがありませんでしょうか。どんに些細なことでも良いのですが、それを教えてくださいませんか」と少し難しい要求を書き送りました。 数日後、メールが届きました。私の無理強いに対する宮後絢音さんからの回答ととれる文章を無修正でここに転載します。高校1年生の言葉です。 【自分と誰かとの差違でもって、『自分は優れているのだ』という妄想を持ってはいけない。さらにいえば、多数派の数を頼みに少数派を敵視したり、ましてや疎外してはいけないと思う。 人種、宗教、民族。人間にはいろいろな違いが存在するが、それに優劣はないのだ。人に人を害する権利はない。誰かの命は重く、誰かの命が軽いなどということはないのである。 しかし、今なお人が人を害し傷つけ続けている。しかもそれが肯定される場面がある。戦場で、権力によって、世論によって・・・・・・。犯罪被害者の顔写真は新聞報道の一面を大きく飾り、遺族はマスコミに追われ、その一方で加害者である少年の顔写真を写真誌が掲載すると少年法違反と糾弾される。法に抵触するかどうかを議論する以前に、どこかおかしくないだろうか。そもそもどちらが守られるべき存在だろうか。よく考えてみると矛盾があるような気がするのだが。『国際正義』のための空爆で民間人を誤爆しても「その程度の犠牲は仕方がない」という国際機関の高官の言葉はどうだろうか。 報道の自由、犯罪者の権利、国際平和維持の義務。私は、それら全ての存在は当然だと思っている。しかし、その名分の元で傷ついている人がいると言いたいのである。大目的のための小さな犠牲は仕方がないのだろうか。それはおかしいし、私はその思想は危険を含むと思う。偉業を成し遂げるための小さな汚点・・・ラスコーリニコフは自分の犯罪をそうやって正当化したではないか。 やむをえず犠牲者が出る場合もある。全く犠牲者を出さずに理想を達成するのは無理なのかもしれない。だが、私たちにはその努力をする義務があり、不幸にも犠牲者が出てしまった場合にもそれを正当化してはいけない。真摯に受け止めなければいけない。仕方がないとか当然だとか思ってはいけないと思う。なぜなら、人に人を害する権利はないからである。もちろん人を裁くのは人である。罪人に罰を加えるのも人である。しかし、大義のための犠牲は許されるべき存在ではない、と私は感じる。 大義の達成は一人の『英雄』が為すべきことではない。万人の手によって為されるべきであることだと思う。それによって傷ついた人の事を決して忘れぬように。再び愚行を繰り返さぬように。】 以上(原文のまま) 生まれてこのかた新聞も読んだことがない大学生や大学院生が多い時勢になっています。周りの学生達も新聞や本を読んでいなから、新聞を読んだことがないことを少しも恥ずかしいとも思わないようです。就職活動をしている学生に「あなたにとって良い職とはなんですか」と質問すると、笑ってしまうような答えが返ってきます。自分の履歴書も満足に書けないのです。 ここまで読み進んで下さった、私にとって貴重な読者の方にお伺いしたいことがあります。中学3年生の読書力と作文力、と現在は高校1年生になっている宮後絢音さんの表現力について、どのように感じられましたか。ホームページに何事かを書いている私の日本語より余程日本語・文学的と思われませんでしょうか。 勉強しない若者だけではない、学生であった時の私よりも優秀な若者も大勢いるようです。このような若者達をダメニするのも立派に育てるのも我々の言語行動や思考と思います。この文書を読んだ感想、疑問、意見等を本人に伝えて下さると幸いに思います。彼女のメールアドレスは、上にも記しましたが、ここにあらためて書いておきます。
宮後 絢音 "miyajiri" <miya1@venus.dti.ne.jp> です。どうぞ宜しくお願いします。
「大学院への入学資格を弾力的に運用しなさい、大学は3年間の勉学で卒業させても結構です」と文部省は高等教育に関して改革を進めています。少子化傾向の結果、入学定員の確保が難しい短期大学や大学・学部が顕著になりだしました。優秀な学生に一人でも多く来てもらいたいと希望しているのは、全ての大学・学部が同じであると思います。しかし、経営的には一人でも定員が欠ける事態を避けることが法人経営の基本です。文部省の改革で「大学生が勉強してくれるような環境」になるのでしょうか。
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