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301. ペストに命をかけて闘った石神亨のその後10-21-2002.

北里柴三郎の助手としてペストの学術調査団員として香港に派遣され、不幸にもペストに罹り死線をさまよった石神亨が最愛の妻に認めた遺書を283.ペストと命をかけて闘った軍医石神亨」で紹介しました。これを読んだ方々から「石神亨という人物についてもう少し知りたい」という趣旨のメールを頂きました。これらの要望に応えるために少し調べました。石神亨は、幼名を初太郎といい、成人して後吉永家から石神家を継いだ、大変に立派なお人であったことが判りました。≪藤野恒三郎著「藤野・日本細菌学史」、近代出版、1984年4月30日発行≫と≪安井正孝著「石神亨とその周辺」、日本医事新報、No.3922、1999年6月26日≫などから知りえた石神亨の人物像について、その概略を抜粋して以下に紹介します。

医師石神亨の誕生.

石神亨は、安政4年(1857年)7月13日肥後国(熊本県)玉名郡山北村で吉永喜平の長男吉永初太郎として生まれた。11才で元服して学次郎と改名した。但し、亨と改名した経緯は調べられませんでした。明治4年(1871年)16才【西暦の年号と年齢とが合いませんが、昔は数え年で年齢を表現していた可能性がうかがえます】のとき鳩野宋巴という漢方医について医学を学びはじめたが、何かがきっかけとなって西洋医学のほうが実理に優れていると思うようになった。オランダ人医師マンスフェルト(北里柴三郎の恩師)が教鞭をとっていた熊本公立病院附属古城医学校でマンスフェルト、三浦校長や内藤病院長などに啓発された。明治9年(1876年)新設された熊本県立医学校に入学したが、明治10年(1877年)西南の役が起こり、臨時雇いの医官を命じられて従軍、傷病兵の治療にあたった。明治11年(1878年)熊本県南郷に南郷病院を開院し、外科手術を始めた。明治13年(1880年)に卵巣の手術を行い、これが国内で最初の開腹手術のようです。

海軍軍医総監高木兼寛との運命的な出逢い.

明治15年(1882年)27才の時もっと勉強をしたく意を決して上京した。明治16年(1883年)内科外科医術開業試験に合格し医術開業免許を取得したが、学資を預けていた人が事業の失敗から行方不明となり、学資が不足し勉学が続かなくなってしまった。仕方なく明治16年(1883年)海軍軍医の募集に応じ、東京勤務の希望を申しでたが横須賀海軍病院に不本意ながら勤務することに決まった。ここから石神亨の人生が大きく変わることになる。「偶然と必然」の運命的な時期を迎えた。

明治17年(1884年)のちに改称された東京慈恵病院で高木兼寛海軍軍医総監との出逢いがあり、高木兼寛から直接の指導をうけて、医術の研究に従事することができるようになった。翌年(1885年)父喜平が脳溢血で不幸にも亡くなった。海軍軍医総監の高木兼寛は、薩摩藩の出身で薩摩藩の蘭方医石神良策(後の名は豊民)の書生から身を立てた人である。なお高木兼寛については、「130.日清・日露戦争で勝利をもたらした暁の脚気菌」および「吉村昭著、白い航跡、講談社」をお読みください。

明治新政府が明治2年(1869年)に東京医学校を始めたときの取締(意味不明ですが校長先生?)は緒方惟準で、取締助(副校長?)が石神良策であった。緒方惟準が大阪医学校取締となったので、石神良策は東京医学校の取締となった。

幕府のおかかえ医師として来日し幕末の革命期には弾丸で負傷した兵士に外科手術を施した英国人医師ウイリスは、その後東京で不要となり帰国を考えていた。ちょうどその時ウイリスを鹿児島医学校へ招く斡旋をしたのが石神良策であった。のちに海軍軍医総監となり国内初の看護婦養成学校や現在の慈恵会医科大学を創立した高木兼寛は、ウイリスの教育を受けた鹿児島医学校の第一期生である。石神豊民は明治8年(1875年)に胃癌で亡くなったので、高木兼寛は石神のただ1人の遺児八重子(明治3年、鹿児島生まれ)を引き取り親代わりとなって養育していた。

ベルリンで北里柴三郎と面談.

北里柴三郎が国費留学生としてベルリンに到着した翌年の明治20年(1887年)32才になった吉永亨は、海軍少尉に昇進し、軍艦に乗りくみ8ヶ月間オーストラリアへの遠洋航海の一員として遠征した。幾つかの大都市を訪問し、またその際病院も視察した。その結果、オーストラリア文明と日本国内の精神的な文化・文明との違いにおおいに驚いた。全ての道徳の源は、神をおそれ敬い、人を愛する点に置き、修養に修養を重ね訓練に訓練を積み重ねているオーストラリアの人々をみて新しい文明におおいに感じるところがあった。これまで宗教には関心がなかった吉永亨は、今は亡き父親がよく神を拝んでいたことを思いだし、「あー、われ誤まれり」と悟ったようです。宗教は、愛であり、徳であり、実行であるとの確信が得られた。そこで、好きな酒を断ち、神に生涯を捧げようと決意したのです。

海軍に勤務して数年が経過した明治21年(1888年)33才のとき、海軍軍医総監の高木兼寛は、吉永亨を石神家の養子として入籍させ、海軍軍医部の創始者石神豊民の遺児八重子との結婚をすすめた。石神家を継いで改名した石神亨は、海軍軍医学校の教官、更には海軍大尉となった。結婚式の翌月明治21年10月に東京第一教会で夫婦そろってキリスト教の洗礼を受けた。八重子と亨には三男三女が生まれた。

明治24年(1891年)フランスに発注しツーロンで建造中の日本海軍の軍艦「巌島」を日本へ回航する一行に石神亨海軍大尉は任命され、フランスのツーロンに向けて出かけた。1ヶ月足らずの滞在期間中であったが、パリ、ベルリン、ロンドンなどのヨーロッパの大都市を視察する時間があった。ヨーロッパ各都市の衛生施設と先進国での伝染病学の進歩に目をまるくして驚いた。またこの時、熊本県出身で同じ熊本医学校で学びマンスフェルトに感化された先輩である北里柴三郎とベルリンのコッホ研究所で会う好機が訪れた。北里柴三郎が世界に先駆けて、破傷風菌の培養に成功し、破傷風菌は毒素を作ること、毒素を破壊する免疫抗体の存在を発見し、抗毒素抗体による血清療法を確立した直後であったため、世界の時の人である北里自身による熊本弁での伝染病学の説明には衝撃的な大きな感動と感激を覚えた。石神亨は北里柴三郎の非凡さに気がついたようである。この時、石神(1857年生まれ)と北里(1853年生まれ)が初対面であったのか、熊本医学校時代にマンスフェルトのもとで会っていたのかは調べられなかった。

明治25年(1892年)に帰国した北里柴三郎が福沢諭吉など民間人の支援を受けて伝染病研究所を設立するとの報道に接した石神亨海軍軍医大尉は、ただちに一年前にベルリンで会ったことのある北里柴三郎を訪問し、新しい伝染病研究所の北里所長の助手にしてくれるように願いでた。

幸いに北里の快諾が得られたので、海軍の方は「待命(休職?)」にしてもらった。明治25年(1892年)12月25日には喜びいさんで新築の伝染病研究所内へ移り住み、このとき正式に北里柴三郎の助手第一号となり、35才でした。

明治27年(1894年)の香港のペスト調査研究に出張する北里柴三郎の助手に石神亨は選ばれた。恐怖の伝染病「黒死病」の調査員として北里柴三郎から随行助手に指名されたことは、助手達からの抜擢であることから極めて名誉なことであったと思われます。ところが不幸にも石神助手と青山教授の二人はペストに罹り、死線をさまよった。結果としては奇跡的に一命をとりとめたが、そのとき最愛の妻八重子(二人の娘がいた)に死を覚悟して遺書を認めた。この遺書を283.ペストと命をかけて闘った軍医石神亨」として紹介したのでした。

日本に看護婦なる特殊な医療専門職を紹介し、国内最初の看護婦養成学校を東京に開き(同志社にも同年に看護婦養成学校が開かれた)、妻八重子の親代わりであり、吉永亨を石神家に入籍させたのは軍医総監の高木兼寛であった。石神亨が子供の1人は看護婦にしてくれと遺書に書き込んだのは、高木兼寛の影響であったと思われます。

香港から調査団一行が帰国したのち、日清戦争が勃発した。ペストから生還し体力が回復した石神亨は、召集をうけ軍務に復帰した。明治29年(1896年)海軍大学校教官となり、続いて横須賀海軍病院に赴任したが、病気のため引退して、大阪に住まいを移した。

大阪での活動.

明治30年(1897年)大阪市南区(現在の天王寺区)逢坂一心寺下で石神病院を開いた。同時に私立伝染病研究所を建てて、病院をその附属として運営した。翌年、桃山にあった国立の大阪痘苗製造所長に命じられる。明治35年(1902年)白砂青松(現在の堺市濱寺)の海岸に結核専門の石神療養所を建てた。資産家の患者には独立家屋の病室が歓迎された。2年後に石神研究所を療養所構内に移し、大正5年(1916年)には新しい構想のもとに研究所を建てた【大正3年、北里柴三郎は国立伝染病研究所を辞職し、私立北里研究所を創立した】。石神亨の私立伝染病研究所は、関西地区では最初であり、明治25年末に北里柴三郎が東京に設立した伝染病研究所に匹敵するものとして話題になり注目された。結核菌の菌体成分製剤をはじめとして細菌製剤の製造販売をしながら、オプソニンの研究を行った。特に結核の治療と予防には絶大な妬力をし、結核の恐ろしさを社会に啓蒙した。石神亨の名前は、大阪における細菌学の第一人者として知れ渡った。

石神は医学知識の大衆化を考え大阪衛生会を創立して月刊雑誌を発行し、また講演会を開き、熱心な活動家であった。石神の没後もこの雑誌は続いていた、現在の社会福祉法人大阪府衛生会(理事長石神医師は孫である)はその後身である。

石神は、大正7年(1918年)10月6日に感冒を発病、15日に永眠した。解剖によって、虫垂の小指頭大糞石、虫垂炎、穿孔性腹膜炎、小骨盤腔腸閉塞が明らかとなった。10月19日濱寺公会堂へ棺が向う時、石神亨の最も親しい友人6人が左右に分かれて棺を守っていた。右側の先頭は北里研究所の志賀潔博士であった。

北里柴三郎は、「石神亨君逝きて茲に一年、君を追想し今昔の感にたえざるものあり・・・・」と書き始め、「予の事業を助けしは実に君なりき」と伝染病研究所創立時のことから、香港ペスト調査研究のことに及ぶ弔辞を認めている。そして、「大阪結核予防協会が其の基礎において、又其の事業において常に範とせられるに至りしは君の熱心と努力に因る処多し」と結んでいる。

石神亨は、人柄は温厚で、なにごとにも誠意をしめし、忍耐強い努力家で、信仰心が厚く、意志の強固な人であったようです。石神亨が買い集めた医学関係図書は、一万冊にもなる膨大なもので、大阪千里にある大阪大学微生物病研究所に遺族から寄贈され、「石神文庫」として永遠に保存される活用されているとのことです。

昔の人のことを調べると、常に西暦に直した年号と年齢の関係に微妙な違いが資料ごとにあって困ることが多くあります。例えば、昭和64年と平成元年に生まれた人は、1989年に共に生まれたことになりますが、何月生まれかによっては1才の違いが生じます。また昔は数え年で年齢を表現していました。明治27年6月に香港にペストの調査団が派遣された時、石神亨は37才、北里柴三郎が43才の時(二人は6才違い)と記録されています。ところが、ここに紹介した石神亨の経歴では、安政4年(1857年)7月13日生まれですから、明治27年6月は38才であったのかもしれません。しかし、上の本文では39才になってしまいます。これらの違いが生まれるのは、年号が年度の途中で変更されていること、更には旧暦での表示が現在の暦とことなることによるようです。

さてペスト菌と命をかけて闘った石神亨のその後の足跡を紹介しましたが、皆さんはどのような印象を受けられましたでしょうか。私は「これはドラマだ!」と叫びたくなる感動を覚えました。どなたか戯曲か小説にして頂けませんでしょうか。ご連絡をお待ちしています。



*ご指摘をいただきました。2004/10/30

「301. ペストに命をかけて闘った石神亨のその後の足跡」を興味深く拝見しました。1箇所気になる点がありましたので、お知らせします。石神療養所の場所を現在の堺市浜寺としてありますが、正確には高石市羽衣4丁目2〜4番地です。現在は堺市部分だけに使われる「浜寺」という地名が元になって、同様の誤解を多く見かけます。万葉時代の古くから、堺市の石津川南岸から高石市と泉大津市の市境である王子川北岸の地帯を「高師浜」といい、さらにそこにあった「大雄寺」を通称高師浜寺とよび、後にその一帯を浜寺とも略称するよ うになりました。これは現在の行政上の地名呼称と完全には一致しませんが、昔は呼び方があいまいだったようです。
加藤 肇彦様のご指摘。 ありがとうございました。

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