明治34年(1901)に文部省令によって第二高等学校医学部は、独立して「仙台医学専門学校」と改称された。翌年から細菌学は正課となり中川愛咲が初代の教授となった(東北帝国大学医史学同好会編「東北帝国大学医学部前史」、艮陵33・34)。大正4年(1915)設置の東北帝国大学医科大学に初代細菌学教授が誕生する12年前のことである。
仙台医学専門学校開設当時の職員一覧によると教授中川愛咲の肩書は、バチエロル、アフ、サイアンス(プリンストン大学)、ドクトル、メヂチネ(紐育府大学)とある。中川愛咲は、明治31年9月に31歳の若さで第二高等学校医学部に衛生学と法医学の講師として着任し、明治32年に教授に昇任された。また明治35年(1903)に細菌学の教授も任命され、東北帝国大学が創設された明治40年10月まで仙台医学専門学校に在職したが病気を理由に40歳で退職した。中川愛咲の後を継いだ二代目教授に柿沢義信がいる。教員の肩書は、多くが東京帝国大学卒業の医学士であるなかにあって、中川愛咲の肩書のみが米国の大学卒を示すカタカナ書きでひときわ異彩をはなつ。
ドクトル、メヂチネの学位をもつ中川愛咲は、「明治31年9月に31歳の若さで第二高等学校医学部に衛生学と法医学の講師として赴任」とあるが、どこから赴任してきたのであろうか。明治28年に創刊された「細菌学雑誌」(現在は日本細菌学雑誌に改名)を繰ってみた。明治28年12月5日発行の創刊第一号の「談叢」というカラムに中川愛咲の名前があり、「フェラン、ハフキン氏等の虎列刺病儒豫防接種法(1:76-82,1895)」を発表していた。著者としての肩書には、「伝染病研究所 助手 ドクトル 中川愛咲」とあった。
福沢諭吉の援助により国内初の私立伝染病研究所が創設されたのは、明治25年12月で、所長は、医学博士 普国プロフェソル 北里柴三郎である。中川愛咲は、明治28年に既に私立伝染病研究所で北里柴三郎所長の助手を勤めていたのである。