北里闌博士は、明治35年(1902)3月5日、英国サザンプトン港から帰国の途につき、スエズ運河を経由して5月18日に戦艦三笠は軍港のある横須賀に入港し、処女航海を無事に終えた。
ドイツ留学から帰国したばかりの北里闌を待っていたのは、東京駐在のドイツ公使アルコ・ヴァライ男爵であった。明治35年5月のある日公使である男爵は、ドイツ皇帝からの電令を受けて、皇帝の謝意を伝えるために書記官を伴って芝西久保(港区虎ノ門付近)の仮寓に訪ねて来た。
ドイツ皇帝が、若輩者の北里闌の仮寓に公使を差し向けて来ようとは、思ってもいなかっただけに、北里は「来訪されたのには驚いた。ドイツ皇帝が外国の学徒に対し勅使を使わして謝意を述べるなど他に類例があったろうか・・・。とにかく外国では一芸一能ある者を厚遇する文化国家の一例である」と北里闌は、後日友人の石川岩吉國學院学長・理事長に語ったそうである。
ドイツ公使が来訪した時、北里はあいにく不在宅であった。あとで聞いた話によると、ドイツ公使館の書記官は、中ノ町(港区赤坂6丁目付近)に住んでいた伯父の北里柴三郎博士のもとに、「キタサト・タケシさんの住所を教えて欲しい」と電話してから訪ねて来たのだという。その後、改めてドイツ公使館での晩餐会に招かれ、北里闌は皇帝の謝辞を受けた。
今日からちょうど百年前の明治三十四年(1901) 、闌はドイツ滞在中にドイツ語で著わした「佐倉宗吾」の本をプロイセンのザクセン国王(ライプチヒ大学所在地)とドイツ皇帝やその他に献納したもの、および活字の創製者グーテンベルクの生誕五百年記念出版「MARKSTEINE(標石)」に、在ドイツ国日本公使館の推薦を受けて、日本を代表してわが国文学史の上で日本の国柄あるいは国民性をよく表現していると思われる清少納言の「枕草紙」を取り上げて、その数節を訳出して掲載したものを、皇帝がご覧になられたことによるものであった。
北里柴三郎は、明治7(1874)年に熊本を離れて上京、明治16(1883)年に東京大学を卒業し、明治18(1885)年にドイツに国費で派遣され、明治25(1892)年にドイツから帰国した。北里柴三郎は、明治25(1892)年にドイツ政府から「プロフェッソル」の称号を授与された。このときの経緯は、北里柴三郎博士の秘話「北里柴三郎の明治25年」に、概略つぎのように掲載されている。
東京から来た医学博士北里柴三郎がベルリンを去るに当たり、ドイツ医学会に対する北里が残した功績を高く評価して、ドイツ帝国並びにウイルヘルム皇帝は、外国人としては初めての栄誉称号プロフェッソルを贈呈することに決定し、北里がベルリンを去った後の5月1日に証状が在ドイツ国日本大使館に届けられた。
更に、来日したドイツ国特命全権公使グードシュミット氏は、ドイツを出発するに当たりドイツ国皇帝ウイルヘルム陛下に拝謁し「日本天皇陛下の臣民北里柴三郎がドイツ帝国において伝染病の研究に尽力し医学のための功労は甚大であった。そのような人物が我がドイツ帝国内で努力されたことに深く感激し、また日本天皇陛下の臣民にこのような人物が輩出したことは陛下の叡旨にかなうものと察し祝意を表す」と日本天皇陛下に伝えよとの伝言を言い渡されていた。
グードシュミット公使は日本天皇陛下の学術を保護する厚い心に感涙し、着任してその詳細を陸奥外務大臣に述べた。外務大臣は、15日に皇居に参内して事の次第を詳細に申し上げ、これは実に北里博士の栄誉のみならず、我が国の名誉であると。
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