はじめに
第1章 北里闌(たけし)の誕生
北里家系譜
北里闌博士の略歴
01.謎の人物「北里闌」
-わすれられていた北里闌博士
02.小国町の神童
03.同志社と國學院に学ぶ
04. 海外留学生第一号となる
第2章 大学時代からドイツ留学
05. 森鴎外の奨めでミュンヘン大学へ
06. ドイツ文劇詩『南無阿弥陀仏』出版
07. 日本古代文字の研究を発表
08. 生涯の研究目標
09. グーテンベルグ生誕五百年記念出版
10. 軍艦「三笠」で帰国
第3章 日本語源の探索
11.ドイツ公使ヴァライ男爵の来訪
12.運命を変えた父の破産
13.大阪府立高等医学校に赴任
14.言語の不可思議
15.仮名統計表の作成
16.「究学津梁」千巻を閲覧
17.初の在阪「院友会」開催
18.経済界の不況で約束は反古に
19.審査されなかった論文
20.大震災で出版原稿を焼失
21.蝋管に録音されていたもの
第4章 後世への遺物
22.北里闌録音の蝋管資料
23.録音蝋管再生研究をめぐって
24.北里蝋管のリスト
25.蝋管始末記
26.在野の言語学者の録音・北里蘭
27.蘇る蝋管レコードの音声
おわりに

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16.「究学津梁」千巻を閲覧
この様に「梵語音」を介して中国・朝鮮、そして日本の古代語音の真相を推定した北里だったが、それを結び付けた史料は、真言宗の高僧慈雲尊者(じうんそんじゃ、享保三年・1718〜文化元年・1804) が丹念に蒐集した「梵学津梁 (ぼんがくしんりょう)」千巻であった。

慈雲尊者は日本の釈迦と称えられた高僧で、彼が開山した葛城山麓の名刺高貴寺 (大阪府南河内郡河南町平石)を訪ね、本史料を、住職戒心和上に乞うて閲覧することを許され、しかも寺坊学寮の一室「信度寮」 まで用意してくれた のであった。

しかし「門外不出のため、研究上に必要な部分はその場で写し取って帰るより外に方法が無かった」ために、まず梵字の書法から習得しなければならず、爾来通うこと七年間に及んだのである。その一方で、自宅では古事記などの書物を用いて「仮名統計表」の作製に苦心し、併せて十数年間の研究となった。

戒心和上の好意に対して北里は、後年(昭和26年1月13日)小生の日本語源研究に基礎を築くことを得せしめ、且また目的の曙光を仰ぐことの出来た無上の法悦である。和上は実に学識というよりも一層徳行堅実の老和上であったと厚く語っている。

その恩典に浴して、門外不出の珍籍「梵学津梁 (ぼんがくしんりょう)」千巻を閲覧し・・・、この寺にてサンスクリットと梵語を比較研究し、終にわが国の五十音組織が組み立てられた道程を鮮明にすることが出来た。その一方で、自宅では古事記などの書物を用いて「仮名統計表」の作製に苦心し、併せて10数年間の研究となった。これは実に日本国語学史上、一大収穫であったと、高貴寺に感謝していると述懐している。