はじめに
第1章 北里闌(たけし)の誕生
北里家系譜
北里闌博士の略歴
01.謎の人物「北里闌」
-わすれられていた北里闌博士
02.小国町の神童
03.同志社と國學院に学ぶ
04. 海外留学生第一号となる
第2章 大学時代からドイツ留学
05. 森鴎外の奨めでミュンヘン大学へ
06. ドイツ文劇詩『南無阿弥陀仏』出版
07. 日本古代文字の研究を発表
08. 生涯の研究目標
09. グーテンベルグ生誕五百年記念出版
10. 軍艦「三笠」で帰国
第3章 日本語源の探索
11.ドイツ公使ヴァライ男爵の来訪
12.運命を変えた父の破産
13.大阪府立高等医学校に赴任
14.言語の不可思議
15.仮名統計表の作成
16.「究学津梁」千巻を閲覧
17.初の在阪「院友会」開催
18.経済界の不況で約束は反古に
19.審査されなかった論文
20.大震災で出版原稿を焼失
21.蝋管に録音されていたもの
第4章 後世への遺物
22.北里闌録音の蝋管資料
23.録音蝋管再生研究をめぐって
24.北里蝋管のリスト
25.蝋管始末記
26.在野の言語学者の録音・北里蘭
27.蘇る蝋管レコードの音声
おわりに

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22.北里闌録音の蝋管資料
北海道大学言語文化部
教授 村崎 恭子
はじめに
昭和60年2月のある日、京都の大谷大学から240本の蝋管が美術梱包で北海道大学応用電気研究所へ送られて来た。これは北里闌が大正10年から昭和6年までの間に日本語の語源を求めて南はボルネオから北はサハリンまで旅して録音した蝋管資料である。この新発見の蝋管資料について、その発見の経緯からこれに関わる現在までの状況を報告する。

エジソン蓄音機 蝋管
北里闌が録音に使用した
エジソン蓄音機 大谷大学より
     北里闌が録音した蝋管の一部
   大谷大学より
1 資料発見の経緯
資料発見に当たって二つのきっかけがあった。一つは、 昭和58年の夏にポーランドから北大応用電気研究所に再生のために送られて来ていたB.ピウスツキ録音の蝋管63本をめぐって「ピウスツキ北方資料研究会」ICRAPの研究が当時進行中であったが、その模様をNHKが「NHK特集、ユーカラ沈黙の八十年」という50分番組にまとめ昭和59年6月25日に全国放映した。これを見た北里関氏の遺族が、「同じような録音をした蝋管240本が大谷大学にある」とNHKに通報してくれたことである。

もう一つのきっかけは、これもやはりテレビ番組を見た北大文学部国語学の石塚晴通助教授からの情報で、石塚先生がよく文献を見に行かれる京都の大谷大学にアイヌ語を含むアジア諸言語の蝋管がかなり多数保管されていると知らされたことである。

幸いにもこの二つの情報をほぼ同時に耳にした私は、早速その年の昭和59年12月に京都の大谷大学を訪れ資料を確認した。仲介の労をとって下さった高橋正隆講師、図書館長、図書主任の方々の御好意と御協力を得て、北里蝋管240本を昭和60年2月に再生のために北大応用電気研究所へ借用することができた。そしてこの蝋管資料は、いま同研究所の朝倉利光教授の指導の下で再生が完了し、昭和61年3月1日に無事大谷 大学へ返却したところである。

この資料は、北里闌が大正10年から昭和6年にかけてボルネオに4か月、台湾に2回、フィリピンに2回、沖縄に2回、日本東北地方北海道およびサハリンに1回旅行し、録音した蝋管240本 (13箱) である。この中Box8の24本がアイヌ語関係のものであった。

2 北里闌とはどういう人か
録音者、北里闌についてこれまで皆目無知だった私は、長男である北里蓋一氏や北里闌の研究者である木下礼仁氏(同志社大学)に面会したり、北里闌の文献を調査したりして、 以下のような知識を得た。

明治3年3月3日熊本県阿護郡北里村に生れる。細菌学者、北里柴三郎は最長の従兄に当たる。闌は柴三郎の推めで初め同志社に入ったが、国学を修めたいという意志が強く自ら同志社を辞し国学院へ転学し国語学国文学を学んだ。以後ドイツに留学、ベルリン大学で5年学び「枕草子」を独訳してドイツに紹介した。博士号取得、帰国後は大阪医科大学(現在の阪大医学部の前身)で倫理学とドイツ語を教えていたが、研究時間を得るために定年前に退官して、長年のテーマ「日本語源研究 」に専念した。

北里闌の関心は、日本語の起源研究で、アイヌ語と朝鮮語と南洋諸言語の調査が必須と考えていた。しかし、アイヌ語には金田一京助氏やパチラー氏、朝鮮語には金沢庄三郎氏や小倉進平氏など優れた研究者がすでにいるから、自分は先ず研究者のいない南洋諸言語の研究調査を手がけることにし、大正10年から5年間にわたりボルネオに4か月、夏に沖縄へ2回、台湾へ2回、フィリピンへ1回旅行し、南洋諸言語を録音した。そしてその成果を論文にまとめて発表したが当時の学界に省みられず黙殺されたので、今度は東北地方、北海道、サハリンなど北方旅行を思い立ったという。

これらの旅行で録音した蝋管240本が本資料で、これは昭和35年闌が亡くなった後、長男蓋一氏によって保管されていたが、蓋一氏が姫路鉄道病院長を退かれた際、昭和37年に大谷大学図書館へ引き取られ現在までほぼ完全な状態で保管されている。一方、北里闌の文献資料の方は、阪大文学部に残っていると言う木下情報と帝塚山大学図書館に入っていると言う蓋一氏の情報とがあるが未確認である
(【註】大阪大学総合図書館および帝塚山大学図書館には資料も書籍の類も存在しない、田口記載)


3 蝋管の録音内容
上述の旅行で録音された言語は、フィリピン諸島方言、台湾の高砂族の言語、沖縄諸方言、東北諸方言、アイヌ語諸方言、ギリヤーク語、オロッコ語などに及ぶが、ここではアイヌ語関係の録音がある蝋管の中、すでに再生が終了しているもの (No.165〜186) について報告する。

Box8(No.165〜186)には、アイヌ語を中心とする日本語東北方言、ギリヤーク語、オロッコ語などが録音されている。この録音の模様は、北里闌の自費出版の著書「日本語源研究の道程 ( 続編 ) 」 ( 昭和5、大阪紫苑会、昭和7年増補) に詳しく記されている。

これによると、闌は昭和6年7月27日大阪を発ち、7月28日越後新津、7月29日山形鶴岡、7月31日秋田、8月1日青森弘前、8月4日札幌、8月8日白老、8月11日旭川、8月13日夜稚内から船で樺太へ渡り8月14日大泊、豊原、8月14日白浜、8月15日樫保(かしほ)、8月16日知取(しれとり)、新問(にいとい)、内路(ないろ)、8月17日敷香(しすか)、オタス、8月18日白浜、8月20日多蘭泊(たらんとまり)、8月22日に真岡、小博、8月23日白老、8月24日二風谷、白老、8月27日函館、八雲、8月29日函館から八戸へ 、8月30日岩手、8月31日山形左沢(あてらさわ)、9月2日福島、9月4日会津若松、9月7日大阪へ帰着という道程で調査旅行をした。この間、自分の紹介や旅行の目的を説明した原稿をあらかじめ用意し、それを原地語に翻訳してもらったものを原地人に朗読してもらうという方法で録音した。これ以外にも各地方の純粋な歌謡も同時に録音した。同著にはそのテキストの一部、全部ではないが、演者の名前、年齢なども記されている。

北方言語・文化研究会成果報告 (17)
1985年9月〜 1986年3月