Y君は東武日光線で栗橋―春日部を電車通学していました。そして帰りの電車の中にはアメリカ人の兵隊やその家族が日光方面への休暇旅行のため乗っていました。Y君は春日部駅のホームに電車が入ってくると
弁論大会の英文原稿が完成、いよいよ実践の練習に入らねばなりませんでした。Y君はスピーチでは英語の文章表現もさることながら、聴衆が聞いて解りやすいことが重要と考えていました。このため、帰宅電車の[会話教室]でアメリカ人に自分のスピーチを聞いてもらって、おかしな文章表現や、発音、抑揚などを指導してもらったりもしました。又帰宅後、利根川の川面(かわも)に向かって英語の発声練習をしていたところを隣近所のオバサンに見られ、「Y君の頭がおかしくなった。」などと言いふらされたりしました。
Y君は帰宅後すぐPeterさんとの会話の内容を両親に話しました。そして、早速Peterさんとの文通がはじまりました。当時のPeterさんからの手紙を読んでみると、Y君が何を考えていたのか、その一端が浮かんできます。少しながくなりますが、その一部を紹介します。
お手紙興味深く読みました。ここのところ忙しくて返事が遅くなり御免(ごめん)。新聞の印刷で徹夜が続いたものだから・・・。その上、今週は名古屋と京都に休暇で行くので、事前に特集記事を用意して他の仲間に迷惑の掛からないようにしたのでね。
アメリカではHigh Schoolの終了証書があれば誰でも州立大学には入れます。 問題はお金です。大学は授業料、寄宿費などお金が掛かります。特に私立大学は高額です。私立の合格基準は難しい試験をパスする頭脳と高額授業料の支払いに耐え得る財力があるのかどうかという二点だけなのです。
ここでは、西洋諸国ほどには日々の生活で宗教は重要な役割を担っていません。しかしアジアでは儒教(じゅきょう)的な倫理観(りんりかん)−生活が宗教と同じ役割を果たしているように思います。
Y君、君はこれが長い友情の始まりとなるよう望んでいるといっているが、自分も同感です。アメリカに帰ってから、日本の様子も知りたいし手紙を書く友達がいることはとても素晴らしい事です。出来れば近い将来東京に出て来て下さい。自分が働いている場所を案内したいと思います。そして自分も君の住んでいる田舎を訪ね、君の家族にもお会いしたいと思います。自分の両親も農業に従事していました。きっと日本の農家の様子を聞きたがるだろうと思います。6月8日までには東京に戻ります。 連絡をお待ちします。
Peter A. Moe
お手紙有難う。又返事が遅くなりごめん。京都から返ってきたら、新しいボスが来ていて、これが新聞のことを何も知らないので、衝突してしまった。でもこの男は6月26日去り、又新しいボスが来てね。この人はすごくいい人で安心したよ。今度は自分の部下が父親の病気のため、アメリカに帰ってしまった。そのため、交代を見つけ、東京に慣らし、仕事を教えこむのに2週間ほど掛かってしまってね。
夕闇とともに、花火が始まりました。青、ピンク、黄、紫、緑色の火花が続けざまに眼前に炸裂(さくれつ)、そのたびに東京の町じゅうが昼間のように浮かび上がりました。Peterさんはカメラを持参するのを忘れ、しきりに残念がっていました。特に最後の仕掛け花火の連発発射には皆立ちあがり、大歓声を挙げていました。
7月31日(日)、10時過ぎに部屋の電話が鳴り、Peterさんがロビーで待っていました。Peterさんは「今日は給料日で列を作り並んだので、迎えが遅くなりごめん!」と言いました。Y君が「Peterさんが本当に迎えに来てくれるかどうか心配で、良く眠れなかった。」と答えたら、大笑いしていました。実際にホテル代を自分で払えるほど十分なお金を持っていませんでしたし、兵隊が給料をもらって生活しているなど考えもしなかったのです。
当時はまだ丸の内界隈(かいわい)の主だった建物は進駐軍に占有されていました。二人は新海上ビル向かいのOld Banker’s Buildingの地下にあったレストランで昼食後、お別れすることになりました。別れ際Y君は2日間の手厚いもてなしに、「楽しい東京の休日」をありがとうと言いました。当時、オードリー・ヘップバーン主演の映画「ローマの休日」が上映され日本中で大変な人気でしたが、Y君はあたかもその主人公Princessならぬ「Prince」になったような気分でした。そしてその夢のような気持ちを「東京の休日―Holidays in Tokyo」と表現したのでした。
受験準備で多忙なためPeterさんとの文通も途絶えがちでした。しかし1955年11月の時点で志望大学だけは手紙で連絡していました。しかしその後Peterさんからの返信もなく、音沙汰は全く途絶えてしまいました。恐らく韓国の基地に移ったか、沖縄に転属となったのだろうと推測していました。或いはアメリカに帰ったかも知れませんでした。従い、翌1956年3月の大学合格の知らせもPeterさんには届けられませんでした。
ポルトガル語科の合格者は20名でした。日本全国からやってきた男子だけの仲間たちでした。年齢も18歳から22歳まで差があり、皆夫々、
将来は海外(特に南米)で活躍したいとの夢を抱いていました。クラブ活動では高校時代に封印していた硬式野球部に所属しました。クラブでは色々な言語科の仲間が居り、後の人生の財産になりました。
7.社会人として商社マンになる
4年生になり、就職活動の時期になりました。当時は多くの日本企業が海外の拠点造りに動き出し、特に商社、銀行、海運などを尖兵(せんぺい)として、資源開発、製造業も海外進出を目指しつつありました。Y君は大学からは関西系のN商社、M商社、F銀行への推薦を受けましたが、最終的には野球部の先輩の強い勧めもあり、南米での鉱物資源開発計画を進めようとしていたN商社への入社を決めました。
Y君は1960年4月、商社マンとしての第一歩を踏み出しました。国内業務に始まり、東南アジア、アフリカとの海外貿易業務を経験後、1972年から待望のブラジルに6年半、1983年から西ドイツに5年の海外勤務が続きました。
リオのカーニバル
ベルリンの壁
この間ずっと心の中で、1955年11月から音信不通になっていたPeter A. Moeさんとの再会を願っていました。しかし、企業戦士としてアジア、アフリカ、南米、ヨーロッパなどの多くの国々を旅しても、遭遇することはありませんでした。
オレゴンのセコイア杉の巨木
1992年、アメリカ勤務を命ぜられ、ヒューストンに赴任しました。そして念願だったPeter A. Moeさん探しを始めました。秘書の助けも得て国防省や退役軍人会などに問合せましたが全く手がかりはありませんでした。
1960年代から70年代初めにかけてのベトナム戦争もあり、戦死したかもしれないとの憶測もかすめ諦(あきら)めかけていた矢先、在東京のPacific Stars & Stripes社 編集長Robert Trounson氏から返事がきました。Pacific Stars & Stripes社宛には1955年Peterさんが歌舞伎座で長谷川一夫にインタビューしたときの写真を添えて問合せをしていました。
歌舞伎座で長谷川一夫とインタビュー 右から二人目がピーター氏
1994年1月19日
拝啓
お手紙受け取りました。Peter A. Moeさん(右から二人目)と有名な俳優である長谷川一夫さんとのインタビュー写真有難う。大変に貴重な興味ある写真です。
この写真を在カリフォルニアPacific Stars & Stripes社のAlumini(OB会)に送ろうと思います。
AluminiはOB向けに月刊誌を発行していますので、この写真を載せてくれるかも知れません。私自身はPeterさんとは面識がありませんが、Peter Craigmoeという人が月刊誌に時々寄稿しているのを覚えています。お尋ねのMoeさんとCraigmoeさんが同一人物か分りませんが、下記のAluminiと連絡をとってみて下さい。
Mr. Maurice Martin
20540 Leonard Road
Saratoga, CA 95070
Tel. (408) 867-4179
敬具
Robert Trounson
(PS&S編集長)
Y君は早速Martin氏と連絡し、Peter Craigmoe氏の住所が判明しました。
22362 Platino Way
Mission Viejo, 92691 California
Tel. (714) 768-9342
40年ぶりに聞けるかも知れないPeterさんの声を期待し、ダイアルしましたが、留守番電話の声で、「一週間ほど前に転居したこと、新住所は未定である」との内容でした。
その後も秘書の懸命な努力もあり、遂に新転居先が判明しました。
2765 Janipero Way
Medford, 97504 Oregon
Tel. (503) 773-6340
8.40年ぶりのピーター氏との再会
Y君は緊張してダイアルしました。男性の声が返ってきました。まず自己紹介をし、Peterさんであるかどうか確かめるため「隅田川の花火」の話をしました。暫くの沈黙のあと「かすかに覚えている。あのときの少年か? 今何処にいるの?」「ヒューストンにいます。ここに住んでいますよ。」「それは驚きだ。是非会いたいな」こんなやり取りでお互いの無事を喜び合い、近い将来の再会を確約しました。
間もなく、Peterさんから、分厚い封筒が届きました。中には1955年にPeterさんにY君が書いた手書きの英語の手紙とPeterさんの日記の抜粋が入っていました。彼は、万が一に戦死した場合を想定して、兵役中の自分の記録を残すため手紙や日記を全て米国の母親に送り保管をしてもらっていたとの事でした。まえに記載したPeterさんからの手紙はY君は自分で保管していましたが、Peterさんに出した手紙が自分のところに戻ってきたのです。
その後、Houston―Medford間の電話や手紙での交信を経て、Y君は1955年Memorial祭日の休暇を利用し、妻及びたまたま日本から両親を訪ねていた次女を連れてPeterさん一家を訪問することになりました。
1995年4月13日
Y君へ
奥様と娘さんと一緒に当地を訪問できるとのこと大変嬉しく思います。5月26日は丁度Memorial祭日の初日で、戦争で亡くなった友人や親戚の人々を思い出す日です。先週は雪が降り毎日雨模様でしたが、5月になればきっと良い天気が続くでしょう。Medfordの富士山と呼ばれるThielson山を御覧に入れましょう。
ここに皆さんの行動予定表(末巻の付録参照)を同封します。君と電話で話した感じでは君は世界の色々な国で生活した様子なので、食事の好みも国際的なのではと推測します。いずれにしても、このリストから外したい食べ物があれば連絡ください。変更しますから・・・。
ホテルに泊まらずに是非とも我が家に泊まってください。一階にはとても大きな部屋があります。カーペットも新しいし、家具も整っています。シャワーと洗面所は二階ですが、パジャマを着ていれば行き来には問題ないでしょう。
実は私の妻のアイデアですが、我が家に泊まればお金を節約するというよりも、時間を節約できます。そうすれば夜遅くまでお話をしていられるし、朝早く起き忙しい日程をこなすのに大変好都合でしょう。
では私の自伝的な背景を教えてあげましょう。
ノルウエー人の両親のもとに北ダコタ州で誕生。1958年に沖縄のMorning Star新聞で働いていた時、名前をCraigmoeと改めました。この名前は伝統的なノルウエー人家族のLillie-Krokmoというなまえに近いのです。Lillieの意味は「小さい」、KrokhaCraig=山の牧草地あるいはスコットランドの荒れ野を意味しています。ノルウエーではKrokmoという名前はKraagmoとかCraigmoとかCraigmoeとも書きます。ノルウエーから来た移民の中にはEllis島(ニューヨーク)の移民駅に着いたときに自分の名前をCraigとかMoeとかに改めた人たちがいました。去年のリリハンメル冬季オリンピック(ノルウエー)の時スキーで金メダルをとったアラスカのTommy Moeもその一人です。
さー、みなさんのお好みについて教えてください。ビール、ワイン、ウイスキー、ラム酒はお好きですか? 私たちはどれも大好きです。若しホテルに泊まったほうが良いとお考えでしたら、早めに知らせて下さい。丁度祭日の週末にぶつかり予約が早めに一杯になってしまいますので。娘さんのお名前を教えて下さい。 皆さんの趣味とか興味のあるものなども。限られた時間を最大限に使うため調整出来ますので。日一日、皆様の到着を待ち望んでいます。
Peter
1995年5月26日、Y君は家族を伴いHoustonからオレゴン州Medford国際空港に到着、出迎えたPeterさんと40年ぶりの再会を果たしました。感激でした。ドラマのような一瞬でした。お互い健康で再会できたことを喜び合いました。
その後の3日間はPeterさん一家と寝食を共にし、ドライブ、観光、食事、お話で分刻みのスケジュールを過ごしました。特に夕食後の団欒(だんらん)では夫々が歩んできた40年間の仕事のことや家族のことなど話は尽きませんでした。Peterさんは米国の石油掘削会社の広報担当オフィサーとして世界を駆け回ったとのこと、一方、Y君は商社マンとして石油化学分野で動き回り、お互い何か共通するものを感じました。そして恐らく世界の多くの場所ですれ違いながらも、遂に再会出来たのです。(Peterさんが用意した意欲的な行動日程表を最後に付録として収載します。)
Y君は1997年1月、米国での任期を終えて帰国しました。
1997年3月、商社を定年退社し、その後4月初旬から米国カリフォルニア州の企業に職を得て、再度、妻を伴いアメリカに渡りました。
Peterさん一家もオレゴンからカリフォルニア州に引っ越してきていました。お互い、車で2時間ほどの距離に住み、感謝祭、クリスマスなど機会あるごとに相互訪問しながら共に休暇を過ごし家族交流を続けました。
1999年1月、Y君は米国での仕事を切り上げ帰国しました。2000年10月と2005年5月の2回に亘りPeter夫妻が来日し、横浜のY君宅を宿泊拠点として東京、日光、箱根、冨士、名古屋、京都など、Peterさんが若かりし頃の思い出の場所を訪ねました。Y君夫妻も横浜、東京、日光、箱根、冨士などのノスタルジック・ツアーに加わり、共に日本の旅情を楽しみました。
今度はY君夫妻が2004年6月アメリカを訪問、 ニューヨークではWTCがあったGround Zeroを見学、ヤンキース球場で松井選手のホームランやShinnecock Hillsでの全米オープンゴルフを観戦後、帰途カリフォルニアのPeter邸を訪ね数日を共に過ごしました。
今後とも太平洋を挟んで交流は生涯続くことになるでしょう。
9.在日外国人支援のボランティア活動
かつて多くの日本人が農業移民として南米に渡りましたが、その子孫である 二世、三世、四世までもが日系外国人として家族とともに日本に還流して来ています。多くは日本国内の企業に単純労働者として採用され経済的には必ずしも恵まれた状況にはありません。法律上も十分な保護があるとはいえません。家庭内環境の悪化に伴い、就学児童の不登校や非行化などの問題も起こってきています。このまま放置すれば母国語も日本語も十分に使えない無気力な青少年達がうまれ、社会の不安定要因になりかねません。青少年に夢を与え叶えられるよう問題解決のための手段と支援活動が急務となってきています。
横浜市には現在70,000人を超える外国人が住んでおりますが、国際化の流れの中、毎年増加傾向にあります。行政当局は「多文化共生の街ヨコハマ」を掲げ、外国人生活者にとっても快適で住みやすい街つくりを目指し各所に国際交流拠点を整備し、一般市民にボランティア活動への積極的な参加を呼びかけています。
Y君は市内の国際交流拠点にボランティア登録,在住外国人への一般生活情報の提供や市民との交流行事の企画・運営に参加しています。スポーツでの国際交流として、市内の小学校と在横浜外国人学校・ドイツ学園とのサッカー交流試合は定着化してきており、日独双方の子供たちにとっても異文化交流の良い機会として期待されています。将来は南米系の子弟も加えた国際交流行事に発展させたいと考えています。
市民通訳ボランティアとしてもブラジル人子弟の小学校入学説明会、不登校問題、進学相談、父兄面談などで支援活動を続けています。2002年のサッカー・ワールドカップでは横浜で決勝戦を含む4試合が行なわれましたが、ポルトガル語・英語の市民通訳ボランティアとしてメディア部門外国人の担当をすることができました。
10.さいごに
外国を訪ねて、その土地の人と対話して初めて、その国の文化、民族、ものの考え方、価値観などを学べる。その土地である人に親切にしてもらった、また感じの良い人とめぐり合えたら、その国を好きになれます。良い国と思うようになります。
観光旅行で海外の国を訪ねるのであっても、日本語の案内書を片手に観光地を回り、お土産品を買うだけでは、時間も労力も「モッタイナイ」と思います。上手な言葉でなくても、その国の人と挨拶し対話して初めて「人と人とのコミュニケーション」ができ、「人生としての人と人との出会いの場」となります。外国人の親愛感、信頼感、友情などは、言葉が通じて初めて可能となり深まります・・・。 外国語を学問としてまなぶことも大切ですが、しかし、外国語を何かの目的のための手段として用いるために学ぶことも大切・・・。
外国語は「正しい国際理解」と「自己実現」のための大切な道具なのです。これから自分の進むべき将来をどうするか考えている有能なあなた、外国人が意思を伝えるために使う言葉をもっと真剣に学んでみませんか。きっと輝く未来が開けると思います。先輩からの一言です。
(完)
平成19年4月3日
篠塚 美郷(しのづか よしさと)
付録1.Y君一家の予定表
Peterさんが用意した日程表です。
1995年5月26日 (金)
10:07 Medford Rogue Valley国際空港到着
10:30 空港を出発、Jacksonville 見物
11:45 Craigmoe邸に到着
正午 昼食:チキンの串刺しとポテトサラダ
01:00 Fish Hatchery(魚の孵化場)とCrater Lake(火山火口湖)探訪
03:00 Crater Lake着、お店に立ち寄り、火口湖周辺をドライブ
04:30 写真撮影 Crater Lake 発 Medfordへ帰る
06:30 夕食 Craigmoe家でステーキとポテトの詰め合わせ
07:30 食後の散策、 ご婦人たちはクッキー作り
09:30 冷たい果物、 お茶と出来たてのオートミールクッキー
10:30 就寝
1995年5月27日 (土)
08:00 起床 シャワー、身支度
08:15 朝食:ジュース、冷たい果物、ベーコン、フレンチトースト
09:00 Redwood Highwayをドライブしカリフォルニア海岸へ
10:00 Doug Dudleyの木彫店に立ち寄る
11:00 Jedediah Smith 州立公園を訪ねセコイア杉の巨木林を通る
(130Mにも達する大きな杉の木がある)
11:30 Crescent市に向かう(カリフォルニア州)
正午 昼食:South Pier の海鮮料理レストラン
01:00 Paul Bunyan市のMysteryの家を訪ねる
01:30 Southwest/Northwestのインディアン博物館を訪ねる
02:30 杉の巨木林を訪ね写真をとる
03:30 Grand峠を通りMedfordに向かう
06:00 夕食:タイ料理店 (Pongsrii) 或いは Pizza Parlorで
07:30 Craigmoe邸到着 おしゃべり
09:00 冷たい果物、お茶、 クッキー
10:00 就寝
1995年5月28日 (日)
08:00 起床、 シャワー、 身支度
08:15 朝食:ジュース、冷たい果物、味噌汁、焼き魚とご飯
09:00 AshlandのShakespeare 劇場を訪問
10:15 Rogue Valley 国際空港へ向かう
10:30 Rogue Valley 空港着
10:55 UALにてSan Francisco へ
次に予定表につき一寸説明しましょう。主要な点と見所は次のとおりです。
先ずJacksonvilleの町。
この町はアメリカの西部の標準では古い町で1851年の金鉱発見に始まります。町全体が国の歴史的記念物です。この町をドライブするとイギリスのビクトリア時代の家並みを見られます。オモチャのお店や民芸品、クラフト店、金細工の店などもあります。まだ今でも金を掘っている人々がいます。
Medford の町は1900年に鉄道が通った時に出来ました。鉄道はBear Creekの平地を通りやってきました。Bear Creek会社は日本により保有されていますが、ここにはあの有名なHarry & David’sの果物とJackson & Perkin’sのバラがあります。
昼食はヒッコリーで燻らせ串刺しのローストチキンこれは私の妻と私が35年かけて作り上げた調理法によるものです。この味を出せるレストランを買収するために オレゴン州まで6回も足を運びました。チキンが好きでしたら、きっとこの味を好むと思いますよ。BeGayle Chickenにはトマトソースの甘いケチャップは絶対にかけません。私の友達で東京のStars & Stripes新聞から戻ってきて、今Los Angeles Timesで働いている男が、このチキンを美味しがりとうとう一匹丸ごと食べてしまったほどです。そして、BeGayleのポテトサラダは特別の味ですよ。必ずしもTexas風ではありませんがね・・・。
食事の後すぐ、Highway 62をCrater Lakeに向かいます。途中Lost Lakeと魚卵の孵化場に立ち寄りましょう。Crater Lakeは8,000フィートの高さにあり、まだ雪が残っているため6月15日までは山頂の小屋とレストランはオープンしていないでしょう。
山頂の周りを眺め、写真をとり、コーヒーを飲み、除雪されている道が続くところまで山頂の縁をドライブしましょう。
ビーフステーキがお好きでしたら、BeGayleのリブアイステーキをきっと好むでしょう。この焼き方の秘密は赤外線のキッチン・ブロイラーを使用することにあります。きっと奥様と娘さんには興味があるのではと思います。焼いたポテトの中身をスプーンですくいだし、練りつぶして小さな海老と青い玉葱を詰め、それをポテトの川の中に詰戻しブロイラーでもう一度火にかけます。この調理を前もって済ませておき、Crater Lakeの旅から帰ってきてから、ブロイラーに入れれば15分ですぐ食べられます。ほんの一杯お酒を飲んでいる間に出来上がります。
夕食後、 私とY君とが昔の話をしている間にBeGayleが奥様と娘さんにアメリカの調理法を伝授してあげるでしょう。女性たちで小さなオートミールのクッキーを作ってくれる筈です。
土曜日の朝食は1930年代の Atcheson、Topeka & Santa Fe鉄道の世界的に有名なSuper Chief食堂車の料理長の作ったVincent Price 料理法の本からとったものです。
まず、Super Chiefのフレンチトーストを温かいオーブンでふわっと膨らませます。このやり方は50年以上も知られていなかった秘密です。Super ChiefはLos AngelesとChicagoの間を映画スターや有名人を運んだ列車で、New Yorkへ急ぐ人たちにもペンシルバニア鉄道に乗り継がしたものです。
食後、Grand Passの町を通りRedwood HighwayからIllinois川の流域とSmith川の谷間をぬけ、カリフォルニア州の太平洋海岸を目指します。Oregon>の洞穴にはもう一日停まらねば立ち寄るのは無理でしょう。でも途中で景色のよいところで止まり、写真をとることにしましょう。
Jedediah Smithという人は昔のアメリカの山男で斥候でしたがアメリカの西部を開拓した人です。私たちはこの人に因んだJedediah Smith州立公園の杉の巨木を通り抜ける道をドライブします。BeGayleによれば日本人にはこの杉の巨木の方がCrater Lakeよりもむしろ印象的なのではと言っています。本当に巨大な杉の木は驚異的だし、この公園は世界でももっとも自然が保たれているし、杉の巨木は地球上の最大の生物だろうと思います。
昼食にはChart Roomレストランに行きます。このレストランはCrescent市のCrescent湾の波止場に突き出て位置しています。Crescentの町を見るのは辞めておきましょう。この町は社会的、文化的、経済的いずれでも惨憺たる町です。しかしこの町は唯一Pelican Bay州立刑務所(世界で最も厳しく誰も脱走出来ない)で知られているのです。
昼食後、数分間南に走りMistery Houseに立ち寄りましょう。そこには大きな木彫りの創作上の樵‘Paul Bunyan’とその青い雄牛Babeがあり、子供たちには喜ばれています。この場所はあるドイツ移民の家族により所有されており賑わっています。ここに立ち寄るのはインディアン博物館を訪ねるためです。彫り物、織物、絵画、壷などに興味があるのでしたら、この南西インディアンの博物館は面白いでしょう。また、ここには太平洋北西インディアンの記録が収録されています。巨大な宴会用の鍋、トーテムポール、彫刻された鳥、羽、嘴とかともかくビックリするものが沢山あります。
その後、Crescent市とEurekaとの間の巨木杉林をドライブします。そこで写真をとりましょう。
海岸から戻る時はGrand Pass(峠)のタイ料理店(静かな佇まいの立派なレストラン)で食事をするか或いはカリフォルニアのゴールドラッシュ時代のMountain Mike’sというオレゴンでも最も新しく美味しいPizza料理にするか後で決めましょう。君の娘さんも日本へ帰る前なので、きっとPizzaを好むのではと考えたのですが・・・。このMountain Mike’sというお店は菜食主義者向けからルイジアナ風のスパイスの利いたものまで色々なPizzaを作ってくれます。また、貝類のソースを使った美味しいパスタも食べられます。
帰宅してから、もっと会話を楽しみ、冷たいフルーツとお茶とクッキーで夜の仕上げをしましょう。
日曜日の朝余り時間が無いのですが、早起きし朝食をとります。飛行機で気持ちが悪くならないように日本食のほうが良いでしょう。それからAshland市まで出かけてみましょう。
この町はMedfordの南にある文化的、教育的中心地です。この町はスキーに良いAshland山の丘陵地帯に位置しており南オレゴン教育大学のホームタウンです。50年前にシェイクスピア祭が最初に行なわれたのはこの大学の町で、現在ではこの祭りは発展してより大きな劇場会社により運営されています。シェイクスピア劇を勉強したい人はLondonに行くかこのAshlandに行くかありません。劇の上演は2月から10月まで続きます。AshlandはSan Franciscoの縮図と言えます。有名な小さなお店では美術品、民芸品、金、宝石、貴金属、本、 輸入品、家具、絵画やイギリス、イタリア、フランスの有名なレストランでの食事やベーカリーのクッキーなどが楽しめます。Ashlandだけでも一週間は過ごせます。小さいが素敵な町です。そして最後に空港から皆様がヒューストンと東京へと飛び立ちます。
付録2.
最後に、1955年当時PeterさんがY君宛に送ってきたリーダース・ダイジェストの訳文をご披露します。
友情の根
リーダース・ダイジェスト編集長 様
非常に特別な理由から、ある古いお話を想い出してみたいと思います。
私は1904−05年の日露戦争の時、東京市長でした。アメリカはその時もそれ以降も日本に対し大変友好的でした。この好意に何かお応えしたいという強い機運が私たちの中に広がりました。
1909年その機会がやってきました。アメリカ大統領ウイリアム・ハワード・タフトの奥様が日本の桜の樹をワシントンのポトマック河の河畔に移植したいと希望していることを知りました。
私は東京市議会に桜の樹を贈呈することを提案し、全会一致での賛成を得て、高さ7−8フィートの桜の樹3000本を贈ることになりました。
不幸にして、この3000本の樹がアメリカの太平洋岸の港についた時、害虫に感染していることが判明し、全量焼却処分されてしまいました。アメリカの国務省は大変困惑しながらも、その事実を知らせてきました。
私は「心配ないで下さい。なぜなら、桜の樹を切り倒した事実を正直に言うのはジョージ・ワシントン以来のアメリカの伝統なのですから。」とご返事しました。
私たちはこれで諦めはしませんでした。日本の農務省は特別な無菌室で新しい苗木を育てました。そして3年後アメリカ向けに出荷され、ポトマック河の河畔に植えられました。
それ以来、 私はアメリカを訪れるタイミングを桜の花のシーズンに合わせるようにしています。そしてこの桜の花の下をドライブする時いつも想い浮かべるのは人間と国家の生命を形作る運命についてです。
アメリカと日本は友人でした。敵として戦いました。そして現在、私たちは永遠の友人であると深く信じています。私はこの桜の樹がこの「友情の根」を生かしつづけるために、少しでもお役にたって欲しいと願っています。
そして何故そんな風に言うのかですって? リーダース・ダイジェストの日本語版は戦争以来、毎月数十万部以上が日本の男女により読まれてきました。そして西洋の民主主義につき実に多くのことを教わりました。私たちの桜の樹もアメリカ人にとりそうであって欲しいと願っていますが、リーダース・ダイジェストは太平洋をまたいで私達友人との一層緊密な個人的コミュニケーシオンをもたらしてきたからなのです。(訳)
YUKIO OZAKI(東京市長 尾崎行雄)
平成19年4月3日
篠塚 美郷(しのづか よしさと)