第14話
 自分史「英語ができたらこんなに楽しい・・・!」
 

 
ソンブレロ型小宇宙、地球から2,800万光年
 
        
    アリ型星雲、地球から6,000万光年      円錐形星雲、地球から2,300万光年
 
Hubble宇宙望遠鏡で捉えた星雲のいろいろ。(ピター氏の提供)
 
 
「主な対象読者」

 中学生から高校生までの自分の将来を具体的にまだ決めていない生徒さんを主な対象読者として意識して書きました。

 英語を学ぶと必ず私のようになるとは決まっていません。将来は国際的に活躍してみたいと考えた一人の若者の例として考えてください。
 
 
 
 
本 文 目 次
1.はじめに
2.アメリカ兵のジープが酒屋に突っ込んだ
3.英語の勉強
4.高校で本格的に勉強開始
5.ピーター・モー氏との出会い
6.東京での大学生活
7.社会人として商社マンになる
8.40年ぶりピーター氏との再会
9.在日外国人支援のボランティア活動
10.さいごに
付録1.Y君一家の予定表
付録2.友情の根 東京市長 尾崎行雄
 
著作 篠塚 美郷
 

 
第14話 自分史「英語ができたらこんなに楽しい・・・!」
 
1.はじめに
 英語に興味をもつようになったキッカケや英語ができるようになって得したと思うことなどについて、外国語を使って外国の生活が長い先輩としての立場から、これからの自分の将来を模索している若者に語りかける原稿を書いてもらえないかとの依頼をうけた。
 
 

自由の女神
 
 編集者からの要望は、単に英語の勉強法を紹介するのでなく、商社マンとして国際的に活躍して得したことは何であったのか、通常は余り他人には話さない自分史的な「英語ができたらこんなに楽しい!」をまとめることにあった。自分で自分の過去を語るのは少し恥ずかしいこともあるが、それが新鮮な内容になるかと思い、勇気をだして英語にまつわる自分史をここに紹介することにした。中学生から特に低学年の高校生にわずかでも参考になることがあれば望外の喜びです。
私は埼玉県ののどかな田舎に育ち、地元の高等学校に電車で通った。ここに紹介する話は、東京の浅草から栃木県の日光に向かう東武電車で1時間ほどのところにある利根川沿いの栗橋町から始まり世界へと広がります。そして私はY君として登場します。
 
2.アメリカ兵のジープが酒屋に突っ込んだ
 Y君は1937年に利根川沿いの静村(しずかむら)で生まれました。村名の由来は源義経の奥方で白拍子・静御前(しずかごぜん)といわれており、現在は栗橋町の一部で駅前には「静御前の墓」があります。
 Y君の家の前には八坂神社の境内が広がっていました。この境内には終戦まで日本の兵隊さんが駐屯していました。近くの利根川には日光街道(国道4号線)、東北本線、東武日光線の三本の鉄橋がかかっており、それを守るための日本軍の高射砲陣地が近くにあったためでしょう。
 
 Y君が栗橋小学校2年の時、戦争も終わり、日本の兵隊さんもいなくなりました。入れ替わりに、この境内にアメリカの進駐軍がキャンプをはり、住民はみな不安の目で、それまで敵として戦っていたアメリカ兵をそっと見つめていました。初めての異邦人との遭遇でした。親たちは子供たちにアメリカ兵には近づかないように言いつけていました。特に女の子には厳しかったようでした。
アメリカ兵は間もなく何処かへ異動し、神社の境内はY君たちの遊び場になりました。
 
 Y君は野球が大好きで、学校から帰るといつもこの境内で近所の仲間と野球をして遊んでいました。そんなある日、神社の正面入り口の近くで、何かが壊れたような大きな物音がしました。Y君たちは野球をやめて現場へ走っていきました。
 そこには、既に大人たちの人だかりで中は見えませんでしたが、Y君は大人の足の中を潜り抜け一番前に出ました。ビックリしたことに、そこにはアメリカ兵のジープが酒屋さんの店先に飛び込み、ガラス戸や酒、醤油の一升瓶(びん)をメチャメチャに壊し、アメリカ兵が何か大声で叫んでいる光景を目にしました。怪我人(けがにん)は出なかったようでしたが、酒屋の主人も日本語でブツブツ言っているだけで、お互い全く意味が通じていませんでした。取り囲んだ大人たちも誰一人言葉を理解できるものが無く、人間と動物との関係に似たやり取りを目の前に見た、この瞬間に言葉がもつ意味の大切さを子供心に知ったような気がしました。
 
 そのとき、誰か大人が近所のK君なら学校(大学か高校)へ通っているので、言葉がわかるだろうと言いだし、K君を呼びに行き連れてきました。K君も慣れない様子でしたが、何とか意味が通じたようでした。「損害代の弁償(べんしょう)はするが、絶対に警察とかMP(米軍の警察隊)に通報してはいけない」ということだったようでした。そのあと、大人たちが素手でジープを店先から引っ張り出すのを手伝いました。帰り際、黒人兵が口に手を当て、両手でタオルを絞るような身振りをし、笑みを浮かべて去っていきました。この身振りを「MPに通報すると殺すぞ!」と言っているのだろうと、大人たちが解説していました。
 後味の悪い光景でしたが、Y君は通訳をしたK君を「米兵と対等にわたりあった力と勇気は凄いなー!」と感心していました。
 
3.英語の勉強
 中学に進み英語の授業が始まりました。小学校卒業の少し前に6年生の担任T子先生からアルファベットのローマ字を習いましたが、英語の勉強は何もしていませんでした。
 最初のうちは英語の授業は面白くありませんでしたが、Y君は隣町の女子高校に通っていた姉のI子から英語文法の手ほどきを受け、英語と日本語の違いが解るようになり、少しずつ英語への興味が湧いていきました。特に英語のH先生が授業の最後の5分間に自分が見て来た外国映画のストーリィと情景を興味深く少しずつ話してくれるので、クラスの皆が英語の授業を楽しみにして待っていました。
 当時の外国映画で、サムソンとデリラ、血と砂、硫黄島の砂、数々の西部劇などはY君にとっては凄く刺激的で外国・世界への興味と憬れを抱くきっ掛けとなりました。そして英語が一番好きな科目になっていきました。
 
 一方、Y君は野球も大好きでした。クラブ活動では野球部に所属し3年生ではキャップテンとして活躍、近県中学校野球大会で優勝しました。野球部は八坂神社の神主さんが浦和商業高校の先生の傍ら、地元の栗橋中学の野球部を監督指導してくれていました。この神主さんはY君たち野球部の生徒に「これからは英語が大切になるので勉強しなさい」と神社の本殿を開放し課外授業をしてくれました。寺子屋ならぬ「神子屋」の英語塾でした。
 
4.高校で本格的に勉強開始
 1953年4月、埼玉県立春日部高校に入学しました。 高校入試勉強の苦労が身に沁み、部活では野球部をあきらめ、語学部に所属しました。秋の文化祭での英語劇が最大のイベントでした。1年生の時はグリム童話の「ハメリンの笛吹き男」に出演させられました。2年生の10月、埼玉県高等学校英語弁論大会が行なわれることになりました。
 そしてY君が学校を代表して参加することになりました。この為、まず原稿作りから始めねばなりませんでした。
 
 当時は日本全体が終戦の廃墟からやっと立ち直り、復興への期待をもち始めていましたが、人口増加と就職難という苦境下、国も海外移住を奨励し、横浜港からは毎月1,000人以上もの農業移民が南米へ夢を抱いて発って行きました。そんな時代でもあり、Y君は図書館に通い詰め「移民の重要性」というタイトルの原稿をまとめ、これを自分で英訳し、中学時代の英語のH先生や語学部の先輩仲間に手直しをお願いしました。
 
 Y君は東武日光線で栗橋―春日部を電車通学していました。そして帰りの電車の中にはアメリカ人の兵隊やその家族が日光方面への休暇旅行のため乗っていました。Y君は春日部駅のホームに電車が入ってくると乗客の髪の色で外国人を見分け、その外国人の乗っている車両に乗り込み、英会話のお相手をお願いしました。最初の内、Y君には大変な勇気が要りました。周りの乗客は聞き耳を立てており、恥ずかしさから思うように喋りだせませんでしたが、毎日色々なアメリカ人と話すようになり、話題や表現用法も巾が広がり、会話のリズムに乗れるようになっていきました。そして毎日毎日の帰宅電車が楽しみになっていきました。
 
 弁論大会の英文原稿が完成、いよいよ実践の練習に入らねばなりませんでした。Y君はスピーチでは英語の文章表現もさることながら、聴衆が聞いて解りやすいことが重要と考えていました。このため、帰宅電車の[会話教室]アメリカ人に自分のスピーチを聞いてもらって、おかしな文章表現や、発音、抑揚などを指導してもらったりもしました。又帰宅後、利根川の川面(かわも)に向かって英語の発声練習をしていたところを隣近所のオバサンに見られ、「Y君の頭がおかしくなった。」などと言いふらされたりしました。
 
 弁論大会は県下の二十数校から代表者が参加、Y君は二等賞を獲得しました。翌年10月、同様な弁論大会が行なわれ、3年生でしたが同じくY君が「文化国家の建設に貢献しよう」というタイトルで参加しました。この時は三等賞となりました。
 何れの大会も、埼玉県の成増にあったアメリカン・スクールの英語の先生が審査員をつとめていたとのことで、アメリカ人を踏み台にしたY君の[電車会話教室]作戦は成功であったかも知れません。
 
5.ピーター・モー氏との出会い
 1955年4月、三年生の1学期のことでした。背広姿でカメラを持った25歳前後のアメリカ人男性と会話をしていました。学校のこと、英語が好きなこと、将来の夢などを話したように思います。この人はアメリカ極東空軍の従軍記者でカメラマンでした。これから日光東照宮と金谷ホテルなどの特集記事の取材に行くところとのことでした。
 25分ほどがすぐに過ぎてしまいました。電車が栗橋駅に着く直前、「東京に来る機会があれば是非自分の事務所を訪ねて来なさい。」と名前と住所を書いたメモをくれました。
Peter A. Moe
8, 1-chome, Marunouchi, Chiyodaku, Tokyo
 
 Y君は帰宅後すぐPeterさんとの会話の内容を両親に話しました。そして、早速Peterさんとの文通がはじまりました。当時のPeterさんからの手紙を読んでみると、Y君が何を考えていたのか、その一端が浮かんできます。少しながくなりますが、その一部を紹介します。
 
ピターさんとY君との往復書簡
 
Tokyo、1955年5月26日
親愛なる Y君へ
お手紙興味深く読みました。ここのところ忙しくて返事が遅くなり御免(ごめん)。新聞の印刷で徹夜が続いたものだから・・・。その上、今週は名古屋と京都に休暇で行くので、事前に特集記事を用意して他の仲間に迷惑の掛からないようにしたのでね。
Y君、君の自己紹介有難う。私もこの友情がいつまでも続くことを願っているよ。
 
それでは、自分自身のことをお話しよう。
1929年 北ダコタ州生まれ。出身住所はオレゴン州ユージン。学校はオレゴン大学で2年間ジャーナリズム学科を専攻、兵役終了後、あと2年間履修が残っています。
アメリカの学校はGrade school (8年)、High school (4年)、College(4-7年)・・・・
アメリカではHigh Schoolの終了証書があれば誰でも州立大学には入れます。 問題はお金です。大学は授業料、寄宿費などお金が掛かります。特に私立大学は高額です。私立の合格基準は難しい試験をパスする頭脳と高額授業料の支払いに耐え得る財力があるのかどうかという二点だけなのです。
 
日本と極東地域に関する自分の感想をお伝えしましょう。
東京に来る前には韓国に1年と名古屋に6ヶ月いました。西インド諸島、中南米にも2年いました。これらの国々は歴史的にも生活様式でもアメリカとそれほど違いはありません。
しかし極東地域は全く違っています。一番の違いは宗教への関わりだろうと思います。
ここでは、西洋諸国ほどには日々の生活で宗教は重要な役割を担っていません。しかしアジアでは儒教(じゅきょう)的な倫理観(りんりかん)−生活が宗教と同じ役割を果たしているように思います。
極東での経験で私の人間に対する見方が変わりました。
残念ながら、多くの人々は旅に興味が無いか出来ないでいます。自分の生まれた町から一歩も出ない人々が大勢います。
旅は人々を観察し創造力を湧かせるので、Y君の「旅への興味」を賞賛します。君の将来の夢である「ジャーナリズムとか外交官」への野心の実現には旅は役立つでしょう。
しかし、アメリカだけが、外国と思わないほうが良いと思います。旅すればどんな外国でも人々の生活、文化、問題点、興味などに触れることが出来ます。もう一つ大切な点は外国映画、雑誌、本や新聞記事は必ずしもその国の真の姿を映しているとは限らないということです。それは自分自身がその国を訪ねて初めて理解できるものなのです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・歌舞伎、カウボーイのお話、ヘンリーフォードの成功物語、アメリカの効率志向・・日本の人海作戦による企業経営形態、日本の失業問題と解決策等など・・・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Y君、君はこれが長い友情の始まりとなるよう望んでいるといっているが、自分も同感です。アメリカに帰ってから、日本の様子も知りたいし手紙を書く友達がいることはとても素晴らしい事です。出来れば近い将来東京に出て来て下さい。自分が働いている場所を案内したいと思います。そして自分も君の住んでいる田舎を訪ね、君の家族にもお会いしたいと思います。自分の両親も農業に従事していました。きっと日本の農家の様子を聞きたがるだろうと思います。6月8日までには東京に戻ります。 連絡をお待ちします。
                            敬具
Peter A. Moe
 
1955年7月9日
親愛なるY君へ
お手紙有難う。又返事が遅くなりごめん。京都から返ってきたら、新しいボスが来ていて、これが新聞のことを何も知らないので、衝突してしまった。でもこの男は6月26日去り、又新しいボスが来てね。この人はすごくいい人で安心したよ。今度は自分の部下が父親の病気のため、アメリカに帰ってしまった。そのため、交代を見つけ、東京に慣らし、仕事を教えこむのに2週間ほど掛かってしまってね。
返事が遅れたもう一つの理由は「お祝いの催し」を計画していた為なんだ。君も知っているように7月30日には隅田川で花火大会があるね。この時が君を東京に招待する理想的なタイミングと思っていたのさ。でも座席がとれるかはっきりするまで、言うのを待っていたのだが、今日、隅田川沿いの座席が取れることがはっきりしたんだよ。
7月30日は土曜日なので週末を一緒に過ごすことにしよう! Y君、浅草駅に12時までに来てくれないか。駅に迎えに出るから。若し東京を良く知っているなら、地下鉄で京橋まで来てくれても良いよ。いいかな、必ず返事を下さいよ!
Peter
 
1955年7月30−31日
 7月30日(土)、Y君は東武電車に乗り、約束の12時少し前に浅草駅に到着しました。Peterさんが微笑みながら手を振って迎えてくれました。お互いに再会を喜びました。
二人は地下鉄で銀座まで行き、イタリアン・レストランに入りました。Y君はPeterさんに勧められるまま、Pizzaを注文しました。Y君にはこの時のチーズの匂いと味は初めてであり強烈な印象を与えました。以来いつPizzaを食べてもこの時の事を思い出しました。ジャズを演奏しているホールにも入りました。土曜日の休暇でもあり、中はアメリカ兵で溢れ、凄く賑やかでした。Peterさんの案内できれいな銀座のお店を眺めながら歩きました。全ての商品がY君の田舎では見られないものばかりで驚きでした。
 
 暗くなる前に、花火会場へ向かいました。Peterさんは隅田川沿いで両国駅近くの5階建てホテルの屋上に二人の座席を予約してありました。屋上に上がると、既に100人以上の外国人がテーブルを囲み、ビールやせんべい、焼き鳥、サンドイッチなどを前に談笑しながら、花火の開始を待っていました。周りの人は全て外国人。二人のテーブルからは眼下に隅田川が流れ、川の両岸には何十万人もの人々が詰めかけ帯のように見えました。
 
 夕闇とともに、花火が始まりました。青、ピンク、黄、紫、緑色の火花が続けざまに眼前に炸裂(さくれつ)、そのたびに東京の町じゅうが昼間のように浮かび上がりました。Peterさんはカメラを持参するのを忘れ、しきりに残念がっていました。特に最後の仕掛け花火の連発発射には皆立ちあがり、大歓声を挙げていました。
 
 花火が終わってから、丸の内の「将校クラブ」に連れて行かれました。一般の日本人、ましてや18歳の高校生の入れるクラブでは無い筈でしたが、Peterさんは入り口で特別に許可を取り付け、Y君を中に入れました。生バンドによるJazz演奏、プロ歌手の唄、ショウダンサー達の踊り、ウイスキーや豊富な食べ物、酔っ払い将校などアメリカ兵士たちの「東京の夜の顔」を覗き見したような思いでした。
 
 クラブを出た時は真夜中でした。PeterさんはタクシーでY君を千鳥が淵(ふち)の「三番町ホテル」まで連れて行きチェックインし、「明日の朝、9時に迎えに来るので、それまで部屋で待っていなさい。」といって、去って行きました。
Y君は一日の出来事を回想し興奮の余りすぐには寝つかれず、朝は5時過ぎに路面電車の走る音で目を覚まし、早くから部屋の中をうろうろしていました。
 
 7月31日(日)、10時過ぎに部屋の電話が鳴り、Peterさんがロビーで待っていました。Peterさんは「今日は給料日で列を作り並んだので、迎えが遅くなりごめん!」と言いました。Y君が「Peterさんが本当に迎えに来てくれるかどうか心配で、良く眠れなかった。」と答えたら、大笑いしていました。実際にホテル代を自分で払えるほど十分なお金を持っていませんでしたし、兵隊が給料をもらって生活しているなど考えもしなかったのです。
 
 二人はタクシーでPeterさんの事務所に行きました。東京駅の前の「新海上ビル」の中にありました。新聞の編集作業室や図書館があり、アメリカ本土からの新聞が並んでいました。一日の新聞が100ページ以上の分厚いものばかりでした。当時の日本の全国紙はせいぜい4−6ページ程度でしたので驚きでした。Peterさんが何人かの新聞記者や同僚を紹介してくれました。そして新聞が出来るまでの工程を色々と説明してくれました。
 
 当時はまだ丸の内界隈(かいわい)の主だった建物は進駐軍に占有されていました。二人は新海上ビル向かいのOld Banker’s Buildingの地下にあったレストランで昼食後、お別れすることになりました。別れ際Y君は2日間の手厚いもてなしに、「楽しい東京の休日」をありがとうと言いました。当時、オードリー・ヘップバーン主演の映画「ローマの休日」が上映され日本中で大変な人気でしたが、Y君はあたかもその主人公Princessならぬ「Prince」になったような気分でした。そしてその夢のような気持ちを「東京の休日―Holidays in Tokyo」と表現したのでした。
 
6.東京での大学生活
 9月になり三年生の2学期が始まりました。Y君は自分の将来を「海外志向」と決め、東京外国語大学への進学を決意していました。Y君には経済的な理由からも浪人生活は許されませんでした。それ故、失敗したら大学をあきらめ、大工の修行に出ようとまで考えていました。当時外語大は国立二期校の人気大学で競争率は25倍に達する難関でした。夢は海外雄飛、失敗すれば大工修行という選択肢の中、合格しました。専攻語学は英語弁論大会での「移民の重要性」の影響もあって、南米の将来に期待しポルトガル語科を受験しました。英語は第二外国語として履修することが可能でした。
 
 受験準備で多忙なためPeterさんとの文通も途絶えがちでした。しかし1955年11月の時点で志望大学だけは手紙で連絡していました。しかしその後Peterさんからの返信もなく、音沙汰は全く途絶えてしまいました。恐らく韓国の基地に移ったか、沖縄に転属となったのだろうと推測していました。或いはアメリカに帰ったかも知れませんでした。従い、翌1956年3月の大学合格の知らせもPeterさんには届けられませんでした。
 
 ポルトガル語科の合格者は20名でした。日本全国からやってきた男子だけの仲間たちでした。年齢も18歳から22歳まで差があり、皆夫々、将来は海外(特に南米)で活躍したいとの夢を抱いていました。クラブ活動では高校時代に封印していた硬式野球部に所属しました。クラブでは色々な言語科の仲間が居り、後の人生の財産になりました。
 
7.社会人として商社マンになる
 4年生になり、就職活動の時期になりました。当時は多くの日本企業が海外の拠点造りに動き出し、特に商社、銀行、海運などを尖兵(せんぺい)として、資源開発、製造業も海外進出を目指しつつありました。Y君は大学からは関西系のN商社、M商社、F銀行への推薦を受けましたが、最終的には野球部の先輩の強い勧めもあり、南米での鉱物資源開発計画を進めようとしていたN商社への入社を決めました。
 
 Y君は1960年4月、商社マンとしての第一歩を踏み出しました。国内業務に始まり、東南アジア、アフリカとの海外貿易業務を経験後、1972年から待望のブラジルに6年半、1983年から西ドイツに5年の海外勤務が続きました。
 

リオのカーニバル
 

ベルリンの壁
 
 この間ずっと心の中で、1955年11月から音信不通になっていたPeter A. Moeさんとの再会を願っていました。しかし、企業戦士としてアジア、アフリカ、南米、ヨーロッパなどの多くの国々を旅しても、遭遇することはありませんでした。
 

オレゴンのセコイア杉の巨木
 
 1992年、アメリカ勤務を命ぜられ、ヒューストンに赴任しました。そして念願だったPeter A. Moeさん探しを始めました。秘書の助けも得て国防省や退役軍人会などに問合せましたが全く手がかりはありませんでした。
1960年代から70年代初めにかけてのベトナム戦争もあり、戦死したかもしれないとの憶測もかすめ諦(あきら)めかけていた矢先、在東京のPacific Stars & Stripes社 編集長Robert Trounson氏から返事がきました。Pacific Stars & Stripes社宛には1955年Peterさんが歌舞伎座で長谷川一夫にインタビューしたときの写真を添えて問合せをしていました。
 

歌舞伎座で長谷川一夫とインタビュー  右から二人目がピーター氏
 
1994年1月19日
拝啓
お手紙受け取りました。Peter A. Moeさん(右から二人目)と有名な俳優である長谷川一夫さんとのインタビュー写真有難う。大変に貴重な興味ある写真です。
この写真を在カリフォルニアPacific Stars & Stripes社のAlumini(OB会)に送ろうと思います。
AluminiはOB向けに月刊誌を発行していますので、この写真を載せてくれるかも知れません。私自身はPeterさんとは面識がありませんが、Peter Craigmoeという人が月刊誌に時々寄稿しているのを覚えています。お尋ねのMoeさんとCraigmoeさんが同一人物か分りませんが、下記のAluminiと連絡をとってみて下さい。
            Mr. Maurice Martin
            20540 Leonard Road
            Saratoga, CA 95070
            Tel. (408) 867-4179
敬具
Robert Trounson
(PS&S編集長)
 
Y君は早速Martin氏と連絡し、Peter Craigmoe氏の住所が判明しました。
            22362 Platino Way
            Mission Viejo, 92691 California
            Tel. (714) 768-9342
 
40年ぶりに聞けるかも知れないPeterさんの声を期待し、ダイアルしましたが、留守番電話の声で、「一週間ほど前に転居したこと、新住所は未定である」との内容でした。
その後も秘書の懸命な努力もあり、遂に新転居先が判明しました。
            2765 Janipero Way
            Medford, 97504 Oregon
            Tel. (503) 773-6340
 
8.40年ぶりのピーター氏との再会
 Y君は緊張してダイアルしました。男性の声が返ってきました。まず自己紹介をし、Peterさんであるかどうか確かめるため「隅田川の花火」の話をしました。暫くの沈黙のあと「かすかに覚えているあのときの少年か? 今何処にいるの?」「ヒューストンにいます。ここに住んでいますよ。」「それは驚きだ。是非会いたいな」こんなやり取りでお互いの無事を喜び合い、近い将来の再会を確約しました。
 間もなく、Peterさんから、分厚い封筒が届きました。中には1955年にPeterさんにY君が書いた手書きの英語の手紙とPeterさんの日記の抜粋が入っていました。彼は、万が一に戦死した場合を想定して、兵役中の自分の記録を残すため手紙や日記を全て米国の母親に送り保管をしてもらっていたとの事でした。まえに記載したPeterさんからの手紙はY君は自分で保管していましたが、Peterさんに出した手紙が自分のところに戻ってきたのです。
 
 その後、Houston―Medford間の電話や手紙での交信を経て、Y君は1955年Memorial祭日の休暇を利用し、妻及びたまたま日本から両親を訪ねていた次女を連れてPeterさん一家を訪問することになりました。
 1995年4月13日
Y君へ
奥様と娘さんと一緒に当地を訪問できるとのこと大変嬉しく思います。5月26日は丁度Memorial祭日の初日で、戦争で亡くなった友人や親戚の人々を思い出す日です。先週は雪が降り毎日雨模様でしたが、5月になればきっと良い天気が続くでしょう。Medfordの富士山と呼ばれるThielson山を御覧に入れましょう。
 
ここに皆さんの行動予定表(末巻の付録参照)を同封します。君と電話で話した感じでは君は世界の色々な国で生活した様子なので、食事の好みも国際的なのではと推測します。いずれにしても、このリストから外したい食べ物があれば連絡ください。変更しますから・・・。
ホテルに泊まらずに是非とも我が家に泊まってください。一階にはとても大きな部屋があります。カーペットも新しいし、家具も整っています。シャワーと洗面所は二階ですが、パジャマを着ていれば行き来には問題ないでしょう。
実は私の妻のアイデアですが、我が家に泊まればお金を節約するというよりも、時間を節約できます。そうすれば夜遅くまでお話をしていられるし、朝早く起き忙しい日程をこなすのに大変好都合でしょう。
 
では私の自伝的な背景を教えてあげましょう。
ノルウエー人の両親のもとに北ダコタ州で誕生。1958年に沖縄のMorning Star新聞で働いていた時、名前をCraigmoeと改めました。この名前は伝統的なノルウエー人家族のLillie-Krokmoというなまえに近いのです。Lillieの意味は「小さい」、KrokhaCraig=山の牧草地あるいはスコットランドの荒れ野を意味しています。ノルウエーではKrokmoという名前はKraagmoとかCraigmoとかCraigmoeとも書きます。ノルウエーから来た移民の中にはEllis島(ニューヨーク)の移民駅に着いたときに自分の名前をCraigとかMoeとかに改めた人たちがいました。去年のリリハンメル冬季オリンピック(ノルウエー)の時スキーで金メダルをとったアラスカのTommy Moeもその一人です。
 
さー、みなさんのお好みについて教えてください。ビール、ワイン、ウイスキー、ラム酒はお好きですか? 私たちはどれも大好きです。若しホテルに泊まったほうが良いとお考えでしたら、早めに知らせて下さい。丁度祭日の週末にぶつかり予約が早めに一杯になってしまいますので。娘さんのお名前を教えて下さい。 皆さんの趣味とか興味のあるものなども。限られた時間を最大限に使うため調整出来ますので。日一日、皆様の到着を待ち望んでいます。
Peter
 
 1995年5月26日、Y君は家族を伴いHoustonからオレゴン州Medford国際空港に到着、出迎えたPeterさんと40年ぶりの再会を果たしました。感激でした。ドラマのような一瞬でした。お互い健康で再会できたことを喜び合いました。
 
 その後の3日間はPeterさん一家と寝食を共にし、ドライブ、観光、食事、お話で分刻みのスケジュールを過ごしました。特に夕食後の団欒(だんらん)では夫々が歩んできた40年間の仕事のことや家族のことなど話は尽きませんでした。Peterさんは米国の石油掘削会社の広報担当オフィサーとして世界を駆け回ったとのこと、一方、Y君は商社マンとして石油化学分野で動き回り、お互い何か共通するものを感じました。そして恐らく世界の多くの場所ですれ違いながらも、遂に再会出来たのです。(Peterさんが用意した意欲的な行動日程表を最後に付録として収載します。)
 
 Y君は1997年1月、米国での任期を終えて帰国しました。
1997年3月、商社を定年退社し、その後4月初旬から米国カリフォルニア州の企業に職を得て、再度、妻を伴いアメリカに渡りました。
Peterさん一家もオレゴンからカリフォルニア州に引っ越してきていました。お互い、車で2時間ほどの距離に住み、感謝祭、クリスマスなど機会あるごとに相互訪問しながら共に休暇を過ごし家族交流を続けました。
 
 
 1999年1月、Y君は米国での仕事を切り上げ帰国しました。2000年10月と2005年5月の2回に亘りPeter夫妻が来日し、横浜のY君宅を宿泊拠点として東京、日光、箱根、冨士、名古屋、京都など、Peterさんが若かりし頃の思い出の場所を訪ねました。Y君夫妻も横浜、東京、日光、箱根、冨士などのノスタルジック・ツアーに加わり、共に日本の旅情を楽しみました。
 
 今度はY君夫妻が2004年6月アメリカを訪問、 ニューヨークではWTCがあったGround Zeroを見学、ヤンキース球場で松井選手のホームランやShinnecock Hillsでの全米オープンゴルフを観戦後、帰途カリフォルニアのPeter邸を訪ね数日を共に過ごしました。
今後とも太平洋を挟んで交流は生涯続くことになるでしょう。
 
9.在日外国人支援のボランティア活動
 かつて多くの日本人が農業移民として南米に渡りましたが、その子孫である 二世、三世、四世までもが日系外国人として家族とともに日本に還流して来ています。多くは日本国内の企業に単純労働者として採用され経済的には必ずしも恵まれた状況にはありません。法律上も十分な保護があるとはいえません。家庭内環境の悪化に伴い、就学児童の不登校や非行化などの問題も起こってきています。このまま放置すれば母国語も日本語も十分に使えない無気力な青少年達がうまれ、社会の不安定要因になりかねません。青少年に夢を与え叶えられるよう問題解決のための手段と支援活動が急務となってきています。
横浜市には現在70,000人を超える外国人が住んでおりますが、国際化の流れの中、毎年増加傾向にあります。行政当局は「多文化共生の街ヨコハマ」を掲げ、外国人生活者にとっても快適で住みやすい街つくりを目指し各所に国際交流拠点を整備し、一般市民にボランティア活動への積極的な参加を呼びかけています。
 
 Y君は市内の国際交流拠点にボランティア登録,在住外国人への一般生活情報の提供や市民との交流行事の企画・運営に参加しています。スポーツでの国際交流として、市内の小学校と在横浜外国人学校・ドイツ学園とのサッカー交流試合は定着化してきており、日独双方の子供たちにとっても異文化交流の良い機会として期待されています。将来は南米系の子弟も加えた国際交流行事に発展させたいと考えています。
 市民通訳ボランティアとしてもブラジル人子弟の小学校入学説明会、不登校問題、進学相談、父兄面談などで支援活動を続けています。2002年のサッカー・ワールドカップでは横浜で決勝戦を含む4試合が行なわれましたが、ポルトガル語・英語の市民通訳ボランティアとしてメディア部門外国人の担当をすることができました。
 
10.さいごに
 外国を訪ねて、その土地の人と対話して初めて、その国の文化、民族、ものの考え方、価値観などを学べる。その土地である人に親切にしてもらった、また感じの良い人とめぐり合えたら、その国を好きになれます。良い国と思うようになります。
 観光旅行で海外の国を訪ねるのであっても、日本語の案内書を片手に観光地を回り、お土産品を買うだけでは、時間も労力も「モッタイナイ」と思います。上手な言葉でなくても、その国の人と挨拶し対話して初めて「人と人とのコミュニケーション」ができ、「人生としての人と人との出会いの場」となります。外国人の親愛感、信頼感、友情などは、言葉が通じて初めて可能となり深まります・・・。 外国語を学問としてまなぶことも大切ですが、しかし、外国語を何かの目的のための手段として用いるために学ぶことも大切・・・。
 外国語は「正しい国際理解」と「自己実現」のための大切な道具なのです。これから自分の進むべき将来をどうするか考えている有能なあなた、外国人が意思を伝えるために使う言葉をもっと真剣に学んでみませんか。きっと輝く未来が開けると思います。先輩からの一言です。
(完)
 
平成19年4月3日
篠塚 美郷(しのづか よしさと)
 
 
付録1Y君一家の予定表
 Peterさんが用意した日程表です。
 
1995年5月26日 (金)
10:07   Medford Rogue Valley国際空港到着
10:30   空港を出発、Jacksonville 見物
11:45   Craigmoe邸に到着
正午      昼食:チキンの串刺しとポテトサラダ
01:00   Fish Hatchery(魚の孵化場)とCrater Lake(火山火口湖)探訪
03:00   Crater Lake着、お店に立ち寄り、火口湖周辺をドライブ
04:30   写真撮影  Crater Lake 発 Medfordへ帰る
06:30   夕食 Craigmoe家でステーキとポテトの詰め合わせ
07:30   食後の散策、 ご婦人たちはクッキー作り
09:30   冷たい果物、 お茶と出来たてのオートミールクッキー
10:30   就寝
 
1995年5月27日 (土)
08:00   起床 シャワー、身支度
08:15   朝食:ジュース、冷たい果物、ベーコン、フレンチトースト
09:00   Redwood Highwayをドライブしカリフォルニア海岸へ
10:00   Doug Dudleyの木彫店に立ち寄る
11:00   Jedediah Smith 州立公園を訪ねセコイア杉の巨木林を通る
        (130Mにも達する大きな杉の木がある)
11:30   Crescent市に向かう(カリフォルニア州)
正午      昼食:South Pier の海鮮料理レストラン
01:00   Paul Bunyan市のMysteryの家を訪ねる
01:30   Southwest/Northwestのインディアン博物館を訪ねる
02:30   杉の巨木林を訪ね写真をとる
03:30   Grand峠を通りMedfordに向かう
06:00   夕食:タイ料理店 (Pongsrii) 或いは Pizza Parlorで
07:30   Craigmoe邸到着 おしゃべり
09:00   冷たい果物、お茶、 クッキー
10:00   就寝
 
1995年5月28日 (日)
08:00   起床、 シャワー、 身支度
08:15   朝食:ジュース、冷たい果物、味噌汁、焼き魚とご飯
09:00   AshlandのShakespeare 劇場を訪問
10:15   Rogue Valley 国際空港へ向かう
10:30   Rogue Valley 空港着
10:55   UALにてSan Francisco へ
 
次に予定表につき一寸説明しましょう。主要な点と見所は次のとおりです。
 
 先ずJacksonvilleの町。
 この町はアメリカの西部の標準では古い町で1851年の金鉱発見に始まります。町全体が国の歴史的記念物です。この町をドライブするとイギリスのビクトリア時代の家並みを見られます。オモチャのお店や民芸品、クラフト店、金細工の店などもあります。まだ今でも金を掘っている人々がいます。
 
Medford の町は1900年に鉄道が通った時に出来ました。鉄道はBear Creekの平地を通りやってきました。Bear Creek会社は日本により保有されていますが、ここにはあの有名なHarry & David’sの果物とJackson & Perkin’sのバラがあります。
 
 昼食はヒッコリーで燻らせ串刺しのローストチキンこれは私の妻と私が35年かけて作り上げた調理法によるものです。この味を出せるレストランを買収するために オレゴン州まで6回も足を運びました。チキンが好きでしたら、きっとこの味を好むと思いますよ。BeGayle Chickenにはトマトソースの甘いケチャップは絶対にかけません。私の友達で東京のStars & Stripes新聞から戻ってきて、今Los Angeles Timesで働いている男が、このチキンを美味しがりとうとう一匹丸ごと食べてしまったほどです。そして、BeGayleのポテトサラダは特別の味ですよ。必ずしもTexas風ではありませんがね・・・。
 
 食事の後すぐ、Highway 62をCrater Lakeに向かいます。途中Lost Lakeと魚卵の孵化場に立ち寄りましょう。Crater Lakeは8,000フィートの高さにあり、まだ雪が残っているため6月15日までは山頂の小屋とレストランはオープンしていないでしょう。
山頂の周りを眺め、写真をとり、コーヒーを飲み、除雪されている道が続くところまで山頂の縁をドライブしましょう。
 
 ビーフステーキがお好きでしたら、BeGayleのリブアイステーキをきっと好むでしょう。この焼き方の秘密は赤外線のキッチン・ブロイラーを使用することにあります。きっと奥様と娘さんには興味があるのではと思います。焼いたポテトの中身をスプーンですくいだし、練りつぶして小さな海老と青い玉葱を詰め、それをポテトの川の中に詰戻しブロイラーでもう一度火にかけます。この調理を前もって済ませておき、Crater Lakeの旅から帰ってきてから、ブロイラーに入れれば15分ですぐ食べられます。ほんの一杯お酒を飲んでいる間に出来上がります。
 
 夕食後、 私とY君とが昔の話をしている間にBeGayleが奥様と娘さんにアメリカの調理法を伝授してあげるでしょう。女性たちで小さなオートミールのクッキーを作ってくれる筈です。
 
 土曜日の朝食は1930年代の Atcheson、Topeka & Santa Fe鉄道の世界的に有名なSuper Chief食堂車の料理長の作ったVincent Price 料理法の本からとったものです。
まず、Super Chiefのフレンチトーストを温かいオーブンでふわっと膨らませます。このやり方は50年以上も知られていなかった秘密です。Super ChiefはLos AngelesとChicagoの間を映画スターや有名人を運んだ列車で、New Yorkへ急ぐ人たちにもペンシルバニア鉄道に乗り継がしたものです。
 
 食後、Grand Passの町を通りRedwood HighwayからIllinois川の流域とSmith川の谷間をぬけ、カリフォルニア州の太平洋海岸を目指します。Oregon>の洞穴にはもう一日停まらねば立ち寄るのは無理でしょう。でも途中で景色のよいところで止まり、写真をとることにしましょう。
 
 Jedediah Smithという人は昔のアメリカの山男で斥候でしたがアメリカの西部を開拓した人です。私たちはこの人に因んだJedediah Smith州立公園の杉の巨木を通り抜ける道をドライブします。BeGayleによれば日本人にはこの杉の巨木の方がCrater Lakeよりもむしろ印象的なのではと言っています。本当に巨大な杉の木は驚異的だし、この公園は世界でももっとも自然が保たれているし、杉の巨木は地球上の最大の生物だろうと思います。
 
 昼食にはChart Roomレストランに行きます。このレストランはCrescent市のCrescent湾の波止場に突き出て位置しています。Crescentの町を見るのは辞めておきましょう。この町は社会的、文化的、経済的いずれでも惨憺たる町です。しかしこの町は唯一Pelican Bay州立刑務所(世界で最も厳しく誰も脱走出来ない)で知られているのです。
 
 昼食後、数分間南に走りMistery Houseに立ち寄りましょう。そこには大きな木彫りの創作上の樵‘Paul Bunyan’とその青い雄牛Babeがあり、子供たちには喜ばれています。この場所はあるドイツ移民の家族により所有されており賑わっています。ここに立ち寄るのはインディアン博物館を訪ねるためです。彫り物、織物、絵画、壷などに興味があるのでしたら、この南西インディアンの博物館は面白いでしょう。また、ここには太平洋北西インディアンの記録が収録されています。巨大な宴会用の鍋、トーテムポール、彫刻された鳥、羽、嘴とかともかくビックリするものが沢山あります。
 
 その後、Crescent市とEurekaとの間の巨木杉林をドライブします。そこで写真をとりましょう。
海岸から戻る時はGrand Pass(峠)のタイ料理店(静かな佇まいの立派なレストラン)で食事をするか或いはカリフォルニアのゴールドラッシュ時代のMountain Mike’sというオレゴンでも最も新しく美味しいPizza料理にするか後で決めましょう。君の娘さんも日本へ帰る前なので、きっとPizzaを好むのではと考えたのですが・・・。このMountain Mike’sというお店は菜食主義者向けからルイジアナ風のスパイスの利いたものまで色々なPizzaを作ってくれます。また、貝類のソースを使った美味しいパスタも食べられます。
帰宅してから、もっと会話を楽しみ、冷たいフルーツとお茶とクッキーで夜の仕上げをしましょう。
 
 日曜日の朝余り時間が無いのですが、早起きし朝食をとります。飛行機で気持ちが悪くならないように日本食のほうが良いでしょう。それからAshland市まで出かけてみましょう。
 この町はMedfordの南にある文化的、教育的中心地です。この町はスキーに良いAshland山の丘陵地帯に位置しており南オレゴン教育大学のホームタウンです。50年前にシェイクスピア祭が最初に行なわれたのはこの大学の町で、現在ではこの祭りは発展してより大きな劇場会社により運営されています。シェイクスピア劇を勉強したい人はLondonに行くかこのAshlandに行くかありません。劇の上演は2月から10月まで続きます。AshlandはSan Franciscoの縮図と言えます。有名な小さなお店では美術品、民芸品、金、宝石、貴金属、本、 輸入品、家具、絵画やイギリス、イタリア、フランスの有名なレストランでの食事やベーカリーのクッキーなどが楽しめます。Ashlandだけでも一週間は過ごせます。小さいが素敵な町です。そして最後に空港から皆様がヒューストンと東京へと飛び立ちます。
 
 
付録2
 最後に、1955年当時PeterさんがY君宛に送ってきたリーダース・ダイジェストの訳文をご披露します。
 
友情の根
リーダース・ダイジェスト編集長 様
 
非常に特別な理由から、ある古いお話を想い出してみたいと思います。
私は1904−05年の日露戦争の時、東京市長でした。アメリカはその時もそれ以降も日本に対し大変友好的でした。この好意に何かお応えしたいという強い機運が私たちの中に広がりました。
1909年その機会がやってきました。アメリカ大統領ウイリアム・ハワード・タフトの奥様が日本の桜の樹をワシントンのポトマック河の河畔に移植したいと希望していることを知りました。
私は東京市議会に桜の樹を贈呈することを提案し、全会一致での賛成を得て、高さ7−8フィートの桜の樹3000本を贈ることになりました。
不幸にして、この3000本の樹がアメリカの太平洋岸の港についた時、害虫に感染していることが判明し、全量焼却処分されてしまいました。アメリカの国務省は大変困惑しながらも、その事実を知らせてきました。
私は「心配ないで下さい。なぜなら、桜の樹を切り倒した事実を正直に言うのはジョージ・ワシントン以来のアメリカの伝統なのですから。」とご返事しました。
私たちはこれで諦めはしませんでした。日本の農務省は特別な無菌室で新しい苗木を育てました。そして3年後アメリカ向けに出荷され、ポトマック河の河畔に植えられました。
それ以来、 私はアメリカを訪れるタイミングを桜の花のシーズンに合わせるようにしています。そしてこの桜の花の下をドライブする時いつも想い浮かべるのは人間と国家の生命を形作る運命についてです。
アメリカと日本は友人でした。敵として戦いました。そして現在、私たちは永遠の友人であると深く信じています。私はこの桜の樹がこの「友情の根」を生かしつづけるために、少しでもお役にたって欲しいと願っています。
そして何故そんな風に言うのかですって? リーダース・ダイジェストの日本語版は戦争以来、毎月数十万部以上が日本の男女により読まれてきました。そして西洋の民主主義につき実に多くのことを教わりました。私たちの桜の樹もアメリカ人にとりそうであって欲しいと願っていますが、リーダース・ダイジェストは太平洋をまたいで私達友人との一層緊密な個人的コミュニケーシオンをもたらしてきたからなのです。(訳)
YUKIO OZAKI(東京市長 尾崎行雄)
 
 
平成19年4月3日
篠塚 美郷(しのづか よしさと)
 
 

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