第29話
 細菌学者・志賀潔先生に敬礼(けいれい) その2
 

 
 
「おもな対象読者」
 中学生から大学生までの幅広い年齢層の皆さんに読んでもらいたいと願っています。
 細菌学を発展させた大先輩たちがいかに苦労したかを読み取ってもらいたいからです。
 
 
 
 
 
「細菌学者歴伝」
 赤痢菌の発見者で国際的な細菌学者である宮城県出身の志賀潔先生は、細菌学者歴伝と題して、微生物学の創造に貢献した大学者についてのエピソードを書き残してくれています。そのなかから数名の代表的学者を科学の発展史の一部として選び出してここに紹介します。
 シリーズ「細菌学者・志賀潔先生に敬礼」というタイトルであらためて若い青少年にも読めるように書き直しを試みました。志賀潔先生から若者へのメッセージです。
 
 
本 文 目 次
 
メチニコフ以下、次号
5.メチニコフ エリー
6.北里柴三郎
編集・著作 田口 文章
 
 

 
 
第29話 細菌学者・志賀潔先生に敬礼(けいれい) その2
 
3.ローベルト・コッホ Robert Koch (1843-1910)
3-1 炭疽病の原因は微生物であることを証明
 ローベルト・コッホは、ドイツ国ゲッチンゲン大学を1866年に卒業して医師となりました。彼は、海軍の軍医または船医になる希望を学生時代にはもっていましたが、しかし、大学卒業後は、ハンブルグ市の精神病院に臨床医として就職することになりました。
 この時すでにフランスのパストゥールの名前は、全ヨーロッパにひびきわたり、「病気は微生物によっておこる」との新学説は、若きコッホの耳に絶えず強い刺激として入っていました。この新しい考えは青年医師の熱き血を湧き立たせたのでした。
 コッホは、パストゥールが言う病気の原因となる微生物を自分でもとらえ、病気との関係を明かにしたいと熱望するようになっていきました。全世界の医学界の頂点にあるドイツ・ウイルヒョー一派の病理学に、病原微生物学をもって新しい考えを導入し、古い体質への革命のノロシを揚げたいと夢みていたのです。
 ところがエンマ・フランツと結婚することになって、彼女の希望を受け入れて田舎で開業医として出発する運命となりました。田舎での臨床医の仕事は、もちろんコッホを満足させることはできませんでした。
 パストゥールの病原体原因説を耳にし、また スコットランドの外科医リスターがパストゥールの病原説を臨床医学の実地に応用して無菌外科手術に着々と成功しつつあるとのニュースを聞き、コッホは心をおどらせる日々を送っていた。
 コッホは、診療時間中でも暇をみつけては顕微鏡をのぞいて、微生物の研究を独学で楽しんでいたのです。このような医者ですから、思わしい収入もなかったのは誰にでも想像ができましょう。一日に10マルクの収入があった日などは、コッホ夫人はお喜こびしたと言われています。
 田舎を数か所転々として、ついにウォルスタインという村にコッホは落ちつきました。第28回目の誕生日を迎えた時、コッホ夫人は新しい顕微鏡を最愛の夫に誕生祝に贈ったのです。夫人の心尽しのプレゼントがコッホの研究心を満足させたことは想像でききますでしょう。
 
 ある日コッホは、「開業医はつまらない、臨床医学は無能に等しいではないか。ジィフテリアにかかって死にそうになった子どもを母親がつれて来ても、この病気の原因を知らない医師は、治療する方法に迷っているではないか」と憤慨しながらヒトリゴトを言った。
 隣国フランスではパストゥールが不治の病である結核の原因は微生物によるに相違ないと宣言した。そこでコッホは、夫人の経済的不満には耳をかたむけずに、猛烈に細菌の研究に没頭しはじめました。今を去る僅かに125年前の1873年のことでした。
 オランダのレーウェンフックがコッホより150年前に観察したように、夫人からの贈物の顕微鏡を使っていろいろな物について検査をしました。当時炭疽病はヨーロッパにおいては農家の大敵で、山羊・綿羊が炭疽病のために年間に数万頭も死亡していました。
 そこでコッホは、炭疽病で死んだ動物の死体から血液を採り、標本を作って顕微鏡で調べました。長い糸状のものが明らかに見えました。この物体は、ときには短くときには長く、成長するようにコッホにはみえました。しかし、運動しないために、生き物と判断することができなかったのです。
 この糸状体については、フランスのダバインやペイエーが発見し、生き物と考え、更に炭疽病の原因体と想像していました。しかし、生き物であるとの説明がなかったため、一人パストゥールがこれを信じたのみで、世界の人々はこれを全然認めなかったのです。
 この微小体が、生物であるということを証明する方法はないのか、どうすればこれを証明できるのか、コッホは日夜苦心したのでした。コッホは、山羊や綿羊を買って実験する資金がありませんでした。またこれらの動物を買えたとしても、飼うべき部屋もなかったのです。そこで彼は、ヤギや羊の代わりに小さなマウスを買って、実験を試みたのでした。
 
 コッホは、炭疽病にかかった山羊の血液を注射器に吸い取り、マウスに注射してみました。翌日注射されたこのマウスは、病気らしい症状を示しました。そこでマウスの尻尾(しっぽ)の先端を少し切り、そこから血液を採り、顕微鏡で観察しました。そこには例の微小な桿状体がいることを発見したのです。
 
 この実験でコッホは、この小さな桿状体は増殖するので生き物であると確信することができました。しかし、それが生物であることをより具体的に証明するためには、マウスの体外でこれを証明する方法がないか?
 これがコッホの解決すべき重大問題でありました。彼は夕食後、夫人に「オヤスミナサイ」と言い、2階の小さな研究室で一夜を明かしたことが何度もありました。このようにコッホが患者をあまりみないで、研究室に閉じこもることを夫人はうらんでいたといわれています。
 
 コッホは、パストゥールの発酵スープを思い出てし、スープを培養液として、これに死んだマウスの脾臓の小片を入れてみました。冬の寒い夜室内に放置しては温度が低いと考えたコッホは、手製の保温器を造って、石油ランプでこれを温めるような工夫をしました。しかし、努力したこの培養も雑菌が混入して増殖したので失敗に終りました。
 そこで次ぎにコッホは、牛の眼の前房から水を採って懸滴法を考えつきました。これに試験マウスの血液を混ぜてみました。彼の熱心な研究は、こうして炭疽菌の発育すること及び菌体内に抵抗力の強い芽胞が形成されることを発見したのでした。
 
 このようしてパストゥールが想像したように、病気の原因は微生物であることがコッホによって証明されたのです。コッホは続いて、懸滴標本で炭疽菌は芽胞を形成し、この芽胞は再び細菌体に成育することを知りました。ここに、初めて炭疽の家畜に伝染する経路が、ほぼ想像しうるようになったのでした。
 
3-2 ジャガイモで細菌の培養に成功
 ドイツ国の片田舎ウォルシュタイン村の2階建ての家、それもわずか20坪足らずの研究室でなし遂げた大発見を、学界に発表しようとウォルスタインの森を後にして旅立ちしたのは1876年で、コッホが34歳の時でした。
 血液の染色標本やマウスをたずさえてブレスロー大学に行き、老教授コーンを研究室に訪ねました。老コーン教授は、常にコッホの研究を賞賛し、コッホもまた自分の研究の模様を常にコーン教授に報告していたのでした。コーン教授は、青年学士コッホが教授連中を驚かす光景を頭に描きつつ、著名な学者を多く招待しました。コッホの研究報告を皆で聴こうと待ち構えていました。
 コッホは、有名な学者や教授達の前では、何の講義もしませんでした。ただ自分の研究室から持参して来たスライドガラスをキレイに拭き、マウスの血液の染色標本を作って顕微鏡で見せました、また同時にマウスの血液を別な健康なマウスのシッポに接種しました。そのマウスが死ぬのを待って解剖し、また血液標本を見せ3日にわたってこのような実験を行いました。大学者達はみなあ然として、コッホの手品のような実験を視るばかりでした
 当時病理学の新進教授であったコーンハイムは、コッホの実験をみて大変におどろきました。自分の研究室に走って行き、若い助手達に向って、「急いでコッホの実験を見てこい」と叫びました。
 助手達は「コッホとは誰のことですか、いだかってコッホという先生の名前を聞いた事がありません。コッホなどいう名前の人は、大学教授のなかにはおりれせん」と質問をしました。コーンハイムは 「そんなことは無益な問答だ。はやく行って見て来い、実に驚くべき大発見である」 と叫んだ。
 助手達はあわただしく実験室へと走って行きました。のちの大学者エールリッヒもその助手達の中にいたのでした。
 
 パストゥールが「伝染病をこの世から人の力によって、消滅させることができます」と叫んだ僅かその7年後に、コッホの大発見が現われたのでした。コーンとコーンハイムの両教授は、コッホの研究を完成させて、ドイツ帝国の名誉にしようと尽力したのであります。そのお陰でコッホは、家財をまとめてブロスロー市に移り、市の医者となり月75円の給与を貰えるようになりました。しかし、コッホ診療所の玄関にはくもの巣が張り、患者の訪れることもなかったのでした。それでやむなくまたフォルスタインの古巣に帰り、1878年から1880年の3年間再び狭い研究室に閉じこもって、コッホは顕微鏡をのぞいていました。
 
 コーンとコーンハイムの尽力により1880年にコッホは、ベルリン市の衛生局の技師として招かれ、2人の助手を与えられました。ここで初めてコッホは、自分の希望とおりに研究することの自由を与えられたのです
 
 ある日半煮のまま放置してあったジャガイモの割れ目に、あるものは赤く、あるものは白い小さな円形のものが発生しているのをコッホは偶然に見つけました。不思議に思って、試しに白金線を使って赤と白の円形のものを採り、スライドグラスにのせて標本作り、顕微鏡でのぞいてみました。
 それはおどろくべきことで、正しく細菌の群れであったのです。その赤いものは円く、白いものは桿状でありました。このジャガイモの表面に発生したものは、その一つが同一種の細菌、すなわち、その各々は純培養であるとコッホは感じました。
 肉汁の液体を今までは用いたので、各種の細菌が混在していましたが、今はジャガイモを用いれば細菌を純粋に一種類だけを培養できることに気がついたのです。コッホは直ちに助手であるレフレルとガフキーの二軍医を呼んで、この新大発見の成功像をみせたのでした。
 
3-3 血清培地で結核菌の培養に成功
 コッホは、慎重に研究を重ね、その成績を絶対に間違いないと確信しないうちは、自分の実験とその成績を他人にしゃべることはありませんでした。ある日、コッホは当時世界の医学界で皇帝と呼ばれていたルドル・ウイルヒョー教授を訪ねました。
「私は、細菌を純粋に培養することが出来るようになりました」と実験の成果について話しをしました。しかし、この老学者ウイルヒョーは、若いコッホを鼻先きであしらい、まじめに話しを聞きませんでした。コッホは、大学者が相手にしてくれなかったことに対しては、怒りもせず静に研究室に帰り、結核の研究に今迄以上に熱中したのでした。大学者に鼻先であしらわれたことが、彼を偉大な科学者にさせた出発点となったのです。
 
 「結核は人から人へ伝染する」、従って、微生物によって起こる病気だろうとの想像は、当時の学者も判っていました。フランスのビルマンは、ヒトの結核を動物に伝染させる方法を考えました。更にドイツ・ブレスローのコーンハイムは、結核患者の肺を取り出し、その小片をウサギの眼前房にうえつけ、結核特有の病変が生じるのを眼の外から眺めました。コッホは、これらの考えや実験から、結核が病原菌によるとの発見のヒントが得られるものと考えました
 
 結核で死んだ労働者の死体から肺を手に入れ、一人で研究室に閉じこもり、この検体の肺を用いて研究に熱中したのであります。それから数日の後、結核の肺をメチレン青という染色色素の溶液にひたしてみました。その結果はおどろくべきことに、結核菌が青く染っているのを偶然に発見したのです。
 この日以来コッホの結核についての研究熱はますます高まり、その細菌の培養に猛進していきました。彼は血清を加熱して固めた固形培地を考え出し、これを用いて結核菌を発育させることについについに成功したのです。
 そして、結核の患者や死体より、また牛やモルモットから培養した結核菌の培養したものを43株も持っていたという。その熱心さには、実に驚くべきことであります。
 
 1883年3月24日は、細菌学勃興の記念すべき日であった。ベルリン大学で生理学会が開かれこの日、コッホは結核菌についての発表をしました。医学界の大家ウイルヒョーを先頭に多くの学者が狭い会場に集まっていました。エールリッヒも会場にいたのです。
 コッホは、研究結果の口演と図説を終えて、討論を待ち受けました。一人の討論者も質問者も出て来なかったのです。聴衆の目は期せずして皆ウイルヒョーに注がれました。いつも難問を投げかけ討論が好きな老翁ウイルヒョーは、このときばかりは一言も発せず、一人会場より消えていきました。会場となった衛生学教室には記念の額がいまも揚げられています。
 
 コッホの大発見のニュースは、その日の夕方のうちにアメリカ・ニューヨークにまで達し、次いで全世界に驚きの衝動を与えました。その後世界の学者は、この大発見の話しを聞こうと、ベルリン大学に大波のように押し寄せました。不治の病である結核の原因菌である結核菌を試験管内に封じ込めえたということは、まさに驚天動地の出来ごとでありました。
 
3-4 コレラ菌とツベルクリンを発見
 1883年には、インドよりヨーロッパにコレラが侵入し、全ヨローッパを恐怖におとしいれていました。ここにパストゥールとコッホ、すなわちフランスとドイツとのはげしい競争を引き起こしました。
 パストゥールとコッホの二大科学者は、国家の名誉のために、コレラの病原菌を発見しようと争ったのです。しかし、この時パストゥールは、狂犬病の研究に多忙であったので、助手のルーとチュイリエールとをエジプトに派遣しました。コッホは、自らが現地に入り、ガフキーと共に寝食を忘れて研究に従事したのであります。
 研究のなかばにしてパストゥーの助手チュイリエール博士は、不幸にもコレラに感染して倒れてしまいました。コッホとガフキーは、この訃報を聞くと、すぐに現場のルー博士を訪問し、親しく弔辞を述べ、さらに葬儀の手伝いをもしたというのです。敵味方共に今は礼を尽して犠牲者を弔ったのでした。
 やがてコッホは、ベルリンへの帰途につきました。その荷物の中には、新しい獲物コレラ菌が入っていた。コッホは 内務大臣に報告して言いました、「私は一種のコンマ状の桿菌を、コレラ患者の糞便中から発見しました。しかし、これを病原菌と断定し得るにはまだ至ってないから、更にインドに行ってこの研究を続行したい」と願い出ました。
 
 コッホは再びベルリンを出発し、インド・カルカッタへと急ぎました。ここでコッホは、コレラによる死者40体を検査して、全ての死体にコンマ状の桿菌を証明できました。カルカッタでの研究でコレラの病原菌を発見したのです。コッホがこの大発見の成果を携えて故国ドイツに帰った時、ドイツ皇帝は勲章を与えてその功績を賞しました。
 しかし、コッホは勲章を皇帝より授与された時、「私は、ただ可能なだけの努力をしただけで、医学の林に見落されていた黄金を偶然に探し当てたのみで、この発見の功績は真の幸運に過ぎない」と謙遜したという。学者の態度は、常にこうありたいものです。
 
 ミュンヘン大学の衛生学の老大家ペッテンコッファー教授は、コッホのコンマ菌原因説に猛烈に反対し、コッホよりそのコンマ菌の培養を取り寄せてこれを飲んでしまいました。そのうえでこんなコンマ細菌などで、コレラが発症するものではないとコッホを功撃したのです。
 ペッテンコッファーは環境素因に重きおいて考えていました、コッホは単に病原菌のみを考えていたのです。ペッテンコッファー自身の無謀な試験は、彼本人がコレラに感染し、死の瀬戸際を歩きまわっていたのでした。何となれば誤ってコレラ菌を飲んで死んだ実験者が、その後少なからずあったからです。
 コッホの門下が伝染病の病原菌発見に力を注いでいる間に、コッホはツベルクリンを発見し、またその改良に苦心していました。ツベルクリンで結核の治療の研究に従事していたのです。晩年、社交界より遠ざかり、第二夫人とともにアフリカのウガンダ地方の探険に行き、その予防および撲滅法を考え続けていました。明治41年 (1908年) 日本に北里柴三郎博士を訪問し、王者の歓迎を受けました。その後間もなくの1910年に心臓病にてこの世を去りました。葉巻煙草の中毒が、その原因をなしたと言われています。
 
 
4.浅川 範彦 (慶応元年〜明治40年・1865-1907)
4-1 理論的研究に卓越
  浅川範彦は、慶応元年 (1865年) 高知藩の武士の家系に生まれました。高知県立医学校で医学を学び、卒業後は地元で開業しました。明治27年29才になったとき、どうしても細菌学を専門に勉強したいとの気持ちが強くなり、決心して上京し、北里柴三郎博士の門をたたき弟子にして貰いました。
 伝染病研究所創設にあたっては北里博士を助けて大いに努力し、その基礎造りを手伝いました。明治34年 (1901年) 36才にして医学博士の学位を授与されました。当時学閥に属さずに東京大学から学位を授けられたのは、異例なことでありました。
 
 浅川は明析な観察力をもって、他人の研究業績を批判し、熱心な勉強と周到な用意とをもって研究に従事していました。その考察力が極めて優れていたので、当時日本の細菌学界において重要な立場にありました。
 明治29年 (1896年) に彼はツベルクリンをモデルとして、丹毒菌の培養したものを用いて丹毒の治療を試み、浅川丹毒治療法と称されました。またヴィダール反応が報告されるや、彼は直ちにこれを臨床上に広く応用される方法を考えました。
 チフス菌を食塩水に浮遊させ、これに0.5%にホルマリンを加えて腐敗を防ぎ、かつ、ホルマリンはチフス菌の被疑集性に何らの悪影響を与えないことを確認した後、いわゆる浅川診断液なるものを製造しました (明治33年、1900年)。これにはヴィダール反応を発見したヴィダールも気がつかなかったことですから、鼻をあかされ大変に驚いたようです。何となれば、ヨーロッパではその後2〜3年経ってやっと ホルマリン加菌液を実地に用い出したからです。
 
 浅川が理論的研究に卓越した考察力をもっていたことは、彼の破傷風毒素の研究から知ることができます。彼は、ニワトリが破傷風に絶対にならないことを不思議に思い、破傷風毒素に対してニワトリは先天性の抵抗性即ち免疫性をもっていることに大変に興味を感じたようです。
 なぜニワトリが破傷風にならないのか、その原理を明らかにしようと考えました。浅川がこの研究で示した、一歩一歩と実験を重ねて原理を追究してゆく正確な推理論方法は、学会にあっても彼の独壇場であったようです。ある人は、この研究を評して探偵的研究と言ったそうです。
 
 当時、わが国における免疫学に関する知識では、浅川は第一人者でありました。彼は、研究室内においては極めて真剣に研究に従事しました。しかし、一歩研究から足を踏み出せば、彼はとてもこっけいな性格の持ち主で、その言語行動は明るく伸びやかな気風が現われていた。
晩年、お寺のお坊さんの僧衣を着て記念写真を撮り、これを知人や友人に贈ったごときは、彼の人間性の半面を示すものであります。彼は明治40年の早春にわかに42才の若さで世を去りました。北里柴三郎博士が、彼の死を非常に惜しみ悲しんだ様子がうかがわれます。
 
4-2 破傷風毒素のレセプター
 彼が最も力をそそいでおこなった研究は、破傷風菌が産生する毒素の作用についてでありました。この破傷風の毒素が神経中枢を侵すことを確かめた後、ウサギの頭を開いて硬膜下に破傷風の毒素を注射して、毒素の脳に対する作用を検討したのです。
 その結果は、他の接種法で観察されるような普通の破傷風特有な症状を呈することはなく、あたかもテンカンのようなケイレン発作を反復して死ぬのでした。モルモットでは速かに全身症状が表れるので、そのテンカン発作を認めることが出来ないと記載しています。彼は、ウサギにおいていわゆる脳破傷風を証明したのでした。
 
 彼の研究は、破傷風病論において大成しました。「破傷風とは破傷風菌が産生した毒素が血中に移行し、神経中枢を侵すことによって発症する毒素による中毒症である」と、破傷風発症の原理を定義しました。これは大変に驚くべき提言です。さらに進んで、彼は破傷風の毒素が神経を侵す作用を研究して、次の結論に達しました。
 いわく、「破傷風の毒素が神経中枢を好んで侵すのは、神経細胞に破傷風の毒素と結合する一種の成分(現在の科学ではレセプターと呼びます)を保有することにあると言うのです。別な表現をすれば、神経細胞内に存在する破傷風の毒素と結合するX成分(=レセプター)は、破傷風の毒素 (T)と結合し、更に細胞内に引き入れて (T+X)となる新結合物を造る。この化学物(T+X)が形成されると、神経細胞は生きていくのに必要であるはずのX成分(レセプター)を失う。生命活動に必要なレセプターを失うだけでなく、(T+X)となる異常成分が存在するために、神経細胞の生命活動が一変するとしてたのでした。
 
 これがすなわち破傷風の症状を発現する原基であって、破傷風毒素中毒の原理原則である。そうして、破傷風病が神経以外の臓器に病的変化をひきおこさないのは、この毒素と結合するX成分(レセプター)が存在しないことによるのである。
 私は、破傷風毒素と特異的な親和力をもつこのX成分を破傷風病の発病原基と考える。この考えは、ただ私の説くところのみならず、世界の免疫学者であるエールリッヒもまた同一想像を抱いて神経細胞中に破傷風毒素と結合する側鎖の存在を述べ、これをレセプターと名づけた(細菌学雑誌明治30年)。
 このように、浅川は実験によってエールッヒの側鎖説に有力な証明を与え、東西相呼応して、破傷風に関する免疫学説を建てました。彼は更に進んで、次のような仮説をたてました。「神経中枢に存在するX成分の脳及び脊髄における含有量を比較すると、脳は脊髄に比べはるかに大量に含有し、モルモットのごときはその脳中には脊髄より、およそ6倍も存在する。そうならば破傷風病は主としてその発病原基が多く存在する脳が傷害を受けるべきなのに、その傷害の程度が少なく、主として脊髄の症状を呈する理由はどうしてなのだろう。
 私が想うに、脊髄細胞において1Xを消費した時は、脳細胞中にでは6X中のただ1Xを消失した時であります。従って、脳においてはなお5Xが残存するであろう。ゆえに、脳細胞の損害は僅微で脳の機能を失うことはないのである」。彼の考察は、精緻にして、且つ少しも反対する余地を残さなかったところに、学識の深さをみることが出来る。そうして、発症の原理と免疫学とにおける考察は、ノーベル賞受賞者であるエールリッヒ先生の考えと同じであることを、明らかに認め得るところである。こうして、彼は、医学史に大きな足跡を遺してこの世を去った
「その2」おわり
 
 
 
平成19年4月21日
編集・著作 田口 文章 (ふみあき)

 
 

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