第62話
 細菌学者・志賀潔先生に敬礼(けいれい) その6(最終回)
 

 
 
 
「おもな対象読者」
 中学生から大学生までの幅広い年齢層の皆さんに読んでもらいたい。
 細菌学を発展させた大先輩たちがいかに苦労したかを読み取ってもらいたいからです。
 
 
 
 
 
 
 
「細菌学者歴伝」
 赤痢菌の発見者で国際的な細菌学者である志賀潔先生は、細菌学者歴伝と題して、微生物学の創造に貢献した大学者についてのエピソードを書き残してくれています。そのなかから数名の代表的学者を科学の発展史の一部として選び出してここに紹介します。
 シリーズ「細菌学者・志賀潔先生に敬礼」というタイトルであらためて若い青少年にも読めるように書き直しを試みました。志賀潔先生から若者へのメッセージです。
 
 
本 文 目 次
 14-1 黄熱研究委員
 14-2 黄熱の原因究明
 14-3 人体実験の開始
 14-4 黄熱の撲滅
 16-1 神童の出現
 16-2 リケッチャの犠牲となる
 17-1 生い立ち
 17-2 なぜ細菌学者になったのか
 17-3 北里研究所の創設
 17-4 京城帝国大学総長辞任
 
編集・著作 田口 文章
 
 

 
 
第62話 細菌学者・志賀潔先生に敬礼(けいれい) その6(最終回)
 
14.ウォルター・リード Walter Reed (1851−1902)
14-1 黄熱研究委員
 黄熱研究委員会の委員・所長となったウォルター・リードは,好紳士であった。キューバに黄熱が大流行した時,その原因については色々な説があった。永くキューバで開業していた眼科医キャロル・フィンレーは,黄熱は蚊によって伝染すると主張していたが、これをまともに考えている学者は居なかった。

 1900年キューバで黄熱が大流行して、数千人のアメリカ兵が感染して死亡した。その死者の数は、スペイン兵の弾丸に当たって,死んだのよりも多かった。レオナルド・ウッド大将の部下の3分の1は黄熱でたおれた。ウッド大将はキューバを占領したが、黄熱の敵には震え縮んだ。

 ワシントンよりハバナに重大電令が発せられたのは、1900年6月26日であった。ウォルター・リード大佐は、黄熱に対し特別使命を受けて,キューバにやってきた。
 
 リードは、17歳で大学を卒業し,セオバルド・スミスのもとで細菌学を学んだ。リードとともにキューバに来た者の1人は,ジェームス・キャロル博士であった。ジェス・ラゼアルは、ヨーロッパで細菌学を学んだ人で妻君と二人の子供があり、35歳の血気盛んあった。アリスティデス・アグラモンテは、キューバ人で黄熱に一度罹ったことがあった。リードを含めたこの4人が,黄熱研究委員となった。
 
14-2 黄熱の原因究明
 この委員の第一の目的は,病原体の発見であった。彼らは患者の血液その他を詳細に検査し培養を試みたが,すべて陰性でなにも判らなかった。リードは,ついにフィンレー博士を呼んで,彼の考えを聴いた。
 
 フィンレーは、斑点のある蚊の卵を示して,これが黄熱伝播者であると話した。リードは、この卵をラゼアルに与えた。この人は、イタリアに学び蚊についての知識があった。卵を孵化して,一種のキレイな蚊が発生するのを観察できた。
 
 リードは、黄熱患者発生の状態を観察した結果に、黄熱は決して患者より患者に伝染するのではなく、家屋より一定の距離があって人の往来のない他の家屋に伝染したり、あるいは患者が死んで後、2週間をおいて突然にまた患者が発生したり、その関係は何らかが昆虫に病毒が伝わって、一定の発育を遂げるものと考えるよりほかに考えがみつからなかった。リードが蚊を研究しようと決心したのは、彼の観察力より出発したのである。
 ジェームス・キャロルは自分が犠牲になって,実験に当たりたいとリードに申し出た。8月27日に患者の血液を吸った蚊をラゼアルが取り,これをキャロルの腕にたからせた。キャロルは,46歳であって、妻君と5人の子供があった。
 
 二日後キャロルは,違和感を覚えた。彼はマラリアに罹ったと考え,研究室に行き,自分の血液を採取して検査したが、マラリアの病原体を発見できなかった。翌日彼は,黄熱病室に移された。この病院に米国の志願兵でウイリアム・ディーンという人がいた。この人も志願して、同じく蚊に刺された。2人ともに黄熱に感染したのであるが、幸いにして快復した。
 
 ラゼアルは、この二人の犠牲的人体を使った試験をみても,満足しなかった。彼は、もっと正確な学術研究を実施したいと考えた。そこでラザニマの黄熱病室で蚊に患者の血液を吸わせて,これを飼養していた。研究中に偶然ラゼアルは自分で飼育していたその蚊が,自分の手甲を刺しているのを見た。時は,9月13日であった。翌日ラゼアルは発熱し遂に黄熱病に罹り,1900年9月25日に死亡した。
 
14-3 人体実験の開始
 リードは、ウッド大将に面会して研究の成績を示し,さらに研究費を請求してキャンプ・ゼアルを建てた。リードは、ここに人道に対する戦争を開始するのであった。
 
 実験希望者には,200ドル(現在の約200万円)を与えることにした。最初の志願者は,オハイオ州からのキッシンジャーとモランの二人であった。キッシンジャーは15〜19日前に,患者の血液を吸った蚊に刺された。彼は発病したが,幸いにして快復した。次にスペイン系移民の5人が志願した。そのうち4人は発病した。
 
 黄熱は、患者の衣類より伝染するとの仮設を証明するために、キャンプ・ラゼアルに特別実験室を造り、患者及び死者の衣類毛布などを入れて、これに志願者を収容した。この室No.1は防蚊設備を施したものであった。初めの志願者はクック博士と2人の米兵で、数日間No.1室にねおきをしたが発病しなかった。次の志願者は、米兵3人で3週間この室No.1に住んだが、3人ともに健全であった。
 
 No.2は、キレイな室であった。床や寝具は、すべて消毒されたものを備えていた。ここに、ジョン・モランという者が人道のためと,自分自身を実験に提供した。もちろん手当金は,受け取らなかった。1900年12月21日の正午彼はシャワーをあびてNO.2号室に入った。リードとキャロルは容器より15の雄蚊……すなわち、ステゴミア… …を室内に放った。この蚊は何度か、患者の血液を吸ったものである。モランは床に横たわるや,直ちに蚊に襲われた。30分間の間に7回も刺された。モランの場合は、治療不可の絶望という実験である。
 
 クリスマスの朝モランは発病して、クリスマスのプレゼントはその枕頭に淋しく飾られた。しかし,幸いにして彼は快復して、余生を平和に送ることが出来た。キャロル博士は、人体実験の実施者の6年後(1907年)に死んだ。黄熱のためという人もいる。
 
14-4 黄熱の撲滅
 ウォルター・リードは、1902年に盲腸炎を病み,手術のかいもなく遂に死亡した。夫人と二人の子どもは、年に2500ドルの恩給で生活している。キャロル博士及びラゼアル博士の末亡人も,同じく思給を受けて生活している。
 
 人道のために、進んで身を試験に提供したキッシンジャー一等兵は死を免れたが,その後麻痺が残った。黄熱が原因ということである。彼はただ150ドルと金時計(士官より贈与された)を持って、淋しく床に坐って,金時計の針の進むのを眺めるのみであった。
 
 しかし、天が彼に幸いして,彼は貞操な夫人の厚い看護を受けている。その後ハバナにウイリアム・クロフォード・ゴルガスとジョン・ギィテラスの二人とが来て、ステゴシア蚊の撲滅を図り、3か月にして黄熱を絶つことができたのであった。
 
 
15. ハワード・ティラー・リケッツ Howard Taylor Ricketts (1871−1910年)
 アメリカ・オハイオ州に生まれたハワード・ティラー・リケッツは、シカゴ大学で医学を学び、後に同大学の助教授となった。アメリカ西部にあるロッキー山地方に多発するロッキー山紅斑熱を研究して、特殊なダニによって伝染することをリケッツは証明した。
 
 次いで、リケッツは、発疹チフスの研究に着手し、コロモシラによって伝染が媒介されることをも確認した。彼は、ついに発疹チフス患者の血液中に発病7〜11日に表れる小さな桿状体を発見したのであった。1910年4月、発疹チフスの研究を進めるためメキシコに遠征したが、不幸にも発疹チフスに感染して39歳の若さで1910年5月3日この世を去った。
 
 メキシコの細菌学研究所に大理石像が建設され、リケッツの名は細菌学史上に永久の記念を残している。
 
16. スタニスラス・プロブァセック Stanislas Prowazek (1875−1915)
16-1 神童の出現
プロブァセックは、オーストリアのラノウ市の貴族の家に生まれた。幼少のころから、彼はもの思いにふけり、観察力は鋭く、深い考察に優れた性格から、郷里で神童と評判であった。学校の成績は群を抜いていた。17歳ですでに博物及び哲学に関する論文を発表して、世間を驚かしていた。
 
 プロブァセックは、プラハ大学で博物学を学び、特に動物学に興味をもっていた。学生として、「中性紅を用いた原虫の超生体染色法」という論文を発表した。しかし、彼の鋭い観察力は、単に原虫の形態的な研究では満足せず、生き物として原虫を取り扱わなければならないことを常に念頭に置いていたのであった。
 
 ウィーンの動物学教室とトリエストの動物研究室で、プロブァセックは2,3年の間に発表した論文の数は25に達した。その研究材料は、精子からプランクトンなどであった。短い彼の一生を通じて209編の論文を書いたのである。
 
16-2 リケッチャの犠牲となる
 プロブァゼックは、翌1906年シャウディンが死亡すると、彼はその後を継いだ。やがてナイセルの梅毒の研究隊に加わりジャワに行った。しかし、彼は梅毒の病原体が研究し尽されたのと考えて、研究を天然痘及びトラコーム病原体に進めたのであった。こうして、彼はその反応物体の内部に存する基本小体に注目したのである。
 
 このジャワの旅行中プロブァセックは日本に立ち寄った。志賀潔は、彼を迎えて、フランクフルト以来の旧交を温めるため自分の家に彼を招待して歓談を交えた。またある日、銀座を散歩した後とあるカフェに入り、志賀潔は給仕に「カステラにコーヒー」を注文した。彼は目を円くして,「貴方はあのカステラニー博士を知っているのですか ?」と笑う。それから,カステラの説明やセイロン島のカステラニー博士の話となった。
 東洋視察より帰ったプロブァゼックは、ハンブルグにおいて,主としてリケッチャについて研究した。その本態は、今なお不明で、これをもって直ちに病原体となすべきか否やは、彼も明言しなかったところであるが、いわゆる顕微鏡で視えない病原体の研究に新生面を開いた功績は消えることはないであろう。
 
 1913年にセルビェンに行き発疹チフスの研究をやり,翌年の夏にはロカ・リマとコンスタンチノーブルで研究した。その冬、コトバスに発疹チフスの大流行があった時、陸軍大臣よりの命を受けて、その研究に着いた。翌1915年2月に彼は、ついにこれに感染し,その月の17日41歳の若さでこの世を去った。ああ、彼は、彼が発見した新微生物あるリケッチャ・プロブァゼキーのために、命を落としたのである。リケッチャもまた同じ運命に遭遇したのは前に記した。
 
 
17. 志賀 潔 (明治3年〜昭和32年、1871−1957)
17-1 生い立ち
 1871年2月5日(旧暦明治3年12月18日)士族佐藤信の第4子(3男)として宮城県仙台市に生まれ,幼名を直吉と云った。父は、伊達藩の下級藩士で副奉行つきの書記を務めていた。5歳の頃から父の家塾で漢書の素読を学び、8歳で仙台市育才小学校(現片平町小学校)、13歳で宮城中学(現仙台−高)に通う。この頃母の生家志賀家を継ぐ事になり名を潔と改めた。志賀家は岩手県花巻の出身で、五代前からは仙台にきて医を業とし、先々代は藩医となり士分であった。
 
 1887年東京に遊学、翌年大学予備門 (後の旧制一高)、1892年帝国大学医科大学(後の東大医学部)に進学した。1896年医科大学を26歳で卒業し,直ちに伝染病研究所に入り北里柴三郎先生に師事した。翌1897年12月赤痢に関する最初の研究を発表した。1901年ドイツ留学のため渡欧,フランクフルトの実験治療研究所で化学療法剤のエールリッヒに師事した。化学療法の最初の研究で先生の助手を務めた。1905年帰国、医学博士となる。
 
17-2 なぜ細菌学者になったのか
 ……私はなぜ医業を修めたのか。養家が医業だったから。なぜ基礎医学の方に進んだのか。病人を看る職業は私の性に合わないと思ったから。然らばなぜ細菌学を選んだのか。この答えは簡単でないが,当時の細菌学が新興科学随一の花形であった事も理由の一つであろう。
 
 もっとも大学ではまだ独立の細菌学の講座はなく,細菌学は緒方正規先生の衛生学の片隅で講ぜられ、実習の時間もなくて、講義のあとで細菌というものを顕微鏡で順にのぞかせてもらった程度であった。卒業するとすぐに試験を受けて伝染病研究所に入ったが、ここで先輩から初めて細菌実習の手ほどきを受けたのである。
 
 ……私の赤痢研究は北里先生の懇切な指導のもとになされたものである。私は大学を出たばかりの若輩だったから、先生の共同研究者というよりも、研究助手というのが本当だった。研究が予想以上の成果をあげて論文を発表するにあたり、先生はただ前書きを書かれただけで、私一人の名前にするように言われた。普通なら当然連名で発表されるところである。赤痢菌発見の手柄を若者の助手一人に譲って恬然として居られた先生を私はまことに有り難いことと思うのである。
 
 ……私は大変運が良かったのだとは私自身が一番認めるのだが,幸運の第一は当時細菌学の世界的ベテランであった北里先生から直接の指導を受けたこと,第二はたまたま東京で赤痢の大流行に遭遇したこと、以上は改めて申すまでもない。この年流行の赤痢がいわゆる本型菌によるもので,これが分離しやすい菌種であったことも偶然の幸せだった。もし異型菌のどれかであったら、なかなか本体をつきとめられなかったろう。
 
 もう一つの幸運は、細菌の凝集反応に関するヴィダールの研究が前年の末に発表されたことだ。チフス患者の診断に用いられたヴィダール反応を、いち速く末知病原菌探索の決め手として使ったのは私の手柄といえば手柄だろう。こんな幸運が重なって私は赤痢の本体をつかむことが出来たので,同じ様な条件に恵まれれば赤痢菌の発見者となることは誰にでも,そうむずかしくはなかったろう。
 
 ……赤痢の研究がー応まとまって、私は伝研二人目の留学生としてドイツのエールリッヒ先生のもとに行ったが、私はここでも大変好い巡り合わせに会った。ちょうどエールリッヒ先生が免疫の基礎的研究を完成し,化学的療法の研究に手を染められるその時期に際会して,化学療法の最初のお仕事の助手を命ぜられた。
 
 ……もともと私は科学者として才能に恵まれたという自覚はなく,また生来明敏というよりむしろ遅鈍な性格で,学問の世界に身を投じて自家の学説を立て科学の新しい分野を開拓する如きは,自分の任でないことは自らよく知っていた。私のなすべき事,またなし得た事は,生来の器用さを生かし辛抱強い努力を重ねて,先人の拓いた道をたどってこつこつと仕事を続けて行くことであった。細菌学や免疫学がちょうど開拓時代を過ぎて多忙な収穫時期になっていたので,私のような遅鈍な者にも成し得る仕事がいくらでもあったのは,私の幸せであった。
 
17-3 北里研究所の創設
 1914年伝染病研究所の文部省移管に際し北里所長と行動を共にしたく伝染病研究所を退職した。新北里研究所の創設に力を尽くす。1920年朝鮮総督府医院長として渡鮮、京城医専校長を兼ねる。1931年までの11年間京城に在り,医学教育の他医事行政などにも関与する。1925年欧米の大学視察のため渡行,ジュネーブ国際血清委貝会に出席。1926年京城大学創立にあたり、医学部教授と同学部長となる。1927年京城大学総長に就任、在職2年7ケ月。
 
 ……2度目のドイツ留学から帰ったのは、1913年の6月である。1年余り日本を見ないうちに明治の御代は過去の時代になり、年号も大正と改まると共に,私の研究生活にも一段落が劃されて次の新しい時期に踏みだすベきとの思いであった。留学中の研究や調査をまとめた。それらもようやく片付きフランクフルト以来の結核の化学療法研究を続けるベく準備が整った頃、思いがけない事態が発生して身辺は又にわかに多忙になった。いわゆる伝研移管問題の突発である。
 
 ……この年(1914)は私の生涯にとって最も感懐の深い年である。10月、伝研の文部省移管に際し当局と所信を異にして職を辞した北里先生に従い,同僚20余名と共に野に下ったのである。
 ……ここに是非書きとめておきたいのは、この間に恩師エールリッヒ先生の訃音に接したことである。移管問題の頃、即ち1914年の末頃にはエールリッヒ先生の容態はかなり悪くなっていたのである。
 
 翌春になって大部健康を取り戻されたとマルクス博士から便りがあった。それで私はお見舞の手紙の中に、あまり心配をかけない程度に今回の移管問題の事件の経緯を報告した。やがて頂いた返事に、北里教授とその門下のこうむったこの度の不幸には同情に堪えない。詳しい事は判らぬが、事情は推察するに難しくない。
 
 学問上の問題が学界以外の力で左右されるのは東西に間々見られる遺憾なことだ。元気を阻喪せずに将末を期してほしい。という意味の事が書かれてあり、次のドイツの格言が添えて自分を励まして下さった。「名誉や財産を失ってもそれは何も失った事ではない、勇気を失ったらそれは凡てを失った事だ」。
 ……新研究所の開所式に先立って北里先生は所員一同を集めて訓示をされた。所屋建築の業新たに成るを以てここに部署を定め規律を設け更に大いに学業に励まんとす、諸子皆研究所をもって己が家としこれが発展を期せざるベからずという趣旨であったが、この時の状況が私の記憶にいまだに生きている。
 
 温厳な辞色でこれからの心構えを訓える北里先生に、白髪が目立ってふえた事に気がついた。先生はこの度の事件に身を挺して難局を見事に乗り切って来られた。今後もますます御元気であられるだろう。併し自分達はいつまでも先生に寄りかかっている事は許されぬ、これからは自分達の力だけで歩いて行くことに努めねばならぬ頭髪幾条かの白きを加えた先 生に対して、こんな事を考えていたのである。自分のこういう思いのうちには,さき頃幽冥境を異にしたエールリッヒ先生の事も去来していた。私は40代の後半になって初めて自立の覚悟を深くしたのである。
 
17-4 京城帝国大学総長辞任
 1931年京城大学総長辞任、北里研究所顧問。1936年ハーバード大学名誉学位。1944年文化勲章。1948年日本学士院会員。1949年仙台市名誉市民。1951年文化功労賞受賞。
 
 …… 日本の片隅で私が少年時代を送っていた十余年の間に、細菌学の分野はどのように拓かれていったか。フランスの天才パスツールは産辱青熱の研究、鶏コレラ菌の免疫反応、狂犬病予防接種と跳進をつづけていた。イギリスの敬虔な医師リスターはパスツールの病原微生物説を創傷滅菌法にとりいれて、ここに外科手術の操技は画期的な進歩をとげた。ドイツでは地味な道をこつこつ歩いていたコッホは、脾脱疽菌の人工培養に成功し結核菌の研究を完成して、細菌学の研究方法に,確実な基盤を築きあげたのである。
 
 1880年代に入ると,これら先人たちに拓かれた細菌学の分野では,絢爛たる花が開き、つぎつぎに実を結んでいった。この年代は細菌学史上特にエイチインエイチイズ1880と呼び病原菌探究の景も華やかな時代である。微生物界の獵人らが、われもわれもと競いたち凱歌は至る所にあがって病原菌発見の報告が相ついで発表された。
 
 ……併し東北の小都市で教育を受けていた私は細菌学の「さ」の字も知らずパスツール,コッホの名さえも知らなかった。ついでに言えば私共は好きな時代に好きな学生時代を送り得たと言えよう。
 
 
終わり
 
 
平成19年4月25日
編集・著作 田口 文章(ふみあき)
 
 
 

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