第39話
 細菌学者・志賀潔先生に敬礼(けいれい) その3
 

 
 
「おもな対象読者」
 中学生から大学生までの幅広い年齢層の皆さんに読んでもらいたい。
 細菌学を発展させた大先輩たちがいかに苦労したかを読み取ってもらいたいからです。
 
 
 
 
 
「細菌学者歴伝」
 赤痢菌の発見者で国際的な細菌学者である志賀潔先生は、細菌学者歴伝と題して、微生物学の創造に貢献した大学者についてのエピソードを書き残してくれています。そのなかから数名の代表的学者を科学の発展史の一部として選び出してここに紹介します。
 シリーズ「細菌学者・志賀潔先生に敬礼」というタイトルであらためて若い青少年にも読めるように書き直しを試みました。志賀潔先生から若者へのメッセージです。
 
 
本 文 目 次
 
 
 
ペテンコッファー以下、次号
8.ペテンコッファー
9.野口 英世
10.エドワード・ジェンナー
11.梅野 信吉
 
編集・著作 田口 文章
 
 

 
 
第39話 細菌学者・志賀潔先生に敬礼(けいれい) その3
 
5.エリー・メチニコフ Elie Metschnikoff (1845-1916)
5−1.捕喰細胞と生体の防御能の発見
 エリー・メチニコフは、1845年5月16日南ロシアのカーコッフの近村オデッサに生まれました。20歳になったとき研究者になろうと決心したのでした。カーコッフ大学に入り自然科学を学び、4年間の必須課程を2年間で終了してしまいました。カーコッフ大学時代の彼は、教授から顕微鏡を借りて、論文を書くという熱心さでもありました。
 
 卒業の時は首席で金牌(きんぱい)を授与され、彼は鼻を高くしていました。その後、彼の名誉心はますます高潮し、多くの論文を書いては学術雑誌に投書していました。しかし、世間はこの青年の存在を一向に認めないのに憤慨(ふんがい)していました。
 
 彼は海洋動物を研究しようと考えましたが、ロシアにはよき教授がいないため、ドイツ国のギーセン大学とゲッチンゲ大学に留学しました。しかし、大学に納める学費にこまりロシアに戻ってしまいました。ついに自殺しようと決心した時、ダーウィンの「種の起源」を読み、「自分は学術的な宗教を得た」と叫んだというのです。
 
 こうして、彼は再びロシアを飛び出して、ドイツやイタリアに行きました。メチニコフは、コッホやリューベンフックのように沈思考究型の性格ではなく、夢を追って走り廻る型の人でありました。そうして、彼は、「病原体に対する人体の抵抗」を解明しようと決心したのでした。
 
 その後、オデッサ大学の教授に任命されました。愛妻ルドミラの死後2年ののちに15歳の少女オグラと結婚しました。彼は初めて温い家庭を味わい、彼の性格も、また別人のように楽天的になったと言われています。
 1882年アレキサンダー2世暗殺後の反動政府に嫌気を感じ、オデッサ大学を退職しました。1883年、パストゥールとコッホの細菌発見に関する噂を聞きながら、メチニコフは新夫人オグラと一緒にイタリアのシチリア島に行き、海洋動物の研究を続けました。
 
 海水を取って単細胞の原生動物を顕微鏡でながめ、カルミンの細粉を原生動物が体内に摂取する様子を見て興味が一時に湧き出しました。このような細胞は病原菌をも摂取するから、これぞ生体防御の本体であろうと考えました。
 
 今偶然にも私は病理学者となったと叫んだ。有名な細菌の食菌作用の発見がこのとき出来上がったのでした。彼は翌朝家を飛び出し、メッシナで会合していた有名な教授達に彼の発見を説明しました。当時医学会の法王と称せられたウイルヒョー(病理学者)翁も彼の説を賞賛したので、メチニコフは今度は一瞬にして細菌学者となったのでした。
 
 彼は、今度はウィーンに行き動物学者クラウス教授に自分の学説を話し、このような摂取能(せっしゅのう)のある細胞をなんと名づけるべきかと相談しました。クラウス教授は、字書を引いてギリシャ語を探し、「捕喰(ほしょく)細胞」と命名してくれました。ウィーンよりオデッサに帰り、オデッサ大学で「生体の防御能」と題した講演を試み、炎症論および免疫学に新しい道を開いたのでありました。
 
 ここにメチニコフの運命を開くべき大事件が起こりました。1886年ロシアの農夫が狂犬病の犬に咬まれたのでパリのパストゥール研究所に行き、パストゥールより予防接種を受けて救われました。オデッサの住民は、これを神に感謝し、オデッサ市にパストゥール研究所を設立し、メチニコフをその初代所長に任命したのでした。
 
 彼は所長の職に就き、「私は学説家で、実業家でない。ワクチンの製造には、他に誰れかを任命してください」と言い出しました。そこで、ガマレア博士が実地を習得すべくパリに派遣されることになりました。
 
 こうして、オデッサのパストゥール研究所において、炭疽病(たんそびょう)及び狂犬病(きょうけんびょう)ワクチンの製造をはじめましたが、ガマレアを初めとする助手達は、技術が未熟なため成果は期待通りにはならなかったようです。そのためいろいろと非難が起こりました。
 
 さては、メチニコフの人身功撃にまで出て、「彼は医師にあらず、動物学者である、予防医学に就いて知るはずはない」と、バトウする者さえ出てきました。1888年ついに彼は研究の安全地をもとめパリに行き、パストゥールを訪問したのでした。
 
 医学界の先覚者であるパストゥールは、メチニコフの説明を聴き、「私も食細胞と病原体との関係に興味をもつています。君の考えは正しい」と言って、同情を表わしました。パストゥールは、彼のために研究室を開放して優遇したのでした。
 
 ドイツとオーストリアの学者は、一斉に食菌説に反対しました。バウムガルデンのごときは、毎年雑誌に食細胞の功撃を書きました。ベーリングも、その反対の急先鋒となって、ラットの血清は炭疽菌を殺すが、食菌作用とはなんら関係はないと論じました。
 
 輝きの日がついに来ました。メチニコフは一大著書を発行して、食細胞について詳しく述べたのです。20年前には「生を罪」と考え幾度か自らその生命を断(た)とうとした彼は、今はパリの郊外にいて近所の子どもより 「オジイちゃん、クリスマスおめでとう」と、声をかけられるのを楽しむようになったのでした。
 
5−2.大腸内細菌の繁殖を防ぐためにヨーグルトを奨励
 老衰を防ぐにはどうすればよいのか、老衰の原因はなんであろうか、これがメチニコフの注目した問題でありました。老衰の原因は、動脈の硬化であろう。動脈硬化の原因は、アルコールでありまた梅毒であるというのが彼の考えでした。この時、メチニコフは5,000フランの賞金を手に入れ、ルーは賞金1,000,000フランを貰いました。その他にメチニコフはロシアの富豪より30,000フランを贈られたのでした。
 
 そこでメチニコフは、ルーと相談して、これらの賞金全部を梅毒の原因と動脈硬化予防の研究とに提供することにしました。ルーとメチニコフは梅毒患者より病毒をとり、それをチンパンジーに接種して梅毒を移すことに成功しました。メチイコフはチンパンジーの耳に病毒を接種した後24時間経ってその耳を切断したら、チンパンジーは健全であったことを観察して、彼は梅毒の病毒は一定時間その感染局部に存在することを確認したのでした。
 
 この時、メイソンヌーブという勇敢な学生が進んで自ら試験台を申し出たので、メチニコフは新鮮な病毒を採りこれをこの学生に接種しました。対照としてチンパンジーにも接種しました。学生には1時間経ってカロメル軟膏を塗擦したのでした。この学生はその後何ら病症を呈さなかったが、対照のチンパンジーは梅毒の病症を示しました。
 
 こうして、メチニコフはカロメル軟膏の塗擦が梅毒の予防に効果があることを、チンパンジーや人体を用いて立証したのでした。この実験が公にされた時、一部の人々は、これは道徳的・人道的問題だとしてメチニコフを功撃しました。メチニコフは、梅毒の伝播を予防しようとする研究を功撃することこそ、道徳的問題ではないのかと反論したというのです。
 
 次に彼は、第二の問題の解決に向かいました。動脈の硬化は、自家中毒によるものである。腸内の細菌が作り出す毒素は、自家中毒の原因となる。人は大腸を切り取っても生活することができる。大腸はこのような細菌の宿るところである、という意見でありました。これにも、たちまち反対論が起こりました。象のように巨大な大腸をもっている動物も長寿である。人類は大腸があっても、地球上で最長命を保った生物の一つであるという反論でありました。
 
 メチニコフは、ブルガリアの住民には100歳以上の長寿者の多いことと、この土地ではブルガリア菌で作ったヨーグルトを常用することを聞いて、これこそ大腸内細菌の繁殖を防ぎ、自家中毒を防ぐ原因であると信じました。ヨーグルトを奨励する会社をつくってこれを売り出したのです。彼自身も、またこのヨーグルトを毎日大量に飲用しました。そうして、彼は、71歳まで生きながらえました。ブルガリア菌によるヨーグルトは、伝統的に今日も世界各国で、またわが国にでも広く販売されています。
 
 
6.北里 柴三郎 (嘉永5年-昭和6年、1852-1931)
6−1.破傷風菌の純粋培養に世界に先駆けて成功する
 ペルーの黒船艦隊が開国を迫って来た嘉永5年(1852年)、熊本県阿蘇郡北里村に初声をあげた北里柴三郎は、やや長じて明治維新に遭遇しました。その後、熊本の医学所に入学(明治4年)した彼は、オランダ人教師マンスフェンドに接して西洋文化の空気に触れ、医学を志すことになりました。
 
 明治15年東京大学を32才で卒業して、直ちに内務省衛生局の公務員となり、明治18年ドイツ国への派遣の辞令を受け、翌明治19年1月ベルリンに着き、コッホ研究所でローベルト・コッホに師事しました(1885年)。
 
 コッホの研究所にあって研鑚することすでに満3年、1887年明治21年コッホの細菌に関する研究は、世界の的となっていました。この時、更に2か年の留学継続を許可された北里先生は、喜び勇んで破傷風の研究に突進した
 
 これより以前に、ゲッチンゲン大学のフリューグ教授は、助手のニコラエル医師とともに破傷風菌を研究した。しかし、破傷風菌の培養には成功せず、「破傷風菌は純培養が出来得るものでなく、他の細菌と共生的に増殖し得るものである。われらはこれを共生と称する」と報告したのです(1885年)。
 
 この論文を読んだ北里先生の眼は光った。純培養が破傷風菌に限って不可能という理由がどこにあるのであろうか、と一人心に叫んだのでありました。こう考えた時、彼の勇猛心はただ突進するのみでした。
 
 ある日、研究所内で開催された抄読会の席上で北里は、自分の意見を語ると、同僚のフランゲ、ファイフェル、ベーリングなどは冷然とこれを迎えたが、コッホは北里先生の平素から何かをなしとげなければ止まない熱心さを知っていたので、直ちに、フリューゲの研究を追試しなさいと命じました。と同時にもし破傷風菌の純培養に成功すれば、正に細菌学における最高の勲章に値すると激励もしたのでした。
 
 ベルリン陸軍衛戍(えいじゅ)病院より破傷風患者の膿汁を入手し、破傷風菌の培養を試みました。高層培地に穿刺培養を行なってみると、多くの細菌は好んで培地の上部近くに発育するのに反し、破傷風菌は下深部にのみ発育するのを見て、「シメタ」とテーブルをたたいたといわれています。
 
 この時、先生の脳底にひらめいたのは、酸素(さんそ)を嫌うこと、すなわち、破傷風菌は嫌気性菌であろうということでした。そこで、高層培養をためしに80℃に加熱して、上層部の雑菌を死滅させその後続いて培養しました。培地の表面には細菌の発育を認めないのに、深部にはミノムシ状の細菌集落ができているのを発見しました。これより染色標本を作って調べると、特徴的な太鼓バチ状の細菌を認めました。
 
 そこで、この純培養をコッホ先生に示すと、コッホ先生は大いに喜び、「破傷風菌の純培養は北里によって成功した」と宣言したのです。これによって、北里の名前は一時に世界の隅々にまで響きわたりました。北里先生の研究は、もちろん、この破傷風菌の純培養をもって、動物実験を行ない、破傷風を発症させることに成功した。また、水素を培地に通し嫌気性菌の培養法に成功した。亀形コルベンと称する特徴的な形をした北里フラスコを造ったのは、この時でありました。
 
 キップの装置を使用して培地に水素ガスを通し、そうして、充分に水素によって空気を排除したと思うとき、排出管の先へ火を点火してみるのでした。この時、空気の排出が不充分であると爆発したのです。
 
 
 この失敗は破傷風菌培養を試みるとき、誰でも1度はある苦々しい経験である。北里先生もこの失敗をやった。北里フラスコの硝子片が、四方へ飛散しました。隣席で顕微鏡をのぞいていたドーニィツ博士(この人は東京帝国大学の教師として10余年も、日本で教鞭をとった人である)は、頭を押えて「バカモノー、またヤリヤガッター」とどなるのです。見ると、テカテカした頭から血が流れている。ドーニィツがビックリしたのももっともです。燐の部屋からコッホが来て、静かにこの騒ぎをながめて、こんな失策があるだろうと注意を与えようと思っていたのだと苦笑するのみでした。
 
 ドーニィツはヤッキとなって北里の不注意だと憤慨すると、コッホはすましたもので「ソー、それは良かった」と言っただけで、北里先生に小言の一つも言わなかった。ドーニィツは不満でたまらないが、仕方なしに沈黙してしまった。コッホがいかに北里先生を、可愛がっていたかがこれによっても判かる。
 
6−2.破傷風の症状は毒素によることを証明
 破傷風菌のブイヨン培養を細菌濾過器で処理して無菌液を作製し、これを動物に注射しました。するとやはり破傷風の症状を呈した。この時、北里先生の頭は毒素という菌産生物に向っていました。そうして、麻薬であるコカインやモルヒネを連想したのです。コカインやモルヒネは増量的に用いれば、漸次これに慣れて中毒になる。
 
 先ず、破傷風毒素の致死量以下をマウスに注射し、一定日の後致死量またはそれ以上の量を注射した。しかし、そのマウスは何の症状を起こすことなく元気でありました。
 
6−3.免疫現象と血清療法の発見
 さて、この慣れの性質、すなわち免疫の原因はどこにあるのだろうか。最初に試験されたのは、血清でありました。免疫にした動物の血清と毒素とを混ぜてマウスに注射すると、これもまた症状を起こさない。さて、これこそ、毒素を無毒にする物は、血清中に存在することを示すのである。
 
 この独創的な困難な試験を完成して、コッホに示した時、コッホの喜びはいかに大きかったか想像に余りある。また、先生の喜びと満足とは、その絶頂に達したというべきでありましょう。これが、抗毒素即ち免疫体の発見の紀元なのです。
 
 コッホは、北里先生の研究の方法とその成績とを静かに聴取した後、北里先生に破傷風血清の治療への応用研究に進むべきことを勧めました。また、一方ディフテリア菌の研究を担当していたベーリングを呼んで、北里の方法に従って、免疫及び抗毒素の試験を行なうべきことを命じました。そうして、その成績は「ディフテリア及び破傷風の血清療法に就いて」と題して、ドイツ医学週報に発表されました。これが正に破傷風菌純培養に成功した翌年の1891年です。血清療法は、このようにして生まれたのでした。
 
6−4.明治天皇より恩賜金を拝受
 1890年 (明治23年8月) ベルリンで開かれた第10回万国医学会において、ローベル・コッホは、初めてツベルクリンを発表しました。しかし、コッホは単に結核の治療剤としての希望を述べたのみで、また、ツベルクリンの名称も付けなかったが、この報告が全世界に大きな衝動を与えたのは、私(志賀先生)どもの記憶に今なお新たなところであります。北里先生は、コッホの忠実なかつ信頼の厚い助手として、ツベルクリンの動物実験に参加しました。
 
 北里先生のドイツ留学は 3か年より5か年に延長されたけれども、この期間もついに明治23年(1890年)で尽きました。そうして、この時、コッホのツベルクリンの発表があったのです。当該研究が学界の重題問題であり、またわが国にとっても非常に重要でありました。
 
 このことが、明治天皇の耳に達して、格別のお思召により恩賜を拝受したのです。更に1か年ドイツに滞在し、引き続き肺結核治療法の研究に従事することが可能となったのです。実に学界における空前の名誉なことです。この名誉を拝受した北里先生は、一生を結核治療に捧げようと決心したのはもとより当然でありました。
 
 ドイツにおける7度目のクリスマスをなごりとして、先生は帰国の途に就いたのでした。ドイツ政府は特に先生に対して、プロフェサー(教授)の称号を授与して学術上における貢献を表彰しました。外国人としてこの称号を受けたのは、前後いまだかって存在しないのです。
 
6−5.福沢翁による私立伝染病研究所の創設
 帰国した先生は、福沢翁の助力によって、芝公園内に私立研究所を設けました。これが翌年私立衛生会の所管に移り、更に転じて、官立伝染病研究所となりました。大正3年11月内務省より文部省に移管された時、私立北里研究所を設立し、また慶応医科大学を創立してその学部長となり、昭和6年6月に死去されました。
 
 
7.エミール・アドルフ・ベーリング Emil Adolf von Behring (1854〜1917年)とエミール・ルー  Emile Roux (1853〜1933年)
7−1.コッホの助手となる
 ベーリングは、ドイツの古都ハンスドルフに生まれた。経済的事情からベルリンの陸軍医科専門学校に進学し、卒業後は数年間軍務につきました。軍医として勤務していた期間に、ヨードホルムに殺菌作用のあることを発見しました。
 
 ベーリングの才能を陸軍医務局は認め、薬理学者ピングの下で勉強させる機会を与えましたが、本人の希望で細菌学者ローベル・コッホの助手として働くようになりました。 このことがベーリングの人生を大きく変えたのでした。
 
7−2.ディフテリア菌の純培養に成功
 レフレルは、ディフテリアの子どもの咽頭を検査して,一種の細菌の存在を発見しました。ついで,1884年にディフテリア菌の純培養に成功しました。 ディフテリア菌をモルモットに接種しますと,接種2-3日で死んでしまいます。
 
 しかし、ディフテリア菌を注射したモルモットの接種部を検査すると他の細菌を接種した場合と少し違って、接種部には少数の菌が発見されるのみでありました。また他の内臓にはディフテリア菌を見出すことができなかったのです。これはなんだろう、興味のある新しい現象の発見でありした。
 
7−3.ディフテリア菌の毒素産出
 パストゥール研究所のルーは、レフレルの実験報告を読み、ディフテリア菌は毒素を産出してモルモットを死なすのであろうと想像したのです。ここでルーは、同じパストゥール研究所のシャンベランが発明した「シャンベラン濾過器」を用いディフテリア菌のブイヨン培養液を濾過してみました。細菌を含まない濾過液をモルモットに注射したら、モルモットは死にましたことから、モルモットを殺すほど強力な毒素の存在を証明したのでした。
 
 この時,コッホ研究所のベーリングは、ディフテリア菌の毒素を無毒化する坑毒素を発見したのでした。ルーは、毒素をもって馬を免疫して、強力な抗毒素を作ることに成功しました。これをディフテリア患者に注射して、患者の治療を試み、その抗毒素の有効な効果を確認することができました。
 
 ルーはその成績をブタペストでの学会において報告しました。当時ディフテリア患者は60%もが死亡したましが、抗毒素を用いた血清治療によって10〜16%にまで患者の死亡率を減少させることができるようになりました。
 
7−4.ディフテリアの治療に成功
 コッホ研究所は、ベルリン市のシューマン街の角の「三角」と呼ばれた所にありました。コッホは、片田舎のウオルスタレインの町医者ではなくてプロフェッサーとなり,数名の助手を指導して、細菌の研究にわきめもふらずに没頭していました。
 
 「zum Vaterland父なる国へ」の歌う燃えるような愛国的精神をもって研究室にこもる助手には、フランスのエミール・ルーとその名も同じだったエミール・ベーリングを初めガフキー、レフレル,エーリッヒり、日本よりは血気盛んな青年北里もこれに参加して,鋭意研究に従事していました。
 
 この時ベーリングは,30代の軍医でありました。彼は,二つの学問上の信条を持っていました。1) 血液は生体を循環する最も不可思議なものである2)人体及び動物体内には病原菌を撲減し得る化学的物質が存在するはずである。この第2の信条から彼は、ディフリアの治療を試みたのです。
 
 ディフテリア菌を接種したモルモットに、金化合物,ナフチールアミンなど多くの試薬を注射してみました。しかし、ディフテリアは治らないで、動物は薬物のために早く死んでしまいました。ベーリングは、最後に三塩化ヨードを試みました。これは試験管内での殺菌力が極めて強いので、必ず動物体内においても同様にディフテリア菌に対して殺菌カがあるだろと信じていましたたが,これもまた失敗に終わりました。
 
 パストゥール研究所のルーの報告を読んで、ディフテリア菌の培養液の濾汁は毒素を含有するのを知ったベーリングは、三塩化ヨードの試験で死を免れたモルモットにこの毒素を注射してみました。所が何の症状も呈さないで全て生存することを発見したのです。すなわちこのモルモットは、ディフテリア菌に免疫を得たと考えました。
 
 さらにベーリングの考えは、この免疫動物の血液に目標を向けました。免疫動物の血液を採取し、その血清にディフテリア菌の産生した毒素を混合し、モルモットに注射してみました。動物は死を免かれるのをみてベーリングは、飛び上がるほどに喜びました。この血清には、抗毒を無毒化する抗毒素と名付くべきものが存在するのである。こうしてベーリングは多数の試験を反覆した後、これをコッホに示して説明しました。
 
 1892年この免疫血清は、初めてベルグマン医師の診療所で、ディフテリアの子供の治療に試みられ、その偉大な効果に全ての者が驚かされました。アメリカより派遣された衛生技師ビッグスはニューヨークのパークに電報で、「ディフテリア治療用抗毒素の製造に成功」と伝えました。これはまさに全世界に鳴り響こうとする第一声であった。
 
 ベーリングは、血清やワクチン製造に関する研究のために、ベーリング社を設立しました。血清とワクチンの販売から経済的に豊になりました。広大な構地に多数の実験動物が飼育されていました。1896年42才の時、18才の娘エルス・スピノラと結婚しました。1901年には「ジフテリア治療血清の創始」の功績により第一回ノーベル賞を受賞しました。7人の子供の父として研究に専念したが、1917年3月に永眠しました。
 
 
 
平成19年4月25日
編集・著作 田口 文章(ふみあき)

 
 

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