「おもな対象読者」
中学生から大学生までの幅広い年齢層の皆さんに読んでもらいたい。
細菌学を発展させた大先輩たちがいかに苦労したかを読み取ってもらいたいからです。
「細菌学者歴伝」
赤痢菌の発見者で国際的な細菌学者である志賀潔先生は、細菌学者歴伝と題して、微生物学の創造に貢献した大学者についてのエピソードを書き残してくれています。そのなかから数名の代表的学者を科学の発展史の一部として選び出してここに紹介します。
シリーズ「細菌学者・志賀潔先生に敬礼」というタイトルであらためて若い青少年にも読めるように書き直しを試みました。志賀潔先生から若者へのメッセージです。
本 文 目 次
ウォルター・リード以下、次号
14.リード、ウォルター
15.リケッツ、ハワード・ティラー
16.プロブァセック、スタニスラス
17.志賀 潔
編集・著作 田口 文章
第52話 細菌学者・志賀潔先生に敬礼(けいれい) その5
11.梅野 信吉 (文久2年〜昭和5年, 1862-1930)
11−1 子牛の体で天然痘ウイルスを増やす
梅野信吉は、文久2年1862年 福岡県に生まれる。明治17年1884年に私立獣医学校を卒業し、福岡県の巡回(じゅんかい)獣医師に任命される。
獣医学博士である梅野信吉は、明治25年に北里柴三郎博士が私立染病研究所を創設したその時、研究所に採用されて血清製造技術部の主任となりました。明治25年以来40年間、忠実にその職務を果たすほどの努力家でありました。先輩を厚くうやまい、理屈(りくつ)の通らないことには何ごとも恐れない強い意気ごみがありした。しかも、研究にはとても熱心で、観察力(かんさつりょく)は緻密(ちみつ)な人でありました。
免疫血清の製造のかたわら牛痘苗(ぎゅうとうびょう、天然痘のワクチン)の研究に勢力(せいりょく)を注ぎ、ついに犢体継代法(とくたいけいだいほう)を完成させました。
この犢(とく、仔牛のこと)体継代法(= 子牛の体でウイルスを増やす)方法を発見した梅野の説明によれば、一定面積の畑に種子をまくとき、種を数多くまくと芽は密生(みっせい)してはえるが、発育は遅く全体として小さい。これに反してまばらに種子をまくと強大に生長する。これと同じく、犢体(とくたい、仔牛のからだ)に天然痘ワクチンの種『(痘苗)ジェンナーが作り出した天然痘ワクチン用のウイルス』をうえる場合、種ウイルスをある程度希釈(きしゃく)してうすめてから接種すれば発痘(ウイルスの増殖)が強大となる。従って、痘苗(とうびょう)は代を重ねても減弱することがない。彼の 犢体継代法は、このように 自然の観察から生まれた原理に基づいたものである。このようにして、梅野信吉は牛痘苗の大量製造に、世界で初めて大成功したのです。
11−2 日本式狂犬病ワクチン
梅野は、またこの痘苗製造より考え、狂犬病のウイルスが痘苗ウイルスと同じようにグリセリンに対して抵抗力が強い点から、当該ウイルスは両者同一種に属するものと推定し、犬に対する新しい狂犬病予防ワクチンの製造法を発見しました。このワクチンは1回注射するだけで、犬を完全に免疫にさせてしまうことで、狂犬病ワクチンの発明者であるフランスのルイ・パストゥールが望んでもなし得なかったものを完成したのです。ちなみにパストゥールの狂犬病ワクチンは、10回も繰り返し注射する必要があり、国内に飼育されている犬をワクチンで免疫にすることは不可能なことでした。
これこそ、本当の狂犬病の絶滅法(ぼくめつほう)であり、そのうえ実施が容易であるので、この梅野氏法はやがて全世界で行われることになりました。この方法は梅野信吉の名とともに、世界の予防医学に永久に伝えられるものとなりました。
明治39年に狂犬病ワクチンの製造成功により勲六等旭日章を賜わったのはこの時でのことです。ハワイ在住の同胞より、精工な胸像が贈られてきました。昭和5年1930年 勲三等瑞宝章受章を受章し、67歳で逝去した。
12.エールリッヒ、パウル Ehrlich, Paul (1854-1915)
12−1 天才少年エールリッヒ
パウル・エールリッヒは,1854年3月ドイツ・シレジア地方のシュトレーレンに生まれました。ブレスラの中学に入った時,文学の先生は「生活は体験である」という題を与え、作文を命じた。エールリッヒ少年の書いた作文は,全く化学的な表現と内容でありました。生活・生命とは静かな酸化作用(さんかさよう)によって起る、また夢は脳の酸化作用の変調によって現われると書いたのです。先生はこの作文に対して「不可」の評価をしました。エールリッヒのこの話しは永く逸話(いつわ)として伝えられています。
エールリッヒは,ブレスラウ大学、ストラスブルグ大学、フライブルグ大学やライプチヒ大学などで医学を学びましだ。しかし,彼は解剖学で組織や臓器の名前をおぼえることが嫌いで,死体解剖の時間には組織切片(そしきせっぺん)を染色して細胞の構造を研究していました。
ある日、有名な教授ワルディャーは,何をやっているかとエールリッヒに質問をしました。「ハイ、教授先生 私は色素の結合の研究をしています」と答えた。ラテン語での「結合なければ働きなし」は、彼の脳裏(のうり)に深く刻まれていた座右の語でありました。
エールリッヒは、ローベルト・コッホより10才若かった。コッホの細菌学の研究に大いに感ずるところがあった。エールリッヒはコッホが結核菌を発見する以前に、結核の病巣(びょうそう)内に結核菌を顕微鏡で見ていたがなにかの結晶なのだろうと考えていた。
1882年3月にコッホが結核菌を発見したと聞いて,「これぞ本物である」と直感し、直ちにコッホ研究所に行き採用してもらった。結核菌の染色法の研究を開始したが、結核に感染してしまい、エジプトに静養のため転地したのは35歳の時であった。
1890年に健康をかいふくしたエールリッヒは、コッホ研究所に戻った。今度は免疫の研究をはじめ,植物性毒素でマウスを免疫して免疫遣伝(めんえきいでん)を証明した。また、毒素と抗毒素との関係を精細に試験した。彼の実験が常に正確な計算を伴うことは、彼の独得の研究方法でありました。
1896年にエールリッヒは、血清研究所を設立し、免疫血清の研究に従事した。エールリッヒは、ベーリングのジフテリア免疫血清の検定法(けんていほう)に満足せず、もっと確実な方法を確立しようと努力したのです。多数のモルモットに色々な組み合わせでジフテリアの毒素と抗毒素とを注射して、毒素と抗毒素は一定の倍数で一定の反応をすることを証明しました。
1899年、フランクフルト・アンマインに国立研究所が創立され、エールリッヒは所長に任命された。この研究所に「実験治療(じっけんちりょう)研究所」と名付けた、エールリッヒはこの時45歳でありました。
12−2 化学薬品で病気の治療の研究
1902年にエールリッヒは、化学物質による治療の研究に着手した。志賀潔は助手として働いたが,エールリッヒの弟子モルゲンロスやナイセルやザックスは、化学療法(かがくりょうほう)の研究を気嫌(けぎらい)してそんなことできるはずがないだろうと考えていました。
化学療法は,エールリッヒの20年来の抱負(ほうふ)を実現したのである。大学卒業後フローリッヒとゲルハルトの内科教室の助手となり、タウリン、コカイン、メチレン青を兎に注射して、化学物質の臓器への結合する状態を実験しました。この実験は生体染色(生きている細胞の染色)のはじめである。
これによれば,細胞はいろいろなレセフター(受容体)を有し,これが細胞表面にあるために栄養・増殖などの生理的機能を営む。抗体産生もまたこの作用の一方法に他ならないと論ずるのが側鎖説(そくさせつ)の根拠でありました。
パストゥール研究所のラベランは、トリパソームを発見し、マウスにこれを接種したところ,1〜2日にして血液中で増殖し、4〜5日にしてマウスは死んだ。これは,試験に最も便利なものである。エールリッヒは、この試験材料を得て、化学療法の実験に着手したのは、1902年すなわち志賀潔がエールリッヒに就いた翌年でありました。
こうして試験したものはアトキシンを初め数百種のアニリン色素誘導体(ゆうどうたい)で1年余をかかってしまいました。「試行錯誤(しこうさくご)の連続で、汗を流す毎日であった。エールッヒが考え志賀が汗を流した」とエールリッヒが書き残しているのは事実であった。
エールリッヒと志賀潔は,ついに一種類の色素が極めて有効であることを発見し、これに「トリパンロード」と名を与えた。しかし,数週間の後、マウスの血液に消去したと思ったトリパノソームを再びを認めた。これは色素に対し抵抗性となったものである。こうして、実地治療上には完全なものでなかったが、化学療法の理想が初めて実現されたのでした。
12−3 化学療法の父となる
1906年にフランクフルトの銀行家ゲオルゲ・シュペィヤーの未亡人フランシスカ・シュペイャーからの大金の寄付金によって、シュペイャー研究棟が建てられた。北里研究所の秦佐八郎(はたさはちろう)が、このシュペイャー研究所に入った。
エールリッヒは、スピロヘータ症の化学療法の研究に着手した。アトキシルを取り,試験管を振って実験し、アルギシルより数百の誘導体が作り得ることを見つけ、これをベルトハイム博士に相談して製造させた。秦佐八郎は、これを1つひとつ試験していくのでした。
1906年にショーダンは、梅毒(ばいどく)の病原体スピロヘータ・パリダを発見した。この報告書を読んだエールリッヒに,梅毒の化学的治療法がひらめぃた。何となれば、病原体が発見され、動物試験ができる以上、化学的療法が実験され得るわけである。その後スピロヘータ・パリダは家兎のこう丸に接種すると増殖するとの報告が出た時、秦佐八郎は直ちにその病毒を取り寄せて兎に注射した。
1909年8月31日は、記念すべき日である。 エールリッヒと秦佐八郎は、梅毒性潰瘍(ばいどくせいかいよう)を生じた 兎に606番目の試薬を注射した、その潰瘍は乾燥しその上萎縮(いしゅく)して治り、またスピロヘータが消失するのを発見したのである。ベルハイム博士も来てみて驚いた。まもなく,各国より見学に来る学者が引きも切らぬ盛状況を呈した。
エールリッヒは、親友コナラート・アルトにその606号を送って,患者に実験させ,学界にその結果を発表し、エールリッヒは606号(サルバルサンと呼ぶ)の発見と化学的構成と動物実験とについて講演した。
エールリッヒは,先ず606号を1万人の梅毒患者に接種して、その効果を確かめた後,世に出そうと決心した。1910年中には65,000箇のサルバルサンが各他の官公立病院に送り出された。
エールリッヒが考え、秦佐八郎がもくもくと試験を続けた結果、606番目の試薬606号・サルバルサンが発見された。これは化学物質による病気の治療法の最初で、その後にサルバルサンや多くの抗生物質などの発見への道を開いた。この人類初の業績から「エールリッヒと秦佐八郎は化学療法の父」と呼ばれるようになりました。
13.秦 佐八郎 (明治6年-昭和13年,1873-1938)
秦佐八郎(はたさはちろう)は、明治6年 (1873年)島根県にて山根道恭の8男として生まれ,明治20年 (1887年)後継ぎとなるべき男子がいなかった医家秦徳太家の養子になりました。岡山第三高等学校医学部に入学した。秦佐八郎の非几な才能は、在学中からを認められ,卒業後は井上・荒木両教授につき内科学及び医化学を学びました。
秦佐八郎は、明治31年に上京して伝染病研究所に入り,北里柴三郎所長の下で細菌学を学び、ペストの研究に着手しました。彼の明晰(めいせき)な頭脳と精緻(せいち)な考察力とで,着々と業績を挙げました。
明治40年に北里研究所からドイツに留学し,初めコッホ研究所に入り,次いでモアビット病理研究所に転出し,更に明治42年2月にフランクフルトの実験治療研究所に移って,エールリッヒの下で化学療法の研究をおこないました。
初めは,回帰熱(かいきねつ)スピロヘータの動物実験を行なっていましたが,たまたまイタリアで梅毒スビロヘータの増殖が家兎(かと)の睾丸(こうがん)に接種することで成功したのを聞くと,直ちにイクリアに出かけて行った。家兎睾丸の材料を貰い受けてフランクフルトの実験治療研究所に戻ると、ほとんど寝食(しんしょく)を忘れてその実験治療の研究に従事した。
その結果、大いにエールリッヒの信頼を得た。そして,ついに606号 (サルバルサン) の実験に成功して,世界に化学療法の秦佐八郎の名声を広めた。ドイツから帰国すると北里研究所で梅毒の研究に没頭し、そのご慶応大学の医学部の教授を務めた。
明治45年7月に医学博土の学位を受け,昭和8年に帝国学士院委員を仰せ付けられた。昭和13年11月22日に66歳にて病死しました。
平成20年4月25日
編集・著作 田口 文章(ふみあき)
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