127.黄熱が与えたノーベル賞と死 . 12-22-98.@ 黄熱は弾丸より強し. 1898年にスペイン領であったキューバでアメリカとスペインとの間で戦争が勃発した。1900年のキューバにおける Yellow fever黄熱の猛威は、悲惨さを極め数千人のアメリカ兵が感染して死亡しました。その死者の数は、スペイン兵の弾丸に打たれて死んだのよりも多かったと言われています。アメリカ陸軍の最高指揮者であったGeneral Leonard Woodレオナルド・ウッド大将の指揮していた将兵の3分の1は黄熱で斃れたのでした。ウッド大将は、スペインとの戦いに勝利し、キューバを占領したが、黄熱の敵には震えあがってしまった。ワシントンの大統領よりハバナのウッド大将に重大電令が発せらたのは、1900年6月26日であった。Walter Reedウォルター・リード陸軍軍医大佐は、黄熱の原因を究明するための黄熱研究委員会の委員長としての特別使命を受けて,キューバに到着した。 黄熱研究委員会の委員として、リードとともにキューバに来たのは,Dr. James Carrollジェームス・キャロル博士、Dr. Jesse Lazearジェス・ラゼアル細菌学者、キュウバ人のAristides Agramonteアリスティデス・アグラモンテの3人であった。この委員会の第一の目的は,病原体の発見であった。
A 黄熱委員会の人体実験. リードは、黄熱患者の発生状態を観察した結果,黄熱は決して患者より患者に伝染するのではない、患者のでた家屋より一定の距離がある家屋からは患者はでないこと等と、患者が死んだ後2週間をおいて突然にまた患者が発生したりすること等を総合的に考えて、昆虫に病毒が伝わって一定の発育を遂げると患者が発生すると考えるより外はないと決断しました。 キューバで黄熱が狂暴を極めた時,原因については色々な説がありました。永くキューバで開業している眼科医Dr. Carlos Finlayキルロス・フィンレーは,黄熱は蚊によって伝染すると主張していたが、これをまともに考える者は居なかった。 委員会は患者の血液その他を徹底的に検査し培養を試みましたが,なんの情報も得られずすべて陰性に終わりました。リードは,ついにフィンレー博士を呼んで,彼の考えを聴いた。フィンレーは、斑点のある蚊の卵を示して,これが黄熱の伝播者であると話した。 キャロルは自分の身体を提供して,感染実験を行いたいとリードに申し出ました。1900年8月27日にラゼアルが黄熱患者の血液を吸った蚊を取り,これをキャロルと志願兵ウイリアム・ディーンの二人の腕に蚊を着けました。志願した2人は、黄熱に感染したが幸いにして快復しました。しかし、ラザニマは、研究中に自分で飼育していた蚊が,自分の手甲を刺しているのを見てしまった。時は9月13日であった。翌日彼は発熱し遂に黄熱に罹り,1900年9月25日に死亡しました。 そこでリードは、ウッド大将に面会して研究の成績を示し,さらに研究費を請求しました。リードは、ここに人体実験という人道に対する戦争を開始するのでした。実験の被験者としてのボランティアには,200ドル(現在の200万円程度?)を与えることにした。 実験室の床や寝具は、すべて消毒されたものを備えていた。ここに、John J. Moranジョン・モランという者が人道のためと自分自身を実験に提供しました。もちろん手当金200ドルは,受け取りませんでした。1900年12月21日の正午彼は水浴びをして身体をきれいにして2号室に入りました。リードとキャロルは15匹の雄蚊を室内に放ちました。モランはベットに横たわるや,すぐに蚊に襲われました。30分間の間に7回も刺されたそうです。クリスマスの朝モランは発病して、クリスマスのプレゼントはその枕頭に淋しく飾られていました。しかし,幸いにして彼は快復して、余生を平和に送ることができたそうです。キャロルは,人体実験を実施した6年後(1907年)に死亡しました。黄熱のためという人もいる。数十人の志願者が実験に参加し、半数近い人々が帰らぬ人となって実験は終了しました。その後Stegomyiaステゴミアという種類の蚊(熱帯シマカ)の撲滅をはかり、3か月にして黄熱の発生を絶つことができたのでした。
B 黄熱研究者のあいつぐ殉職. 北里研究所から米国ペンシルバニア大学に渡り、ロックフェラー研究所に転出した野口英世は,在米中前後4回にわたり南米へ遠征し,黄熱患者の血液 (27例中6例) にレプトスピラという微生物を発見しました。しかし,ここで彼の研究心を奮起させた事件がおこりました。Adrian Stokesアードリアン・ストークスの研究発表で,アフリカの黄熱にはレプトスピラを証明できない、黄熱の病原体は細菌の濾過器を通過する濾過性だというのでした。 野口英世は、ストークスの説を否定し自説を再確認する必要から、ついにアフリカに行く決心をしました。いよいよ黄熱の研究を本格的に開始する日がきたのです。1927年11月17日Gold CoastゴールドコーストのAccraアクラに上陸し、直ちに研究室を作って黄熱の研究に着手しました。やがて野口は、自分の考えである黄熱のレプトスピラ説を自ら否定し、ストークスが主張する黄熱の濾過性病毒を確認して、アフリカにおける研究を終らせ、帰国の準備を始めました。しかし、不幸にもこの時、野口はすでに黄熱に感染していたのでした。症状はたちまた増悪し、ついに 1928年5月21日にアフリカで永眠したのでした。 英国の病理学者Dr.Youngヤングは、アクラにいて死亡した野口の研究結果を整理しようとしているうちに、ヤングも黄熱に罹り,野口の後を追って 5月29日に亡くなりました。ストークスも黄熱の濾過性病毒(ウイルス)を証明した後,間もなく黄熱に感染して死亡したのでした。三人の黄熱研究者は,相前後してアフリカの地において,黄熱病研究のためにその生命を棒げたのでした。 黄熱の原因追求には、リード達が実施した人体実験のポランティア、米国ロックフェラー研究所の野口英世を含む6名の幹部医師、その他多くの犠牲をだしました。
C 黄熱が与えたノーベル賞. 黄熱は、アメリカとスペインのキューバでの戦争とまたパナマ運河の建設に際しても多くの犠牲者を出した話は特に有名です。熱帯や亜熱帯地方に今日でも存在する熱帯シマカにより媒介される熱病です。 1927年になって、南アフリカ出身のDr. Max Theilerマックス・サイラーは、黄熱を実験的にサルに感染させることに成功しました。その後、1930年にサイラーは、ハツカネズミが黄熱にかかることを発見しました。その翌年、彼は、黄熱から回復した患者や実験に使ったサルの血清をハツカネズミに注射しておくと、そのネズミは黄熱に抵抗性を示し、感染を防ぐことができることを発見しました。この実験は、1900年に破傷風の予防法と治療法を確立した北里柴三郎の研究業績が基本となっています。 サイラーは、黄熱を起こす細菌濾過器を通過するウイルスを見つけだし、更にマウスの身体を何回も通過させると、サルに対する病原性が弱くなることを発見しました。この実験は、狂犬病のウイルスをウサギに何回も通過させると犬やヒトに対する病原性が弱まり、弱毒ワクチンを作り出したパストゥールの業績が下敷きにあると思われます。 ちょうどそのころ、ヒトの中枢神経を侵すポリオウイルスが試験管内で培養した細胞で増殖する大発見をアメリカ人のDr. John Endersジョン・エンダースが発表しました。現代ウイルス学の夜明けです。サイラーの発表は、ロックフェラー研究所やパストゥール研究所の研究者達も確認しました。その後、サイラーは、より安全な弱毒カウイルスの発見に専念し、ついに試験管内で培養したニワトリの細胞に継代することにより、17Dという名前の弱毒変異ウイルスを手に入れ、大量生産に成功しました。この業績が認められて1951年にノーベル賞が与えられました。 サイラーの研究は、黄熱の有効な予防法の開発という熱帯地域開発に実際的で重要な問題を解決したのでした。リードの人体実験から半世紀が経過していました。サイラーの開発したワクチンは、最も安全なワクチンとして現在も世界中で使用されています。歴史の形成にかかわった微生物のはなし第二弾です。 ノーベル賞の裏側には常に陽と陰があり、時に多くの尊い犠牲者があって初めて科学が進歩し発展してきたことを理解して頂ければ幸いです。
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