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228. 破傷風と長塚節著「土」.1‐202001

その特有な症状から呼名がつけられている病気が多々あります。痛風、破傷風、麻疹、梅毒、恐犬病、痴呆などが直ぐに思いつく病名です。ぎくっとした時に激烈な痛みを感じる俗に云う「ぎっくり腰」をドイツの人達は「悪魔の一撃(または一刺し)」と表現します。コクサッキーB群ウイルスによる「ボルンホルム病(地名に由来)」は、発熱と胸の痛み、激しい痙攣性の筋肉痛が特徴です。強烈な胸痛を「悪魔に胸を掴まれたように痛む」との喩えからDevils Gripeと欧米人は言うこともあるようです。

ウイルスによる狂犬病Rabiesや細菌による破傷風Tetanusは、神経が侵されて特有の痛みを伴う病気の代表みたいな存在です。狂犬病は、発熱、頭痛、不快感、吐き気などの初期症状から始まり、その後光や音などの刺激に対して過敏となります。喉の筋肉が過敏になると水を飲みこむことも困難となり、そのうち水の音を聞いただけでも喉が痛むようになります。このようなことから、恐水症Hydrophobiaとも呼ばれます。狂犬病に罹った犬は、どうしてか大量のヨダレを流し、人が不用意に近づくと、その一寸した音に恐怖して突然に噛みつきます。正に狂った犬なのです。

破傷風は、発展途上国ではまだ恐ろしい病気で、年間数百万人の犠牲者が出ているようです。一番多い原因の一つは、出産後にうぶ湯を使い新生児の身体を洗った時に「へその緒」からの感染です。これはうぶ湯に使う水が土などを含み破傷風菌の混入があるからと考えられています。

破傷風は、恐い病気と云われますが、どのような症状の病気なのでしょうか。現在では医学微生物学の教科書にも破傷風の病状についての詳細な記載はありません。明治45年に夏目漱石が序文を書いた長塚節による有名な著書「土」が発行されています。この「土」は、客観と写生を基調とした著者の目に映った破傷風に罹った患者の病状について極めて詳細な観察結果が描写されています。農村作家の長塚節による破傷風とは、おおよそつぎのようです。

《農夫の妻お品の容態はその夜から激変した。「口が開けなくてしょうがねえよ」と情けない声でいった。お品は顎が釘づけにされたようになって、唾を飲むにも喉が狭められたように感じた。医者はお品の病体に手をかけると、それが破傷風の徴候であることを知って恐怖心を擁いた。お品はその夕刻からにわかに痙攣が起こった。身体がびりびりと揺るぎながら手も足も引き緊められるように後へ反った。痙攣は時々発作した。病人の発作は間が短くなった。そのたびに呼吸に圧迫を感じた。その日の昼過ぎ、ただ痛い痛いというて泣訴している。「背中がしょうがねえよ」というばかりであった。医者はモルヒネを注射した。病人はしばらくして意識を回復して、ぴりぴりと身体を振るわせて、太い縄でぐっと吊るされたかと思うように後へ反りかえって、その激烈な痙攣に苦しめられた。夜になって痙攣は間断なく発作した。熱度は非常に昂進した。液体の一滴をも摂取することができないのに、汗が玉をなして垂れた。「俺ら死んだらなあ、棺桶に入れてくろうよ……」といって発作の苦悩に陥った。突然「風呂敷、風呂敷」と理由の解らぬことをいって、意識は全く不明になった。お品の足は蒲団を蹴って身体が激動した。みんなでお品の身体を抑えこもうと努めた。お品の発作が止んだ時は微かなその呼吸も止まってしまった。》

この描写を少し科学的に説明します。あごの筋肉が硬直して口が開かなくなる(専門的には開口不全と言い、英語でもlockjawと表現)ことから症状が始まります。昔のお医者さんは、この程度の前徴を診て、破傷風と診断できたようです。顔面に続いて背中および首の筋肉が硬直し、手足の硬直性痙攣へと続きます。筋肉の硬直および発熱から大量の汗をかきます。首、手や足が硬く硬直して裏側に反っくり、プロレスで俗に言う「逆エビ状」の姿勢になります。ひどい時には、頭とつま先だけが床につきお腹を上にして身体が弓のようにそっくり返り、付き添いの人が何人かで抑えても戻すことができない程硬直します。「太い縄でぐっと吊るされたかと思うように後へ反りかえって、その激烈な痙攣に苦しめられた。」がこの状態を正確に表現しています。この症状は、破傷風菌が産生する毒素が運動神経を侵し筋肉を硬直させ動かなくさせるのです。しかし、知覚神経は犯されないので意識は死の間際まで明瞭であることを表示しています。そのため、死の間際のお品は「俺ら死んだらなあ、棺桶に入れてくろうよ……」と言うことができたのです。

破傷風の病状は、破傷風菌が作る毒素によることを北里柴三郎博士が百年前に発見しました。人間のみならず羊や馬などの動物にも破傷風は罹ります。モルモットの頭の骨を開いて、脳に直接毒素をたらしても破傷風の症状がでることも実験して証明しています。ところがニワトリは、毒素液につけても、注射しても、脳に毒素をたらしても、どのようにしても破傷風にならないこも観ています。ところが、どうして運動神経は侵されるが知覚神経は侵されないのか、どうして筋肉が硬直するのか、またニワトリが破傷風菌にどうして抵抗性なのかは、現在も解明されていません。病気については、また解らないことがたくさん残されています。これからの若い人達のために遺された宝の山なのでしょう。

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