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283.ペストと命をかけて闘った軍医石神亨.5-11-2002.

授業一日目.

4月になりましたので新学年生に対して微生物学の通年の授業がまたはじまりました。例年にならい「微生物学の講義を通してなにを学ぶのか」から講義を始めます。さらに、科学における研究は未知なるものへの挑戦ですから、時には予期せぬ危険を伴うこともあります。数ある科学分野で微生物学は、この分野の研究に携わった人達の多くの尊い生命を一番多く奪った歴史があります。これから諸君が学ぶ微生物学は、多くの命をかけた先人達が遺してくれた賜物・遺物なのです。教科書に書いてある一行にも命をかけた尊い先輩達の存在があります。心して勉強してください。決して「微生物をナメルナヨ、微生物学をナメテかかると痛い目にあうよ」と続きます。今年は、命をかけてペストと闘った海軍軍医大尉石神亨の遺書を紹介しました。

石神亨の遺書をここで紹介する前に、石神がどうして遺書を書くようになったのか、その当時の状況を少し説明します。日清戦争がまさにはじまろうとしていた政情が不安であった明治27年(1894)、突如として香港でペスト(黒死病とも呼ぶ)の大流行が勃発し、そのペストを調査するために日本国政府は、伝染病研究所の北里柴三郎所長(43才)を香港に派遣しました。その時共に派遣された一行は、東京帝国大学医科大学の青山胤道教授(36才)と助手宮本淑(27才)、北里の助手として海軍から伝染病研究所に派遣されていた助手石神亨(37才)、医科大学4年の学生木下正中(25才)、内務省属官岡田義行(32才)の6人でした。

1894年6月5日に横浜港を出航したアメリカ船リオネジャネイロ号に乗り込んだ一行は、6月12日に香港に到着しました。翌6月13日、香港政庁、日本領事館、病院船(Hygeia)を訪ね、14日よりKennedy Town Hospitalで研究を開始しました。研究は順調に進展し、6月28日夜、約2週間の研究と調査が完了したので、北里と青山が主人役となり、世話になった香港政庁の要人、英国人医師Lowsonたち、日本国領事などを招き、香港ホテルで感謝と慰労の晩餐会が開かれました。

開会直前にすでに青山胤道は、左の腋の下のリンパ腺の腫れに気がついていました。自室にもどったとき、青山は39度3分の発熱があったので薬を飲んで床につきました。石神亨は、衣服を着替えるときに腋の下のリンパ腺の腫れと痛みを感じました、翌朝高熱を発しました。二人は、典型的な腺ペストの症状で死線をさまよいました。ペストで亡くなった遺体を解剖した際に感染したのでしょう。

青山と石神の二人が香港で黒死病に感染したことを日本領事館は電報で日本国政府に伝えました。そのことが国内新聞の号外で大きく報道されました。青山危篤の報を森鷗外(林太郎、陸軍軍医)が青山夫人にいち早く伝えました。「主人は出発のとき、今度は生きて還れぬかも知れぬが、研究だけは立派になし遂げておかねばならぬと非常な決心で出かけましたから、私も、主人がペストに感染したと聞きまして、最早無き命と諦めています」と婦人は気丈にも覚悟のほどを示されたという。青山は死を覚悟して香港に出かけたようです。

自分の死を覚悟した石神亨は、熱は40度、頭痛がひどいので苦しみながら4時間ほどかかけて鉛筆で遺書を書きました。

海軍軍医大尉石神亨の遺書.原文のまま.

『吾が最愛なる八重子よ。今卿(けい)にこの書を書き遺すの不幸に遭遇せしは、我が家族の一大不幸にして最も悲しむ。余は実に黒死病に罹れり。此の病に罹る者は十中八九必ず死を免れず。故に余亦死亡するものと覚悟せざる可らず。然れども命は神のものなり。如何に死を覚悟すればとて人の義務として充分なる加療を要す。余は罹病前に病を免がれんことを力め、罹病後は死を免がれんことを力めつつあるなり。若し不幸にして死なば御身及び最愛の両児如何に悲しみ、如何に嘆き、如何に生活すべきや。之を思えば涙淋々として垂る。

然れども余は信ずる。最も正直にして他愛心に富む卿なれば必ず両の愛児を愛育して完全なる人間とすることを得べし、願くば余の実子たる民、愛の両児を養育して父の子たらしめよ。

唯々気の毒なるは費用乏しきことなり。然れども貧富は常なし、又良機もありて養育費は得る道もあらんか。願くば住を京都に移し、児を同志社にて教育せんことを望む。一人は看護婦となる良からんか。

海軍より受くる一ケ年百園の金を元とし両児を養育するは実に重任なれども、余が精神は毎(つね)に熟慮するところ、願くば努力せよ。

頭痛甚しく目眩み、精神乱れて書く能はず、他は平日の事に由て推知あれ。死後の事は余は決して心配せず、余は必ず天国に登るを信ず、アーメン。6月29日夜 ホンコン・ハイゼアに於て』. 【註】病院船の船名「Hygeia」をハイゼアと表記したようです。

当時東京帝国大学医科大学を卒業すると地方の大病院の院長として迎えられ、月給は二百円ほどであったようです。北里柴三郎先生がドイツに派遣されたときの奨学金は年額千円でありました。それらを考えると、海軍から受けられるであろう年金は年額百円とはいかにも小額過ぎるように感じます。一ヵ年百円で二人の子供を養育するのは容易ではなかったと思われます。

日本の新聞各社は、号外を出して、青山と石神の研究室感染を大きく報道しました。英国人Dr.J.A.Lowson、北里、宮本と木下の必死の努力で青山と石神の二人は、奇跡的に死を免れる幸運に恵まれました。しかし、香港で開業していた医師の中原は、ただ一度ペストの臓器を洗っただけで悲しい犠牲となりました。

ここに登場した英国人の医師Lowsonとは、「236. ペスト菌発見の陰の立役者ラウソン博士.」で紹介したDr.James A. Lowsonであります。興味のある方は、236番を読んでみてください。

闘わずにして勝つ.

北里柴三郎によるペスト菌発見は、神業としか思えないほど短期間のうちに成功を収め、結果も英国のランセットと呼ばれる学術雑誌に英語で掲載しました。これは偶然の出来事ではなく、孫子の兵法にあるように「闘わずして勝つ」ための用意周到な研究計画が横浜港を出るとき既に北里の頭のなかにはありました。

ペスト菌発見のニュースは、国内はもとより世界を駆け巡りました。一行が帰国したときは、凱旋将軍のような歓迎を受けました。しかし、ペスト菌の発見の裏側には、多くの人達の国境を越えて命をかけた闘いがあったのです。これはまさに100年前の「プロジェクトX」の一こまと思えます。

医療にまつわる事故や犯罪が多く報道され、非常に残念な今日この頃です。しかし、石神亨の遺書を学生達は静かに聞いてくれました。目に涙をうかべる学生も一部いました。自分の命を惜しむ者は、基本的に将来の医療人には向きません、他人の命を救うことも他人の為に働くこともできないでしょう。石神亨のような人となりなさい、石神亨のような伴侶を探し出しなさいと。

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