森村の精神
森村は若者の教育には非常に熱心であり、慶応大学・早稲田大学・東京工業大学・日本女子大学には多額の寄付を続けた。また女子教育の先覚者として特に力を注ぎ、森村学園を最初は自宅の庭に創設した。森村の特異な話は、北里柴三郎に対する資金援助である。一面識もない北里に「自分もお手伝いしましょう」と伝染病研究所の建設に一千円、養生園には五千円も寄付を申し出た。ところが、桂太郎内閣総理大臣が明治天皇の下賜金を元に「恩賜財団済生会」を建設するために日本全国に広く呼びかけたとき、財界人はそれなりの寄付に応じたのに対して、森村市左衛門はまったく寄付に応じなかった。明治政府になってから、商取引の際「ワイロ」を要求する役人が出てきたのを嫌って、森村市左衛門は「お上」には協力しない決心をしたのが桂政府への寄付を拒んだ理由である。恩賜財団済生会が設立されたとき北里柴三郎は評議員と医務の主管に就任し、大正4年に済生会病院が開院した時には院長を兼務した。
内務省衛生局長を19年間もつとめた長与専斎は、息子又郎を森村市左衛門の弟で森村ブラザースを経営していた森村豊の娘玉と結婚させた。長与又郎は、後に東京大学医学校の教授と学長を勤めた。森村市左衛門は,福沢諭吉と極めて親しく、長男明六を慶応義塾に入学させた。一方、福沢諭吉は、長男と次男の二人を米国に留学させ、森村市左衛門に米国内での世話を依頼し、在米中の生活費や授業料などの必要経費は森村ブラザースの森村豊を経由して出されていた。森村明六は、明治25年に慶応義塾を卒業したが、卒業七年目に他界した。その五十六日後には弟森村豊も亡くした。長男と実弟の哀悼の意をあらわして森村市左衛門は「慶応義塾基本金」に六千円を寄贈した。
大隈重信が早稲田大学の理工学部を創設するときにも、森村は多額の寄付をした。森村市左衛門が「自分もお手伝いしましょう」と一千円を寄付し親友の福沢諭吉との協力で作った伝染病研究所を、親友の大隈重信内閣総理大臣が行政改革を理由に、内務省管轄の伝染病研究所を「北里に一言の断り」もなく文部省に移管し、東京大学の管理下に移してしまった。前にも述べたように、お上(政府)には協力しない森村市左衛門は、総理大臣とはいえ親友の大隈重信のこの断行をどのように観ていたのであろうか、できるものなら心境を覗いたいものである。
森村市太郎は、明治27年1月、実父五代目森村市左衛門の七回忌を機に、六代目市左衛門を襲名した。このとき54歳であった。前にも述べたように、伝染病研究所の建設時に紳商森村市左衛門が千円の寄付を申し出たとの記録があるが、この時期明治25年では森村は市左衛門をまた襲名してないので市太郎が正しいのである。
***ここに記載した内容の一部は、砂川幸雄著、「森村市左衛門の無欲の生涯」を引用させて頂きました***