二人の恩人「森村市左衛門と福沢諭吉」


  ここで、北里柴三郎にとって福沢諭吉に次ぐ恩人とおもわれる紳商森村市左衛門という人物に触れてみよう。森村家は江戸京橋に代々続く武具や馬具を商う老舗で、森村市太郎はその6代目として1839年に誕生した。有栖川宮の率いる薩長連合の倒幕軍が江戸を無血で開城した。その後、板垣退助が官軍の参謀の一人として会津征伐に従軍していた時、森村市太郎は鉄砲、弾薬や被服などを調達して会津まで運搬し板垣退助軍に納入した。その後彼は、フランス軍人より西洋式馬具の製造法を教わり、国内で最初の近代的な西洋馬具を明治政府に納入し、その製造技術の優秀さが認められた。日米修好通商条約を批准する政府代表の渡米団80名の着用する服装と米国大統領および米国政府要人30人分へのオミヤゲ品の調達、および福沢諭吉も同行したカン臨丸での米国視察団96名の渡米準備品などを特命で納入した。これらは、森村市太郎の森村組の輝ける業績の始まりである。

 渡米団が使用する外貨を横浜の外国貿易商人から調達した際、外国商人との折衝の仕方を知らなかった為に、彼らの言いなりに値切られてしまった。「日本の純金の貨幣がメキシコドルの銀貨に交換された」ことを憂慮し、これでは日本は保有する金塊の海外への流出を防げないと森村は痛感した。

 そこで森村は、外国貿易を自分で起こさなければ日本国の将来は危ういと決断し、全財産を処分して弟の森村豊を米国の大学に留学させ商業を学ばせた。大学卒業後の森村豊をニューヨークにそのまま駐在させ、森村ブラザースという名前の会社を組織して、雑貨・洋食器を含む商品の貿易業を開始した。

 一方、福沢諭吉は、長男一太郎と次男捨次郎を米国に留学させたとき、金銭的な面倒を森村ブラザースの森村豊に依頼した。日本人が洋服を着用するようになったことを見て、森村は東京銀座にモリムラ・テーラーという仕立て屋を開業した。このことが、寄付者として紳商森村市左衛門という記載に残っているのである。その後、第一次世界大戦を契機に、森村銀行(後に三菱銀行と合併)、および陶磁器五大企業である衛生陶器のTOTO,タイルのINAX,碍子の日本ガイシ、洋食器のノリタケ、プラグの日本特殊陶業等の設立と統率をした。