土筆ケ岡養生園の誕生
当時の日本国内では結核は最も恐ろしい死を意味する伝染病であった。伝染病研究所を建てると同時に、福沢諭吉は北里柴三郎に対して結核を治療するための療養所の設立を勧めた。そして東京・白金三光町にある福沢個人の土地を提供して、福沢諭吉が自ら命名した「土筆ケ岡養生園」を建てた。その建設費は福沢諭吉が半分出したが、残りの半分を引き受けたのはまたもや森村市左衛門であった。福沢諭吉の出納帳を調べると、養生園に関する森村市左衛門が経営する森村組からの入金額は五千円と計算できるそうである(砂川幸雄著、森村市左衛門の無欲の生涯、草思社、平成10年)。
日本で初めての結核療養所は、明治26年9月に開院した。北里の名声を慕って、患者が外国からも押しかけてきた。土筆ケ岡養生園の六十余の病室は常に満室で、増築につぐ増築の盛況であった。その跡地に現在は北里研究所付属病院が建っている。
明治25(1892)年11月に開設した伝染病研究所は、管理運営が私立日本衛生会から内務省移管を経て、大正3(1914)年に行政改革の名目で文部省に移され、東京大学の管理下に置かれるようになった。そこで北里は、今度は自らの手で「北里研究所」を設立し、土筆ケ岡養生園の隣接地に建物を建てた(大正3年)。福沢諭吉と森村市左衛門によって建立された養生園からの資金で、独力で建設できたのである。