伝染病研究所の創設
北里柴三郎は、ベルリン滞在中に、英国ケンブリッジ大学の細菌学者ヘンキンスからケンブリッジ大学に細菌学研究所を作から所長として就任してくれとの要請を受けた。しかし、北里は、「自分は日本の公衆衛生の向上と明治天皇からの恩に報いるために日本のために尽くしたいから」との理由を述べて、ケンブリッジ大学からの招請に対して丁重にお断りして帰国した。その北里に対して日本国政府は冷淡で、「日本に伝染病研究所を設立したい」という彼の希望を聞き入れなかった。しかも内務省への復職も許さず、失職状態に放り置いたのである(田口・会田著 北里柴三郎の栄誉と屈辱の明治25年)。この話を親友の長与専斎・前内務省衛生局長から聞いて同情したのが慶応義塾長の福沢諭吉(続報の時事新報を出版)であった。東京・芝公園内にある自分の土地を提供し、そこに研究所を建ててあげると北里に約束したのである。長与専斎は、福沢諭吉と大阪で緒方洪庵の主宰する適塾でともにオランダ医学び、明治政府の内務省の衛正局長を19年間もつとめて、日本の医事衛生制度を確立した人である。
福沢諭吉は、大工に頼んで建坪十余坪、二階建で上下六室の小研究所と四十坪の住まいを建てて、北里に無償で提供した。そのとき「自分もお手伝いしましょう」と申し出たのが紳商森村市左衛門で、研究用の器具いっさいを取り揃える費用として金一千円(現在の一千万円?)を寄付したのである。このことは、明治25年10月前後のことと推測される。驚いたことに森村市左衛門は、「北里と一面識もないまま」千円の大金を北里個人に出したのである。この美談を伝え聞いて資金や器具を寄付する人達があいつぎ、このようにして北里柴三郎を所長とする伝染病研究所は、まったくの私費だけで実現したのである(明治25年11月)。