歴史に於ける「もしも」


 北里柴三郎は、この米国政府からの招請状にどのように応えられたのであろうか。結果としては渡米しなかったのですから、お断りしたことは間違いのない事実です。歴史に「もしも」という言葉はありませんが、「もしもプロシャ皇帝から贈られたプロフェッソル名誉称号保持者・医学博士北里柴三郎の失職状態を、長与専斎が福沢諭吉に話さず、もしも福沢諭吉が伝染病研究所の建設を明治25年9月末に決断してなく、更にもしも明治25年11月の時点で伝染病研究所が出来ていなかった」と仮定すると、多分北里は「亜米利加合衆国華盛頓府の陸軍医事博物館」の世話になっていた可能性がうかがえます。「もしも」、ここに紹介した招請を受けいれていたとすると、日本の科学史はどのようになっていたのであろうか。日本に細菌学者北里柴三郎先生は居なかったし、現在の東京大学医科学研究所(旧伝染病研究所)も、北里研究所も、土筆ケ岡養生園(現在の北里研究所附属病院)も、現在の北里大学も存在しなかった筈である。このような意味で、この度見つけ出された時事新報に記載されている手紙の存在と内容は、歴史的な意味合いをもっ大変に貴重な資料と考えられます。この手紙の存在を教えてくださった砂川幸雄氏にこの場を借りてお礼申しあげます。