フイリツプ ジヤイソンとの面識


 「北里柴三郎の栄誉と屈辱の明治25年」に記載した通り、北里柴三郎は明治25年3月28日にドイツ・ベルリンを離れ、翌日フランス・パリに到着し、ロンドンから船で4月22日にニューヨークに到着しています。米国ではボルチモア市のジュンス・ホプキンス大学の創設にかかわっていた、ベルリン時代の親友ウエルシをボルチモア病院に訪ね、北里は彼と彼の同僚達と赤痢について対話をしている。しかし、ボルチモアには一日滞在したのみですが、ワシントンには数日間滞在しているようです(中瀬安清、私信)。ところがワシントン滞在中に、どこの誰と会ったのかは記録がないので不明でした。

 北里柴三郎は、大陸横断鉄道に乗ってニューヨークを5月6日に離れ、カナダのブリティシュ・コロンビア州バンクーバーに5月14日に到着している。ニューヨークにはロンドンから4月22日に着き5月6日に離れた15日間の適当な日時に、北里はワシントンで上に紹介した手紙の送り主であるジヤイソン博士に会っていたことが、この手紙から読み取れます。

 日本で初めての伝染病研究所は、まったくの私費だけで明治25年11月に実現し、また本邦初の結核療養所「土筆ケ岡養生園」は、明治26年9月に開院した。フイリツプ ジヤイソンは、明治26年8月14日付で北里先生に米国政府からの公式な招請状を認めている。北里先生がいつこの手紙を受け取ったのかは不明であるが、8月末か9月初旬であることは間違いない。それは、「土筆ケ岡養生園」の開院前後の北里にしては、極めて多忙な折りであったと推測されます。それから1ヶ月程後に発行された9月30日号の時事新報に手紙が掲載されたのです。