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420. 「安全と信用」米国産牛肉問題に寄せて.1-27-2006.
 
米国産牛肉で問題がまた発生しています。TVのニュースで見せた牛肉の塊には、背骨がそのまま付いていました。米国産牛肉輸入の賛否は別としても、結局のところ、米国の牛肉関係者には約束事を守る意思が最初からあまりないように感じます。国でも人でも、「約束事」というものがあって、それを守る事から社会が成り立っています。信用を得るのは難しいけれども、信用を落とすのはいとも簡単です。そして、一度落ちた信用を回復するのは更に難しいと思います。これは、米国産牛肉のみならず、米国の信用そのものにも関わってくると思います。それに加えて、輸入再開の決定を下した日本政府も信用できないと思います。日本国民から見れば、政府の決定は、「日本政府が安全であること」、「米国が約束事を守ること」を担保したことになります。しかし、こんな事態が発生するというのは、ろくに調査をしてない、政府の指示を真面目に聞いていないと言う事の証明になるでしょう。いくら、事前に危険部位の混入を発見したと言っても何の信用回復にもなりません。
翻って個人レベルで考えてみても、人との約束を守らない人は信用されなくなって行きます。最早、牛肉輸入再開というレベルの問題ではないと思います。約束事を真剣に守ろうとするか否かという問題だと思います。
そもそも、人類は、何万年か何百万年かの間に、集団を作り、共同で食物を獲得するなどの行動を取ってきました。これら一連の行動を成し遂げるには、互いに信用しあうという意味においての相互信頼が必要となりましょう。あいつはいつ裏切るかもしれない、という状況では共同で何かするという気にはなりませんし、身も入らないでしょう。常に警戒していなくてはならず、疑心暗鬼におちいり、そちらに意識を取られてしまいます。
簡単な例を考えてみました。歩行者が、歩行者用の信号に従って道路を渡る場面を想定してみます。交通ルールという約束事を世間一般がきちんと守っていると信用すればこそ、何も考えなくても、或いは、警戒を怠っても、安全に道路を渡ることができるのだと思います。もし、交通ルールが守られると信用していなければ、常に警戒し、自分で安全を確保して渡ることになるでしょう。安全帯まで速くたどり着こうと、本来は走る必要もいのに小走りで道路を横断しようとして、つまずいて転ばないとも限りません。信号機の無い所を横断する場面を想定して比較してみてください。
こう考えてくると、「安全」の前提として「信用」があるように思えます。そして約束事を守るということを通して、相手が信用できればこそ、その相手が安全であるとの主張が信じられるのではないでしょうか。元に戻って、米国産牛肉の輸入を考え直してみると、最初から米国の対応がいい加減で元々信用の置けるものではありませんでした。それだから、「安全だ」などと言ったところで、とても信じる気にもなりませんでした。今回の事件は、結局のところ、「信用できない者は約束事を守らない」または「約束事を守らない者は信用できない」ということを示した結果ではないかと考えています。
【完】
 
 
篤志家から教えてもらった、「すき家」の考えを416. 米国産牛肉を食べますか.12-12-2005.に掲載してあります。それによると、「すき家」は独自の現地調査で、危険部位の除去が不完全・・・・などの理由から、米国産牛肉を使いたいが使わないと宣言しています。「すき家」の考えの正当性が期せずして証明されてしまいました。米国政府は、監視官が危険部位の除去の意味を理解してなかったかのような発表をしているようですし、別な高官は、牛肉を食べてBSEになる確率は、交通事故の確率より低いと発言したようですし、また別な高官は「高が三箱に背骨が付いていたからと大騒ぎをするな」という趣旨の発言をしたと新聞で読みました。問題の本質は、監視官の意識や事故の確率の問題でないと私は考えていましたので、寄せられた意見を掲載させて貰いました。掲載の予定順を公表してあるのに対して、掲載の順番が近頃違いすぎるとのお叱りを受けています。かなり順番を狂わせていますが、少しお待ちいただきたいと想います。

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